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25. 日々の中で-8
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腹いっぱいで、水一滴すら胃袋に送り込むのは困難だ。その満腹感も手伝って、今日の会議を思い出しては、無意識に重量ある溜息がこぼれてしまう。
「じゃ、なんなのよ。さっきから何回溜息ついてんだか」
「俺さ、今度担任受け持つことになった」
今日の職員会議で言い渡され、俺の気分がどんよりと重くなった原因を明かした。
奈央も一瞬驚いたようで、大きな目を見開いてはパチクリと瞬きしながら俺を見る。
「……お気の毒」
「だろ? しかも、問題児が2人もいるクラス」
「は? 敬介じゃないよ。生徒がお気の毒って言ってんの」
……なるほどね。生徒がね。でも、俺もそう思う。俺なんかでいいのか? って。
苦しい腹に手を置きながら、今まで乏しかった責任感ってやつを、痛烈に感じていた。
『お弁当にして持ってく?』
おでんを指差し、冗談とも本気とも取れる真剣な顔つきの奈央に丁寧な断りを入れ、意外にも翌日の晩には、おでん全てを完食することが出来た。
授業が午前中だけになっていた奈央が、昼にちょこちょこと摘まんでいたらしい。
『私のお陰だね?』
なんてアイツは言ってたけど…。
『ありがとな』
と、条件反射でお礼を言ってしまう自分もどうかと思うが、お陰って言い草はおかしな話だ。
確かに、食べたいと言ったのは俺だけれど、あんな大量に作った責任は、少なからず奈央にもあるはずだ。
何故、アイツは常に上から目線なんだ?
取り敢えずは、おでん嫌いになる事は回避できたから良いけど。と、前向きに捉えておくことにした。
最悪のおでん地獄から逃れることが出来た数日後。終了式も終え、今日でこのクラス2-Aも解散となる。
4月からは留年する奴も出ず、全員無事3年へと進級だ。
最後のSHRが終わり、クラス替えでバラバラになってしまう友人達と離れがたいのか、教室はまだガヤガヤと騒がしい。
奈央は勿論、さっさと帰った。しんみりする事もなく、それどころか誰かに捕まったら大変だと思っているのか、号令と共に挨拶を済ませると、鞄を掴んで誰よりも早く教室の外へと姿を消した。
……素早い。素早すぎる。
あまりの早さに、笑いそうになるのを必死に噛み殺しながら、誰にも気付かれていないその姿を、俺は一人見送った。
その後ろ姿に『進級おめでとう』と、心の中で呟きながら。
冷めすぎるほど冷めていて、わが道を貫き通し、サッサと帰る奈央みたいな奴もいれば、大した事もしていない俺に、
「先生、色々とありがとね」
律儀にもお礼を言ってくる奴もいる。その律儀者が、随分と明るくなった柏木だった。
「少しは元気になったみたいじゃん」
「うん。……先生? 少し話せる?」
「此処じゃない方がいいか?」
「出来れば」
二人で教室を出て資料室に行ってみるものの、先約があり他の先生と生徒が使用中。場所を変え、午後に部活のある生徒の姿がまばらにある食堂で話すことになった。
コーヒーとココアを買い、外気にさえ触れなければ差し込む日差しは柔らかく、温かみが増すのを感じる窓際で、二人向き合い腰を下ろした。
「ほら、飲めよ」
「ありがとうございます。頂きます。先生はブラックなんだ。大人だね。私は砂糖とミルク入れないと飲めないよ」
そうとは限らないけどな。ココアよりもブラックが好きな女子高生知ってるし。下手したら、アイツは酒の方が好きかもしれないし。
「で? 話って何だ?」
「うん。ねぇ、先生? 大人の女性ってどんな感じ?」
「はっ?」
唐突に切り出された質問。こちらとしては戸惑うが、柏木にしてみたら本気なんだろう。
──こんなことを訊いてくると言うことは、もしかして柏木の想い人である朝倉は、年上の女が好きなのか?
しかし、大人の女ねぇ……。ここ数ヶ月で俺の考えもすっかり変わったからな。大人の女と言われても……。
考え悩む俺に、追加の質問が投げられる。
「私達ぐらいの年の男の子って、大人の女性好きだよね?」
「一概には言えないけど、10代の頃に年上に憧れる事はあったかな」
「やっぱりね」
実際、俺もそうだった。初めて好きだと思った女は年上だ。相手は俺ではなく、俺の背後にあるものに惚れていたという、オチ付きだが。
でも確かに、俺の周りにいた男連中も、年上に惹かれている奴が多かったような気がする。
「柏木の好きな奴って、朝倉春樹だろ?」
いきなり直球を投げ込む俺に、柏木は歯にかみながら頬を染めた。
「朝倉の好きな女が、もしかして年上なのか?」
続けざまの質問に、笑みは保ちながらも、その瞳は段々と悲しみを帯びていく。
「そう。ハルの彼女は年上の人。見事私ふられちゃった!」
「そっか」
「彼女は落ち着いていて、周りにもさり気なく優しく出来たり、たまにすごく色っぽく見えたり……。私も憧れてた人なんだ」
「うん」
こういう時は何と返せば良いのか、気の利いた科白が瞬時に出てこない。
「でも私、彼女に嫌われてるみたい」
「おまえが?」
「うん。そのせいで、林田さんにも水野さんにも迷惑掛けちゃったの」
突然出てきた林田と奈央の名前。
先が読めず理由を聞こうと口を開きかけた時。「先生、ごめんなさい」と、突如柏木が頭を下げた。
「うん? 何がだ?」
柏木は、テーブルに置いてあるココアのカップを両手で包み込み、顔を俯かせながら、ゆっくりと話始めた。
「私達、喧嘩の事で職員室に呼ばれたでしょ? あの喧嘩で林田さんが助けた人って……実は、私のことだったの」
「え? でも、水野も見たって」
アイツの話じゃ、林田が助けた相手は、直ぐにどっかに行ったって言ってたよな? それって、嘘だったのか?
「その日、一緒にいた林田さんがトイレに行ってる間に私が絡まれて、あの喧嘩場所に連れ出されたの。林田さんは、いるはずの場所にいなかった私を探し出してくれて、やられてる私を助けてくれたんだ」
「だったら、どうしてそう言わなかったんだ?」
「……ハルの彼女が仕向けたことだったから」
朝倉の女? 年上の女が高校生に嫌がらせ?
「だからって、正直に言えば……」
「私が林田さんに頼んだの。誰にも言わないでって。私がやられたって知ったら、いつも一緒にいる仲間が騒ぎ出すのは分かってたし、ハルにはどうしても知られたくなかったの。でも、そのせいで林田さんは川崎先生にきついこと言われて……」
そこまで言うと一旦押し黙り、息継ぎをするように深く呼吸をする柏木の次の言葉を、俺は静かに待った。
「本当のこと言おうとも思ったんだけど、あの時職員室には、私が仲の良いクラスメイトもいたから、ハルの耳に入らないように、林田さんは嘘を突き通してくれたんだ」
そう言えば……と、柏木が何かを言おうとして、遮るように口を開いた、あの時の林田を思い出す。
「じゃあ、水野は……」
「私達もあの時は驚いちゃった。まさか水野さんに見られてたとは思わなかったし、話を合わせてくれるとも思わなかったから」
奈央の奴、そんなこと一言も……。全くアイツは!
よっぽど川崎先生が嫌いだったのか、それとも、教師と言えども、横柄な態度で責める川崎先生を許せなかったのか。或いは、林田が責められてるのを庇ったのか?
どちらにせよアイツは……。
「水野も黙っていられなかったんだろ」
だけど、そうならそうと俺くらいには話してくれればいいものを。まぁ、喧嘩のことも言わなかったぐらいの奴だ。無理ってもんか。
「林田さんも水野さんも巻き込んで、本当に悪い事しちゃった。先生にも嘘ついてごめんなさい」
「大方、嘘はついてないんだし、言いたくない事は誰にだってある。林田も水野も何とも思ってないんじゃないか? あんま気にするな。それより、その嫌がらせの方は大丈夫なのか?」
「うん…………間に入ってくれた人がいて。もう大丈夫」
「本当か?」
「うん本当」
笑顔を見せた柏木だったが、
「朝倉には、やっぱり言わないのか?」
この問いにコクリと頷くと笑みを消した。
「告げ口みたいな真似はしたくない。彼女ね、私がハルの近くにいるのが嫌みたいなんだ。でも、彼女のした事は間違ってるけど、ハルが好きだからこそやったんだと思うし、それにハルが知ったら悲しむから」
「そうか」
「ハルが辛そうにしてるの、もう見たくないんだよね。ずっとね、片思いで、やっとハルの思いが通じたからさ」
「優しいな、柏木は」
「ううん。私が子供だから、ハルが辛そうにしていても何もしてあげられないだけ。だから、そう言う姿を見たくないだけなの……早く大人になりたいな」
最後は、小さな声で。でも、本気の願いであるように、真剣な面持ちで気持ちを吐露した。
「大人か」
柏木の言葉を受け継ぐようにポツリ呟く俺に、答えを導き出して欲しそうな顔で、
「どうやれば早く大人の女になれる?」
迷いもなく訊ねてくる。
素直と言うか何と言うか。そんなに大人になりたいのだろうか。
でも大人って言われても…。
「柏木、聞く相手間違ったみたいだな。それ、俺にもぜんぜん分からん」
相手が本気なだけに、この場だけ取り繕うことは出来なかった。
「え?」
何で分からないの? とでも言いたげに、柏木の瞳が真っ直ぐ俺を捉える。
しかし、これが本音だから仕方がない。
「柏木から見て、俺って大人に見えるか?」
柏木は、頭を二度ほど大きく上下に揺らし「だって大人でしょ?」 と、付け加えた。
「大人に見えるだけ。大人としての振る舞いが、お前達よりは多少上手いだけだ。ま、俺の場合だけどな。自慢じゃないが、全然成長してないって最近気付かされた。周りから見る目とは実際違うんだよ」
「そうなの?」
「ああ、そうなの」
自嘲的な笑みを零し項垂れる俺を見て、つられるように柏木もクスクスと笑った。
「大人だと思っていたのが、本気で恋した途端変わった女性も知ってるし、子供だと思っていたのが、妙に大人びてる女性も知ってるし。女ってもんが良く分からなくなった。カッコ悪いな。そう言う訳だから、残念ながら柏木を納得させる答えは俺にはないかも。でも……」
言葉を区切り柏木を見る。
「大人とか子供とか、そんな年齢に関係なくいい女はいい女なんじゃん? だから、年上の朝倉の彼女も、お前の存在に焦ったのかもな」
「それって、私もいい女って事?」
「だと思うぞ。だから無理して大人になる必要ないって。嫌でもなる時はなるもんだろうし、お前らしさを大事にした方がいい。お前の良さを分かる奴がきっといる」
「ありがとう、先生。あーあ、私の良さを気付かないハルはバカだよねー!」
柏木は辛い気持ちを押し込めて、おどけながら笑って見せた。
その後、他愛もない話を少しだけして、柏木が帰ると俺も職員室へと戻り残された仕事を片付けた。
定時に学校を後にし、いくらか陽が延びた帰り道。柏木との会話を思い出し、小さな店へと立ち寄ってから家へと急いだ。
「奈央、ただいま」
大きな箱に包まれたホールケーキを手土産に、奈央の部屋へと顔を出す。
「進級おめでとう………嘘つき娘」
付け加えた最後の言葉は聞こえない程度に言ったつもりだったのに、奈央は地獄耳だったらしい。バッチリ聞こえたようだ。
差し出す箱に一度向けた奈央の視線は、瞬く間に変化を見せ
「それって祝ってくれてるの? それとも喧嘩売ってんの? だとしたら、このケーキ。このまま敬介の顔面に飛ぶけど?」
険のこもった眼差しで、何とも物騒なことを言い出す。
顔面にケーキって、俺はお前とコントする気はサラサラねぇぞっ!
「も、勿論、お祝いに決まってんだろ」
「こんな大きなケーキ買って……」
溜息まじりに嘆く奈央に、お前にだけには言われたくないっ! と思うものの、ケーキまみれになる自分を想像すると、口にするのは憚られた。
「俺も食うよ、ちゃんと買ってきた責任は取る」
「あぁ、そう」
珍しく自分から食うと言った俺に驚いているのか、キョトンとした表情を見せる奈央。
俺だって覚悟の上で買ってきたんだよ。
自分も苦しむと分かっていながら、全てのケーキに仏語の名がつけられているあるお店で。『Temps important』と、名付けられたこのケーキを、どうしても買いたくなった。
それから俺達は、夕食を軽めに済ませ、ケーキを頬張った。
思っていたよりも結構な量を食べる奈央。絶対、苦しい筈なのに、『敬介、美味しいよ』 なんて言いながら……。
お祝いで買ってきたからと、珍しく俺に気を遣ってるのか?
奈央の皿を奪い、残りのケーキを平らげる。
「これ以上食ったら腹こわすだろ」
醒めたように見えるし、口数が少ないから分かり辛いけれど、本質は優しい女だ。そんな奈央とのひと時は、俺にとって 『Temps important』。
日本語でそれは────“大切な時間”。
「じゃ、なんなのよ。さっきから何回溜息ついてんだか」
「俺さ、今度担任受け持つことになった」
今日の職員会議で言い渡され、俺の気分がどんよりと重くなった原因を明かした。
奈央も一瞬驚いたようで、大きな目を見開いてはパチクリと瞬きしながら俺を見る。
「……お気の毒」
「だろ? しかも、問題児が2人もいるクラス」
「は? 敬介じゃないよ。生徒がお気の毒って言ってんの」
……なるほどね。生徒がね。でも、俺もそう思う。俺なんかでいいのか? って。
苦しい腹に手を置きながら、今まで乏しかった責任感ってやつを、痛烈に感じていた。
『お弁当にして持ってく?』
おでんを指差し、冗談とも本気とも取れる真剣な顔つきの奈央に丁寧な断りを入れ、意外にも翌日の晩には、おでん全てを完食することが出来た。
授業が午前中だけになっていた奈央が、昼にちょこちょこと摘まんでいたらしい。
『私のお陰だね?』
なんてアイツは言ってたけど…。
『ありがとな』
と、条件反射でお礼を言ってしまう自分もどうかと思うが、お陰って言い草はおかしな話だ。
確かに、食べたいと言ったのは俺だけれど、あんな大量に作った責任は、少なからず奈央にもあるはずだ。
何故、アイツは常に上から目線なんだ?
取り敢えずは、おでん嫌いになる事は回避できたから良いけど。と、前向きに捉えておくことにした。
最悪のおでん地獄から逃れることが出来た数日後。終了式も終え、今日でこのクラス2-Aも解散となる。
4月からは留年する奴も出ず、全員無事3年へと進級だ。
最後のSHRが終わり、クラス替えでバラバラになってしまう友人達と離れがたいのか、教室はまだガヤガヤと騒がしい。
奈央は勿論、さっさと帰った。しんみりする事もなく、それどころか誰かに捕まったら大変だと思っているのか、号令と共に挨拶を済ませると、鞄を掴んで誰よりも早く教室の外へと姿を消した。
……素早い。素早すぎる。
あまりの早さに、笑いそうになるのを必死に噛み殺しながら、誰にも気付かれていないその姿を、俺は一人見送った。
その後ろ姿に『進級おめでとう』と、心の中で呟きながら。
冷めすぎるほど冷めていて、わが道を貫き通し、サッサと帰る奈央みたいな奴もいれば、大した事もしていない俺に、
「先生、色々とありがとね」
律儀にもお礼を言ってくる奴もいる。その律儀者が、随分と明るくなった柏木だった。
「少しは元気になったみたいじゃん」
「うん。……先生? 少し話せる?」
「此処じゃない方がいいか?」
「出来れば」
二人で教室を出て資料室に行ってみるものの、先約があり他の先生と生徒が使用中。場所を変え、午後に部活のある生徒の姿がまばらにある食堂で話すことになった。
コーヒーとココアを買い、外気にさえ触れなければ差し込む日差しは柔らかく、温かみが増すのを感じる窓際で、二人向き合い腰を下ろした。
「ほら、飲めよ」
「ありがとうございます。頂きます。先生はブラックなんだ。大人だね。私は砂糖とミルク入れないと飲めないよ」
そうとは限らないけどな。ココアよりもブラックが好きな女子高生知ってるし。下手したら、アイツは酒の方が好きかもしれないし。
「で? 話って何だ?」
「うん。ねぇ、先生? 大人の女性ってどんな感じ?」
「はっ?」
唐突に切り出された質問。こちらとしては戸惑うが、柏木にしてみたら本気なんだろう。
──こんなことを訊いてくると言うことは、もしかして柏木の想い人である朝倉は、年上の女が好きなのか?
しかし、大人の女ねぇ……。ここ数ヶ月で俺の考えもすっかり変わったからな。大人の女と言われても……。
考え悩む俺に、追加の質問が投げられる。
「私達ぐらいの年の男の子って、大人の女性好きだよね?」
「一概には言えないけど、10代の頃に年上に憧れる事はあったかな」
「やっぱりね」
実際、俺もそうだった。初めて好きだと思った女は年上だ。相手は俺ではなく、俺の背後にあるものに惚れていたという、オチ付きだが。
でも確かに、俺の周りにいた男連中も、年上に惹かれている奴が多かったような気がする。
「柏木の好きな奴って、朝倉春樹だろ?」
いきなり直球を投げ込む俺に、柏木は歯にかみながら頬を染めた。
「朝倉の好きな女が、もしかして年上なのか?」
続けざまの質問に、笑みは保ちながらも、その瞳は段々と悲しみを帯びていく。
「そう。ハルの彼女は年上の人。見事私ふられちゃった!」
「そっか」
「彼女は落ち着いていて、周りにもさり気なく優しく出来たり、たまにすごく色っぽく見えたり……。私も憧れてた人なんだ」
「うん」
こういう時は何と返せば良いのか、気の利いた科白が瞬時に出てこない。
「でも私、彼女に嫌われてるみたい」
「おまえが?」
「うん。そのせいで、林田さんにも水野さんにも迷惑掛けちゃったの」
突然出てきた林田と奈央の名前。
先が読めず理由を聞こうと口を開きかけた時。「先生、ごめんなさい」と、突如柏木が頭を下げた。
「うん? 何がだ?」
柏木は、テーブルに置いてあるココアのカップを両手で包み込み、顔を俯かせながら、ゆっくりと話始めた。
「私達、喧嘩の事で職員室に呼ばれたでしょ? あの喧嘩で林田さんが助けた人って……実は、私のことだったの」
「え? でも、水野も見たって」
アイツの話じゃ、林田が助けた相手は、直ぐにどっかに行ったって言ってたよな? それって、嘘だったのか?
「その日、一緒にいた林田さんがトイレに行ってる間に私が絡まれて、あの喧嘩場所に連れ出されたの。林田さんは、いるはずの場所にいなかった私を探し出してくれて、やられてる私を助けてくれたんだ」
「だったら、どうしてそう言わなかったんだ?」
「……ハルの彼女が仕向けたことだったから」
朝倉の女? 年上の女が高校生に嫌がらせ?
「だからって、正直に言えば……」
「私が林田さんに頼んだの。誰にも言わないでって。私がやられたって知ったら、いつも一緒にいる仲間が騒ぎ出すのは分かってたし、ハルにはどうしても知られたくなかったの。でも、そのせいで林田さんは川崎先生にきついこと言われて……」
そこまで言うと一旦押し黙り、息継ぎをするように深く呼吸をする柏木の次の言葉を、俺は静かに待った。
「本当のこと言おうとも思ったんだけど、あの時職員室には、私が仲の良いクラスメイトもいたから、ハルの耳に入らないように、林田さんは嘘を突き通してくれたんだ」
そう言えば……と、柏木が何かを言おうとして、遮るように口を開いた、あの時の林田を思い出す。
「じゃあ、水野は……」
「私達もあの時は驚いちゃった。まさか水野さんに見られてたとは思わなかったし、話を合わせてくれるとも思わなかったから」
奈央の奴、そんなこと一言も……。全くアイツは!
よっぽど川崎先生が嫌いだったのか、それとも、教師と言えども、横柄な態度で責める川崎先生を許せなかったのか。或いは、林田が責められてるのを庇ったのか?
どちらにせよアイツは……。
「水野も黙っていられなかったんだろ」
だけど、そうならそうと俺くらいには話してくれればいいものを。まぁ、喧嘩のことも言わなかったぐらいの奴だ。無理ってもんか。
「林田さんも水野さんも巻き込んで、本当に悪い事しちゃった。先生にも嘘ついてごめんなさい」
「大方、嘘はついてないんだし、言いたくない事は誰にだってある。林田も水野も何とも思ってないんじゃないか? あんま気にするな。それより、その嫌がらせの方は大丈夫なのか?」
「うん…………間に入ってくれた人がいて。もう大丈夫」
「本当か?」
「うん本当」
笑顔を見せた柏木だったが、
「朝倉には、やっぱり言わないのか?」
この問いにコクリと頷くと笑みを消した。
「告げ口みたいな真似はしたくない。彼女ね、私がハルの近くにいるのが嫌みたいなんだ。でも、彼女のした事は間違ってるけど、ハルが好きだからこそやったんだと思うし、それにハルが知ったら悲しむから」
「そうか」
「ハルが辛そうにしてるの、もう見たくないんだよね。ずっとね、片思いで、やっとハルの思いが通じたからさ」
「優しいな、柏木は」
「ううん。私が子供だから、ハルが辛そうにしていても何もしてあげられないだけ。だから、そう言う姿を見たくないだけなの……早く大人になりたいな」
最後は、小さな声で。でも、本気の願いであるように、真剣な面持ちで気持ちを吐露した。
「大人か」
柏木の言葉を受け継ぐようにポツリ呟く俺に、答えを導き出して欲しそうな顔で、
「どうやれば早く大人の女になれる?」
迷いもなく訊ねてくる。
素直と言うか何と言うか。そんなに大人になりたいのだろうか。
でも大人って言われても…。
「柏木、聞く相手間違ったみたいだな。それ、俺にもぜんぜん分からん」
相手が本気なだけに、この場だけ取り繕うことは出来なかった。
「え?」
何で分からないの? とでも言いたげに、柏木の瞳が真っ直ぐ俺を捉える。
しかし、これが本音だから仕方がない。
「柏木から見て、俺って大人に見えるか?」
柏木は、頭を二度ほど大きく上下に揺らし「だって大人でしょ?」 と、付け加えた。
「大人に見えるだけ。大人としての振る舞いが、お前達よりは多少上手いだけだ。ま、俺の場合だけどな。自慢じゃないが、全然成長してないって最近気付かされた。周りから見る目とは実際違うんだよ」
「そうなの?」
「ああ、そうなの」
自嘲的な笑みを零し項垂れる俺を見て、つられるように柏木もクスクスと笑った。
「大人だと思っていたのが、本気で恋した途端変わった女性も知ってるし、子供だと思っていたのが、妙に大人びてる女性も知ってるし。女ってもんが良く分からなくなった。カッコ悪いな。そう言う訳だから、残念ながら柏木を納得させる答えは俺にはないかも。でも……」
言葉を区切り柏木を見る。
「大人とか子供とか、そんな年齢に関係なくいい女はいい女なんじゃん? だから、年上の朝倉の彼女も、お前の存在に焦ったのかもな」
「それって、私もいい女って事?」
「だと思うぞ。だから無理して大人になる必要ないって。嫌でもなる時はなるもんだろうし、お前らしさを大事にした方がいい。お前の良さを分かる奴がきっといる」
「ありがとう、先生。あーあ、私の良さを気付かないハルはバカだよねー!」
柏木は辛い気持ちを押し込めて、おどけながら笑って見せた。
その後、他愛もない話を少しだけして、柏木が帰ると俺も職員室へと戻り残された仕事を片付けた。
定時に学校を後にし、いくらか陽が延びた帰り道。柏木との会話を思い出し、小さな店へと立ち寄ってから家へと急いだ。
「奈央、ただいま」
大きな箱に包まれたホールケーキを手土産に、奈央の部屋へと顔を出す。
「進級おめでとう………嘘つき娘」
付け加えた最後の言葉は聞こえない程度に言ったつもりだったのに、奈央は地獄耳だったらしい。バッチリ聞こえたようだ。
差し出す箱に一度向けた奈央の視線は、瞬く間に変化を見せ
「それって祝ってくれてるの? それとも喧嘩売ってんの? だとしたら、このケーキ。このまま敬介の顔面に飛ぶけど?」
険のこもった眼差しで、何とも物騒なことを言い出す。
顔面にケーキって、俺はお前とコントする気はサラサラねぇぞっ!
「も、勿論、お祝いに決まってんだろ」
「こんな大きなケーキ買って……」
溜息まじりに嘆く奈央に、お前にだけには言われたくないっ! と思うものの、ケーキまみれになる自分を想像すると、口にするのは憚られた。
「俺も食うよ、ちゃんと買ってきた責任は取る」
「あぁ、そう」
珍しく自分から食うと言った俺に驚いているのか、キョトンとした表情を見せる奈央。
俺だって覚悟の上で買ってきたんだよ。
自分も苦しむと分かっていながら、全てのケーキに仏語の名がつけられているあるお店で。『Temps important』と、名付けられたこのケーキを、どうしても買いたくなった。
それから俺達は、夕食を軽めに済ませ、ケーキを頬張った。
思っていたよりも結構な量を食べる奈央。絶対、苦しい筈なのに、『敬介、美味しいよ』 なんて言いながら……。
お祝いで買ってきたからと、珍しく俺に気を遣ってるのか?
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無事に両親にカナちゃんを引き合わす事ができた俺は安心して友人達の所へ戻ろうとしたが、別れ間際にカナちゃんが俺の太ももに抱き着いてきた。そしてカナちゃんは大切なぬいぐるみを俺にくれたんだ。
だから俺もお返しに小学生の頃からリュックにつけている小さなペンギンのぬいぐるみを外してカナちゃんに手渡した。
この時、お互いの名前を忘れないようにぬいぐるみの呼び名を『カナちゃん』『りょうくん』と呼ぶ約束をして別れるのだった。
この時の俺はカナちゃんとはたまたま出会い、そしてたまたま助けただけで、もう二度とカナちゃんと会う事は無いだろうと思っていたんだ。だから当然、カナちゃんの事を運命の人だなんて思うはずもない。それにカナちゃんの初恋の相手が俺でずっと想ってくれていたなんて考えたことも無かった……
7歳差の恋、共に大人へと成長していく二人に奇跡は起こるのか?
NOVがおおくりする『タイムリープ&純愛作品第三弾(三部作完結編)』今ここに感動のラブストーリーが始まる。
※この作品だけを読まれても普通に面白いです。
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