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79. 過去を受け入れて-6
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教室に入ると、いるはずがない奈央の席へと無意識に目がいってしまう。
窓から射し込む陽光が日だまりを作るそこには、勿論、誰もいない。
代わりにその隣には、珍しく遅刻もせずに登校していた林田が座っていた。
「よーし、今日も一日頑張ろうなー!」
煙たがられそうなほどの大声を出し、自分にも生徒にも気合いを入れて朝のSHRを終わらせ教室を出れば、追いかけるように近づいてくる足音。
間違いなく奴だな、と振り返った先には、
「連絡は?」
想像通りの人物、林田がいた。
奈央から連絡があれば、直ぐにでも知らせるするつもりでいるが、林田も聞かずにはいられないのだろう。
「いや、まだだ」
「…………そう」
溜息と共に林田は肩を落とす。
そんな日々を俺達は何日も過ごさなければならなかった。
毎日毎日、心配のあまり同じ質問を繰り返す林田。
奈央が休んで五日目には、林田は質問を口にする代わりに、アイコンタクトで俺に答えを求めるようになった。
それが十日目にもなると、林田より早く俺が首を左右に振って伝えるようになり……。
そして、奈央がいなくなって二週間目。
「沢谷大丈夫? ちゃんと食べてんの? 顔色悪いよ?」
林田の心配を更に増やさせてしまったらしい。
「おぅ、食ってる食ってる。最近、忙しいからな。そのせいだ。心配してくれてありがとな」
疑惑の眼差しを向ける林田には、俺はどう映っただろうか。笑って答えた俺の顔は、上手く誤魔化せているか、正直なところ自信はない。
林田や裕樹に待つよう諭したのは、俺。その俺が、しっかりしなきゃなんねぇのに。
実際には、身体は重く気だるさに支配されていた。
学校で元気に生徒達と触れ合っている内は、まだ良い。それがひとたび家に帰れば、長い時間と戦う厳しさに抵抗する術がない。
食事も睡眠も気を紛らわす手段にはならなくて。寧ろ、人間にとって大事なその欲すら奪われるほど、長い夜は俺にとって強敵らしい。
それでも、俺は逃げるわけにはいかなかった。
その終わりが、いつ訪れるとも分からなくても、仕事が終われば真っ直ぐ家へと帰る。
アイツを信じて待つと決めた以上、避けては通れない長い夜に向かって、俺は今日も家の重いドアを開けるしかない。
ガチャリと鍵を開ける音が、世間から遮断され、牢獄に閉じ込められるような錯覚に陥っても……。
開いたドアの中からは、願望が映しだす明かりが見え、遂には幻覚にまで襲われたか、と嘆こうとも……。
いよいよ重症だと認めざるを得ない頭をしきりに振って、それでも消えない幻覚の中に…………俺は、訊いた。
「敬介」
────待ち焦がれていた、愛しい女の声を。
明りが灯るリビングの扉が開かれたと同時に聞こえた声。
耳に流れ込む声に胸は震え、玄関先に立ちすくんだまま目を瞠る。
開いた扉からは声だけじゃなく、二週間も逢えずにいた女の姿までもが見えて……。
たとえ、これが幻聴でも幻覚でも構わない。夢なら覚めないで欲しいと願う俺は、動いてしまえば束の間の夢が消えてしまいそうな気がして、身動き一つ出来なかった。
ゆっくりとした足取りで詰めてくる俺との距離。
その歩みが目の前で止まると、苦しげに歪んだ表情で、俺の頬は両の手で包み込まれた。
「敬介」
包み込まれた頬に感じるのは、小さな手から伝わる泣きたくなるほどの温もり。その温もりが、これは夢なんかじゃない、現実なんだと知らしめた、刹那──。
俺は奈央の腰を引き寄せ、胸に抱きすくめた。
加減する余裕もなく強く腕の中に閉じ込めても、非難めいた科白は返ってこない。それどころか、奈央の手は俺の背中へと回り、
「ただいま、敬介」
本当に奈央が帰って来たんだと、現実に厚みを持たせてくれる。
永遠とも感じていた、この二週間。張りつめていたものが触れ合う体温に溶かされて、ずっと頭の片隅から消せないでいた不安までもが溢れ落ちた。
「……帰って来ねぇかと思った」
隠しようもなく上擦る声に、奈央の手が優しく背中を擦り、陽だまりのような温もりが胸に染み入ってくる。
「約束したじゃない」
抱き締めているのは俺なのに、抱き締められている様な安堵感。それは、俺の思考能力を奪うほどの威力で、奈央の言う約束の意味が掴めず、一向に頭が働かない。そんな機能しない頭を華奢な肩に乗せたまま、
「約束って?」
そう訊き返せば、背中を撫でていた奈央の手が途端に止まった。
「もしかして敬介、忘れてる?」
擦るのを止めただけじゃなく、離れていった愛しい手。瞬時に安心は一掃され、新たに急激な焦りを生み出す。
折角、こうして奈央が帰って来たのに、逢って早々、奈央の機嫌を損ねたか!?
幸せボケに陥っていた頭を、急いでトップギアに入れフル回転したものの。
……やべぇ。約束って、何だ? 思い当たる節がねぇ!
焦りばかりが加速度を増し、思考だけが空回りする。
俺の胸を軽く押して距離を作られれば、いよいよ焦りは頂点となった。
もうここは、思い出せずにゴメン、と素直に謝るしかない。そう覚悟を決めた瞬間。
「敬介……ごめん」
何故か、俺の言うべき科白を奈央が奪う。
しかも、その声は痛いほどに弱々しく、少しだけ眉を下げた奈央は悲しげに見えた。
瞼を閉じ軽く息を吐き出した奈央に、何かとてつもなく嫌な事を言われるんじゃないかと身構えれば、それは想像していたものとは、全く違うもので……、
「敬介、お誕生日おめでとう」
目を開けた奈央が、柔らかく笑う。
「…………………え?」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
綺麗な瞳に俺を映し、優しく告げてくる。
「……………………」
奈央がもたらした幸福のせいで、俺の頭は、今度こそ完全に機能を失った。
窓から射し込む陽光が日だまりを作るそこには、勿論、誰もいない。
代わりにその隣には、珍しく遅刻もせずに登校していた林田が座っていた。
「よーし、今日も一日頑張ろうなー!」
煙たがられそうなほどの大声を出し、自分にも生徒にも気合いを入れて朝のSHRを終わらせ教室を出れば、追いかけるように近づいてくる足音。
間違いなく奴だな、と振り返った先には、
「連絡は?」
想像通りの人物、林田がいた。
奈央から連絡があれば、直ぐにでも知らせるするつもりでいるが、林田も聞かずにはいられないのだろう。
「いや、まだだ」
「…………そう」
溜息と共に林田は肩を落とす。
そんな日々を俺達は何日も過ごさなければならなかった。
毎日毎日、心配のあまり同じ質問を繰り返す林田。
奈央が休んで五日目には、林田は質問を口にする代わりに、アイコンタクトで俺に答えを求めるようになった。
それが十日目にもなると、林田より早く俺が首を左右に振って伝えるようになり……。
そして、奈央がいなくなって二週間目。
「沢谷大丈夫? ちゃんと食べてんの? 顔色悪いよ?」
林田の心配を更に増やさせてしまったらしい。
「おぅ、食ってる食ってる。最近、忙しいからな。そのせいだ。心配してくれてありがとな」
疑惑の眼差しを向ける林田には、俺はどう映っただろうか。笑って答えた俺の顔は、上手く誤魔化せているか、正直なところ自信はない。
林田や裕樹に待つよう諭したのは、俺。その俺が、しっかりしなきゃなんねぇのに。
実際には、身体は重く気だるさに支配されていた。
学校で元気に生徒達と触れ合っている内は、まだ良い。それがひとたび家に帰れば、長い時間と戦う厳しさに抵抗する術がない。
食事も睡眠も気を紛らわす手段にはならなくて。寧ろ、人間にとって大事なその欲すら奪われるほど、長い夜は俺にとって強敵らしい。
それでも、俺は逃げるわけにはいかなかった。
その終わりが、いつ訪れるとも分からなくても、仕事が終われば真っ直ぐ家へと帰る。
アイツを信じて待つと決めた以上、避けては通れない長い夜に向かって、俺は今日も家の重いドアを開けるしかない。
ガチャリと鍵を開ける音が、世間から遮断され、牢獄に閉じ込められるような錯覚に陥っても……。
開いたドアの中からは、願望が映しだす明かりが見え、遂には幻覚にまで襲われたか、と嘆こうとも……。
いよいよ重症だと認めざるを得ない頭をしきりに振って、それでも消えない幻覚の中に…………俺は、訊いた。
「敬介」
────待ち焦がれていた、愛しい女の声を。
明りが灯るリビングの扉が開かれたと同時に聞こえた声。
耳に流れ込む声に胸は震え、玄関先に立ちすくんだまま目を瞠る。
開いた扉からは声だけじゃなく、二週間も逢えずにいた女の姿までもが見えて……。
たとえ、これが幻聴でも幻覚でも構わない。夢なら覚めないで欲しいと願う俺は、動いてしまえば束の間の夢が消えてしまいそうな気がして、身動き一つ出来なかった。
ゆっくりとした足取りで詰めてくる俺との距離。
その歩みが目の前で止まると、苦しげに歪んだ表情で、俺の頬は両の手で包み込まれた。
「敬介」
包み込まれた頬に感じるのは、小さな手から伝わる泣きたくなるほどの温もり。その温もりが、これは夢なんかじゃない、現実なんだと知らしめた、刹那──。
俺は奈央の腰を引き寄せ、胸に抱きすくめた。
加減する余裕もなく強く腕の中に閉じ込めても、非難めいた科白は返ってこない。それどころか、奈央の手は俺の背中へと回り、
「ただいま、敬介」
本当に奈央が帰って来たんだと、現実に厚みを持たせてくれる。
永遠とも感じていた、この二週間。張りつめていたものが触れ合う体温に溶かされて、ずっと頭の片隅から消せないでいた不安までもが溢れ落ちた。
「……帰って来ねぇかと思った」
隠しようもなく上擦る声に、奈央の手が優しく背中を擦り、陽だまりのような温もりが胸に染み入ってくる。
「約束したじゃない」
抱き締めているのは俺なのに、抱き締められている様な安堵感。それは、俺の思考能力を奪うほどの威力で、奈央の言う約束の意味が掴めず、一向に頭が働かない。そんな機能しない頭を華奢な肩に乗せたまま、
「約束って?」
そう訊き返せば、背中を撫でていた奈央の手が途端に止まった。
「もしかして敬介、忘れてる?」
擦るのを止めただけじゃなく、離れていった愛しい手。瞬時に安心は一掃され、新たに急激な焦りを生み出す。
折角、こうして奈央が帰って来たのに、逢って早々、奈央の機嫌を損ねたか!?
幸せボケに陥っていた頭を、急いでトップギアに入れフル回転したものの。
……やべぇ。約束って、何だ? 思い当たる節がねぇ!
焦りばかりが加速度を増し、思考だけが空回りする。
俺の胸を軽く押して距離を作られれば、いよいよ焦りは頂点となった。
もうここは、思い出せずにゴメン、と素直に謝るしかない。そう覚悟を決めた瞬間。
「敬介……ごめん」
何故か、俺の言うべき科白を奈央が奪う。
しかも、その声は痛いほどに弱々しく、少しだけ眉を下げた奈央は悲しげに見えた。
瞼を閉じ軽く息を吐き出した奈央に、何かとてつもなく嫌な事を言われるんじゃないかと身構えれば、それは想像していたものとは、全く違うもので……、
「敬介、お誕生日おめでとう」
目を開けた奈央が、柔らかく笑う。
「…………………え?」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
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「……………………」
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