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「昨夜は失礼しました」
翌朝、改めてドロシーに謝罪した。聖女様に向かって説教など、護衛騎士の振る舞いではあるまい。何より、ずっと国を支えてきた一人の女性に対しても恥ずべき振る舞いだった。
聖女といっても結界維持のために作られた称号である。宗教譚に出て来るような聖者でも救世主でもないのだ。何もかも上手に運べるわけでもないし、それを求める方が無理というものだ。なのに昨夜は、一時の感情にかられて怒鳴りつけてしまった。
「あなたのお気持ちも考えずに大変ご無礼を働きました。誠に申し訳ございません」
ドロシーとて、たった一人で悩んで苦しんで、心身ともに限界だったはずなのに。結局のところ、分かった風な顔をして何も理解していなかったのだ。傲慢にも程がある。慚愧に堪えない。
「辛かったでしょう。たいそう苦しまれたと思います。よくぞ、ここまで一人で頑張ってこられた。王国の民に成り代わってお礼を申し上げます」
エクスは深々と頭を下げる。才能だけではなく、過去の聖女が残した記録にあたり、『結界』について理解を深めていた。ドロシーがいなければ、王国はとうに滅んでいたのだ。いくら感謝してもし足りない。
「謝罪の必要はありません、ピークマン卿。私こそお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございませんでした」
ドロシーは気にした風もなく、あっさりと受け入れる。
「泣いたのは悲しかったからでも怖かったからでもありません。ただ、どうにも気持ちが昂ぶってしまって……」
これだけの肉体の変化が起こったのだ。精神が不安定になっていても不思議ではない。エクスの言葉がきっかけになってしまったのだろう、と解釈する。
「それでですね」
謝罪の後、エクスは改めて気になっていたことを言った。
「私のことはどうかエクスとお呼び下さい。敬語も不要です」
離婚も正式に決まり、もうピークマン家とは縁が切れている。騎士なのだから改めて家名を作らねばならないのだが、辺境送りのせいで曖昧に放置されたままだ。このような状況でピークマンを名乗るのはいささか気が引ける。何より聖女の地位は一介の騎士より上なのだ。
ドロシーはまた形の良い目を見開いていたが、やがて笑顔でうなずいた。
「では、私のこともドロシーと呼んで下さい」
「いや、それは」
聖女様を呼び捨てなど、余人に聞かれたら不敬の誹りを免れない。昨日までなら誰もとがめ立てなどしなかっただろうが、今は違う。
「いけませんか?」
上目遣いで問うてくる。
「……では、ドロシー様と」
「……わかりました」
不満そうだったが、これ以上はゆずれない。エクスにも立場というものがある。
「おめみてえなバカタレはいっぺん頭かちわった方がええんだ」
クリスティーナ婆さんはまだおかんむりのようだが、あえて無視する。
野営の片付けを済ませ、馬車へと戻って来た。ドロシーは何故かエクスに先んじて御者台に座る。
馬は自分が操るから、と言ったのだが頑として譲らない。
仕方がないので、並んで座ることになる。小さな馬車なので肩の辺りが触れるのだが、ドロシーに不快そうな様子はなかった。お姫様抱っこや背中に担いだりもしたのだから今更気にも留めないのだろう、とエクスは解釈しながら手綱を握る。
「それでは行きましょうか」
ドロシーが高らかに宣言する。
「どこへ?」
「決まっているでしょう」
ドロシーは柔らかく微笑んだ。
「辺境伯様の領地へ慰問に」
馬車を進めていくと徐々に周囲が荒れ果てていく。『結界』の端が近付いているのだ。出入りは自由だが、一歩外に出れば魔物の闊歩する土地になる。魔物の発する瘴気は土地や植物を枯らし、人間を容赦なく襲う。瘴気はまた別の魔物を呼び寄せる。
「もうすぐ『結界』の外、ですね」
前を見れば薄い膜のようなものが空高くそびえており、その向こう側は荒野が広がっている。岩の陰には魔物らしき獣の姿も見える。時折、人の気配を察してか『結界』の方に突っ込んでいくのもいる。
「どうも『新結界』にはまだ慣れませんね」
ドロシーが追放された翌日には、『新結界』に変更されていた。以前は淡い緑色だった膜が今は薄桃色に変わっている。効果は抜群らしく、『新結界』に触れた魔物がことごとく黒いチリとなって消えていく。エクスの倍以上はありそうな巨体も膜に触れると、砂人形のように崩れていく。範囲も広がっているようだ。以前はもう、この辺りは『結界』の外だった。
「……」
ドロシーがじっと『新結界』を見つめている。内心は複雑だろう、とエクスは慮る。追放されるきっかけでもある。だが、そのおかげで『結界』維持の任を解かれ、『アプデの泉』まで行くことができたのだ。あるいは、悔しいのかも知れない。長年『結界』を維持してきた自負もあるだろう。新しい技術に自身の居場所を奪われたのだ。
エクスとしては結果的に良かったと思っているが、割り切れるものではないだろう。
そうこうしているうちにもう『新結界』の終点に近付いていた。
「ここから先は魔物の闊歩する土地です。覚悟はよろしいですか」
今の間に荷台の方に下がった方がいい、というつもりで忠告したのだが、ドロシーはむしろ振り落とされないようにと肩に手を乗せ、体を寄せてきた。
苦笑しながらエクスは魔物が近くにいないのを確認してから手綱を握り直し『新結界』を抜ける。特に何の抵抗もなかった。
「急ぎましょう」
ここはもう安全地帯ではないのだ。黒い獣が遠くから馬車を見据えている。のんびりしていたら追いかけてくるに違いない。全力で駆け抜けたいところだが、それでは馬が途中で力尽きてしまう。さじ加減の難しいところだ。
遠ざかっていく『新結界』を隣のドロシーが振り返って見ていた。やはり思うところがあるのかと思っていたら、軽い口調のつぶやきが聞こえた。
「あーあ、やっちゃった」
翌朝、改めてドロシーに謝罪した。聖女様に向かって説教など、護衛騎士の振る舞いではあるまい。何より、ずっと国を支えてきた一人の女性に対しても恥ずべき振る舞いだった。
聖女といっても結界維持のために作られた称号である。宗教譚に出て来るような聖者でも救世主でもないのだ。何もかも上手に運べるわけでもないし、それを求める方が無理というものだ。なのに昨夜は、一時の感情にかられて怒鳴りつけてしまった。
「あなたのお気持ちも考えずに大変ご無礼を働きました。誠に申し訳ございません」
ドロシーとて、たった一人で悩んで苦しんで、心身ともに限界だったはずなのに。結局のところ、分かった風な顔をして何も理解していなかったのだ。傲慢にも程がある。慚愧に堪えない。
「辛かったでしょう。たいそう苦しまれたと思います。よくぞ、ここまで一人で頑張ってこられた。王国の民に成り代わってお礼を申し上げます」
エクスは深々と頭を下げる。才能だけではなく、過去の聖女が残した記録にあたり、『結界』について理解を深めていた。ドロシーがいなければ、王国はとうに滅んでいたのだ。いくら感謝してもし足りない。
「謝罪の必要はありません、ピークマン卿。私こそお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございませんでした」
ドロシーは気にした風もなく、あっさりと受け入れる。
「泣いたのは悲しかったからでも怖かったからでもありません。ただ、どうにも気持ちが昂ぶってしまって……」
これだけの肉体の変化が起こったのだ。精神が不安定になっていても不思議ではない。エクスの言葉がきっかけになってしまったのだろう、と解釈する。
「それでですね」
謝罪の後、エクスは改めて気になっていたことを言った。
「私のことはどうかエクスとお呼び下さい。敬語も不要です」
離婚も正式に決まり、もうピークマン家とは縁が切れている。騎士なのだから改めて家名を作らねばならないのだが、辺境送りのせいで曖昧に放置されたままだ。このような状況でピークマンを名乗るのはいささか気が引ける。何より聖女の地位は一介の騎士より上なのだ。
ドロシーはまた形の良い目を見開いていたが、やがて笑顔でうなずいた。
「では、私のこともドロシーと呼んで下さい」
「いや、それは」
聖女様を呼び捨てなど、余人に聞かれたら不敬の誹りを免れない。昨日までなら誰もとがめ立てなどしなかっただろうが、今は違う。
「いけませんか?」
上目遣いで問うてくる。
「……では、ドロシー様と」
「……わかりました」
不満そうだったが、これ以上はゆずれない。エクスにも立場というものがある。
「おめみてえなバカタレはいっぺん頭かちわった方がええんだ」
クリスティーナ婆さんはまだおかんむりのようだが、あえて無視する。
野営の片付けを済ませ、馬車へと戻って来た。ドロシーは何故かエクスに先んじて御者台に座る。
馬は自分が操るから、と言ったのだが頑として譲らない。
仕方がないので、並んで座ることになる。小さな馬車なので肩の辺りが触れるのだが、ドロシーに不快そうな様子はなかった。お姫様抱っこや背中に担いだりもしたのだから今更気にも留めないのだろう、とエクスは解釈しながら手綱を握る。
「それでは行きましょうか」
ドロシーが高らかに宣言する。
「どこへ?」
「決まっているでしょう」
ドロシーは柔らかく微笑んだ。
「辺境伯様の領地へ慰問に」
馬車を進めていくと徐々に周囲が荒れ果てていく。『結界』の端が近付いているのだ。出入りは自由だが、一歩外に出れば魔物の闊歩する土地になる。魔物の発する瘴気は土地や植物を枯らし、人間を容赦なく襲う。瘴気はまた別の魔物を呼び寄せる。
「もうすぐ『結界』の外、ですね」
前を見れば薄い膜のようなものが空高くそびえており、その向こう側は荒野が広がっている。岩の陰には魔物らしき獣の姿も見える。時折、人の気配を察してか『結界』の方に突っ込んでいくのもいる。
「どうも『新結界』にはまだ慣れませんね」
ドロシーが追放された翌日には、『新結界』に変更されていた。以前は淡い緑色だった膜が今は薄桃色に変わっている。効果は抜群らしく、『新結界』に触れた魔物がことごとく黒いチリとなって消えていく。エクスの倍以上はありそうな巨体も膜に触れると、砂人形のように崩れていく。範囲も広がっているようだ。以前はもう、この辺りは『結界』の外だった。
「……」
ドロシーがじっと『新結界』を見つめている。内心は複雑だろう、とエクスは慮る。追放されるきっかけでもある。だが、そのおかげで『結界』維持の任を解かれ、『アプデの泉』まで行くことができたのだ。あるいは、悔しいのかも知れない。長年『結界』を維持してきた自負もあるだろう。新しい技術に自身の居場所を奪われたのだ。
エクスとしては結果的に良かったと思っているが、割り切れるものではないだろう。
そうこうしているうちにもう『新結界』の終点に近付いていた。
「ここから先は魔物の闊歩する土地です。覚悟はよろしいですか」
今の間に荷台の方に下がった方がいい、というつもりで忠告したのだが、ドロシーはむしろ振り落とされないようにと肩に手を乗せ、体を寄せてきた。
苦笑しながらエクスは魔物が近くにいないのを確認してから手綱を握り直し『新結界』を抜ける。特に何の抵抗もなかった。
「急ぎましょう」
ここはもう安全地帯ではないのだ。黒い獣が遠くから馬車を見据えている。のんびりしていたら追いかけてくるに違いない。全力で駆け抜けたいところだが、それでは馬が途中で力尽きてしまう。さじ加減の難しいところだ。
遠ざかっていく『新結界』を隣のドロシーが振り返って見ていた。やはり思うところがあるのかと思っていたら、軽い口調のつぶやきが聞こえた。
「あーあ、やっちゃった」
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