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第2話
三日の猶予期間は、驚くほど速やかに過ぎた。
父が用意してくれた旅費と、乳母がこっそり縫い付けてくれた金貨の入った裏地の外套。馬車は与えられなかったが、父は国境までの馬だけは手配してくれた。それすら王家に知られれば罰が及ぶだろうに、父は「これくらいは、させてほしい」と小さく笑った。
出国の前夜。
リリアは、黒いフード付きのマントを羽織った。髪を編み込み、庶民の娘のような装いに身を整える。乳母に預けた荷物は最小限。革袋と、わずかな着替えと、水筒。それだけだ。
「本当に、行くのですね」
乳母が震える手でリリアの頬に触れた。
「はい」
リリアは微笑む。
「私、最後にどうしても、あの子たちに会っておきたいの」
乳母は何度も首を振った。
「――王宮になど、忍び込んで見つかれば、ただでは済みません」
「見つからないように行くわ」
そっと乳母の手を握る。
「あの庭だけは、私が作った場所なの。誰にも教えなかった場所もある。あの子たちにも、ちゃんと別れを告げないと」
乳母は、ついに泣き出した。
リリアは、何も言わずにそっと抱きしめた。
月の細い夜だった。
王宮の裏手、使用人の通用門から続く古い塀。その根元には、五年前にリリア自身が緩めておいた石があった。誰にも気づかれないまま、五年の間、ずっとそこに在り続けた秘密の抜け道だ。
身を低くしてくぐり抜ける。庭師たちの使う小径を辿り、リリアは王宮の奥庭へと向かった。表の庭園のような華やかさはなく、薬草園と呼ぶにも荒れすぎた、ただの空き地。誰もが「雑草ばかりだ」と見向きもしない一角。
リリアが、五年かけて育てた場所だった。
月光の下、それらは静かに揺れていた。
一見すると、なんの変哲もない草むらだ。丈の低い葉、小さな白い花、地を這う蔓。けれどリリアには、一つひとつが名前を持つ宝物だった。北の高地にしか自生しない万年草。千年に一度しか花を咲かせないと言われる月光苔。解毒に効く銀葉草の群生。
どれも、彼女が種から育てた。気配を辿り、声を聞き、水をやり、日当たりを調整し、根が張るまで土を整え続けた。
「――ごめんね」
リリアは、膝をついた。
膝の下の土が、ほんのりと温かい気がした。
「私、もう、あなたたちの傍にいられないの」
風が、葉を揺らす。
「誰も気づいてくれなかったね。あなたたちが、この国をどれだけ守ってきたか。毒を浄め、病を遠ざけ、王都の空気を澄ませてきたのは、あなたたちだったのに」
声が震えた。
「ごめんね。連れて行けなくて。でも――」
リリアは、革袋の口を開けた。
「種だけ、少しだけ、貰っていくね」
丁寧に、一種につき数粒ずつ。全てを持ち去ってしまえば、この庭が保てなくなる。だから、必要最低限だけ。月光苔の胞子、万年草の種、銀葉草の実――彼女の指は、迷いなく正しい場所を選んだ。
最後に、庭の中央に植わった、小さな一本の樹に触れる。
誰もが「ただの低木だ」と思っているそれは、実は『聖樹の苗』だった。リリアが幼い頃、祖母から譲り受け、この地に植えたもの。百年後にようやく花を咲かせると言われる、古代聖女の系譜にだけ宿る樹。
「この子は、連れていけない」
樹皮に、そっと手を当てた。
「ごめんね。でも、この国で根を張ってくれたなら――きっと、あなたがこの国を守ってくれる」
樹は、答えない。ただ、葉を一枚、ゆっくりと揺らした。
革袋の口を結び、立ち上がる。
涙は、もう流さなかった。
振り返らずに、抜け道まで戻る。塀の石を元に戻し、王宮の闇に別れを告げる。ひとつの章が、今、終わった。
明け方。
国境に向かう馬上で、リリアは東の空を見た。朝焼けが、細く、紅く、滲み始めていた。
「――行こう」
革袋を胸に抱いて、彼女は馬の腹を軽く蹴った。
父が用意してくれた旅費と、乳母がこっそり縫い付けてくれた金貨の入った裏地の外套。馬車は与えられなかったが、父は国境までの馬だけは手配してくれた。それすら王家に知られれば罰が及ぶだろうに、父は「これくらいは、させてほしい」と小さく笑った。
出国の前夜。
リリアは、黒いフード付きのマントを羽織った。髪を編み込み、庶民の娘のような装いに身を整える。乳母に預けた荷物は最小限。革袋と、わずかな着替えと、水筒。それだけだ。
「本当に、行くのですね」
乳母が震える手でリリアの頬に触れた。
「はい」
リリアは微笑む。
「私、最後にどうしても、あの子たちに会っておきたいの」
乳母は何度も首を振った。
「――王宮になど、忍び込んで見つかれば、ただでは済みません」
「見つからないように行くわ」
そっと乳母の手を握る。
「あの庭だけは、私が作った場所なの。誰にも教えなかった場所もある。あの子たちにも、ちゃんと別れを告げないと」
乳母は、ついに泣き出した。
リリアは、何も言わずにそっと抱きしめた。
月の細い夜だった。
王宮の裏手、使用人の通用門から続く古い塀。その根元には、五年前にリリア自身が緩めておいた石があった。誰にも気づかれないまま、五年の間、ずっとそこに在り続けた秘密の抜け道だ。
身を低くしてくぐり抜ける。庭師たちの使う小径を辿り、リリアは王宮の奥庭へと向かった。表の庭園のような華やかさはなく、薬草園と呼ぶにも荒れすぎた、ただの空き地。誰もが「雑草ばかりだ」と見向きもしない一角。
リリアが、五年かけて育てた場所だった。
月光の下、それらは静かに揺れていた。
一見すると、なんの変哲もない草むらだ。丈の低い葉、小さな白い花、地を這う蔓。けれどリリアには、一つひとつが名前を持つ宝物だった。北の高地にしか自生しない万年草。千年に一度しか花を咲かせないと言われる月光苔。解毒に効く銀葉草の群生。
どれも、彼女が種から育てた。気配を辿り、声を聞き、水をやり、日当たりを調整し、根が張るまで土を整え続けた。
「――ごめんね」
リリアは、膝をついた。
膝の下の土が、ほんのりと温かい気がした。
「私、もう、あなたたちの傍にいられないの」
風が、葉を揺らす。
「誰も気づいてくれなかったね。あなたたちが、この国をどれだけ守ってきたか。毒を浄め、病を遠ざけ、王都の空気を澄ませてきたのは、あなたたちだったのに」
声が震えた。
「ごめんね。連れて行けなくて。でも――」
リリアは、革袋の口を開けた。
「種だけ、少しだけ、貰っていくね」
丁寧に、一種につき数粒ずつ。全てを持ち去ってしまえば、この庭が保てなくなる。だから、必要最低限だけ。月光苔の胞子、万年草の種、銀葉草の実――彼女の指は、迷いなく正しい場所を選んだ。
最後に、庭の中央に植わった、小さな一本の樹に触れる。
誰もが「ただの低木だ」と思っているそれは、実は『聖樹の苗』だった。リリアが幼い頃、祖母から譲り受け、この地に植えたもの。百年後にようやく花を咲かせると言われる、古代聖女の系譜にだけ宿る樹。
「この子は、連れていけない」
樹皮に、そっと手を当てた。
「ごめんね。でも、この国で根を張ってくれたなら――きっと、あなたがこの国を守ってくれる」
樹は、答えない。ただ、葉を一枚、ゆっくりと揺らした。
革袋の口を結び、立ち上がる。
涙は、もう流さなかった。
振り返らずに、抜け道まで戻る。塀の石を元に戻し、王宮の闇に別れを告げる。ひとつの章が、今、終わった。
明け方。
国境に向かう馬上で、リリアは東の空を見た。朝焼けが、細く、紅く、滲み始めていた。
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