あの夏の嘘つき

suezu

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第10章 抱きしめる

ドーナツ

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ベッドに横になったまま、天井の模様をぼんやりと目でなぞる。熱はようやく下がったが、身体の奥に残っただるさが抜けきらない。
「千尋、ちょっといいか?」
ドアをノックして、父が部屋に入ってきた。手には見慣れたマグカップ。ほわんと甘い香りが漂ってくる。ココアを作ってくれたのだろう。
「少しは飲めるかな?」
「……うん。飲める」

身体を起こして、受け取ったカップを両手で包むと、厚めの陶器越しに伝わる温かさが伝わってきた。
父はベッド脇の椅子に腰を下ろすと、しばらく黙って千尋の顔を見ていた。
「さっき、涼君が店に来たよ。千尋のこと、すごく心配してた。これ、お見舞いだって」
「…うん。」
父が手渡してくれた横長の小さな箱は以前、涼と一緒に並んだドーナツ屋のものだ。美味しいと千尋が言ったからか、そのあとも涼は何度が買ってきてくれた。
「本当に涼くんは律儀だね」
「律儀? あのチャラのが?」
「うん。千尋は部屋で寝てるから上がっていけば、って言ったら、千尋から連絡が来るまで待ってる約束だからって、帰っていったよ。」
連絡は出来る体調なのに、熱が下がった、とのメッセージも送っていなかった。

ドーナツの箱を開けると、シナモンとチョコレートのドーナツだけが並んでいる。以前、二人で並んだ時、千尋がチョコレートかシナモンかで最後まで悩んだことを覚えているのだろう。
箱の中にきれいに並ぶドーナツの列を崩さないように、シナモンのドーナツを一つ手にとった。
思いっきり、一気にかじりつくと、少しほろ苦い砂糖が口の周りに飛び散った。
「…父さん」
「ん?」
「俺、就職できないかもしれない。どうしていいかわからない」
千尋の就活がうまくいってないことは、きっと、父も気づいているだろう。
「そうか。でも、心配することはないよ。どうしたいかわかるまで、うちの店を手伝えばいい。それから考えればいい」
穏やかに父が言う。
「そんな簡単なことじゃないよ」
人と接するのが苦手な自分が、店でうまく立ち回れるとは思えなかった。前に少しだけバイトしたときも、接客は避けて、裏方にまわっていた。経営のことだって、正直、まるでわからない。
それに店で働くというのは、結局、金銭的にも父に頼り続けるということだ。
できれば外で働いて、少しでも家計に貢献したい。

「そう難しく考えることなんてないと思うな。なんでも簡単に考えればいいんだ。結局は、その時その時で、目の前のことをやっていくしかないのだから、その時、目の前にあることを楽しめばいいよ。」
「そう簡単になんて、何もいかない。就活だって頑張ったけど、全部落ちた。それって、ダメなヤツだって、社会が俺を評価してるってことじゃん」
つい大きな声が出てしまう。
いつも迷惑をかけてしまっている父の前では、できる限り、不機嫌にはならないようにしてきたのに、つい、気持ちの抑えがきかなかった。
千尋が声を荒げたように、父が笑うように、目を細める。
「千尋は病気を抱えながらも、ずっと努力してきただろう。それは、誰かに否定されることではないだろ。大事なのは、他人の評価を自分の評価にすり替えないことだ。自分でやってきたことを、自分で認めて、次を考える。それが千尋の人生になっていくんだと思うな。」

「…そんなもんかな」
「そんなもんだよ。涼くんだって、こんなに千尋のことを心配してるだろ」
父が、箱いっぱいに並ぶドーナツを指さした。
「これだって、涼君の千尋のことを親しく思って心配してくれてるからだろ。それも千尋への評価だ」
「…俺への評価がドーナツって、もうちょいカッコいいもんにしてくれって話だけどな」
照れ隠しにもう一つ、ドーナツを取り出した。
涼に連絡しなくちゃ、そう思った。
たくさん伝えたいことがある。
どこまで言葉に出来るかは微妙だけど、それでも、ちゃんと伝えたいと思った。
「甘いものを飲みながら、甘いものが食べれるのは、千尋の特技だな」
甘いものが苦手な父が、ココアを飲みながらドーナツを食べる千尋を信じられなさそうな顔でみる。
父の笑う顔を見ていたら、まだどうしたらいいのかわからないけど、とりあえず何か動かなくちゃだとそう思えてきた。
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