ポーンの戦略 -三十六計逃げるに如かず-

千石かのん

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 別に会社を辞めるつもりは無かった。嫌いでも好きでもない仕事だったし。ただ、積み重ねというのは時に否定できない欲求を生み出すものだ。
 経験を積めば、認められたいと願うだろうし、スキルを上げればもっと責任ある仕事へと階段を登りたくなる。日々をだらだらと過ごし続ければ、これでいいのだろうかと疑問が湧くし、忙しい日々が続けばなんでだろうと立ち止まりたくなる。
 何かを積み重ねればいつか、そこから別の場所へと行きたいと願い始める物なのかもしれない。
 それは飽きだったり……欲求不満だったり……向上心だったり。
 果梨が仕事を辞めたのは、日々繰り広げられる元彼とのやり取りにうんざりしたからだった。
 先輩だったこの男は、自分が補佐する営業の一人だった。彼の事を好きだと思っていた時はいくらでも身を粉にして、どんなクダラナイ欲求でも嬉々としてかなえてあげた。
 本当に……「好き」という感情は恐ろしい。それは「嫌われたくない」を召喚し、「彼好みの自分になれ」魔法を己に掛けてしまう。
 そうなるともう、何も見えなくなる。
 例えコピー一枚でも、自分の今やっている仕事を後回しにして実行したくなるのだ。
 だがそれは、「好き」というMPが有ればの事だ。これが枯渇し、補給もなくなると「嫌われたくない」を召喚する事も出来なくなる。そうなると「彼好み」の魔法は使えない。
 魔法は切れ、恋に酔っていた人間は、いきなり肉弾戦を必要とされるのだ。
 目の前に広がるのは、仕上がらない仕事の山と我儘を言ってくる浮気男、そんな彼女を嘲笑う先輩という、荒涼とした世界だった。
 魔法少女から一転、女戦士として目覚めた果梨は、自分のスキルを信じて仕事を辞めた。
 といっても特に明記出来る才能が有るわけでも何でもないのだが、それでももう二度と魔法少女にはなりたくなかったのだ。
 少女でもないしな。
 そして今現在、目の前に十月に捨てた男が立っている。
 …………ごくごく平凡な成りで。
(あ……)
 最初に感じた震えと込み上げて来た嫌悪が、彼のへらりと笑ったその顔とくすんだ瞳を見たその瞬間一気に精査された。何故だか判らないが、果梨は激しい怒りも何もかも消えて、物凄く冷静にこの男を見て居たのだ。
「何やってんだ? 買い物?」
 平凡。本当に平凡。良くも悪くも普通だ。
 そう。藤城康晃と比べると……見劣りも良い所だ。
「果梨?」
「その名で呼ばないでいただけませんでしょうか」
 果梨の現在の装いを感心したように上から下まで見詰めていた元彼は、酷く冷たい物言いに我に返った。ブリザードもかくや、という果梨の視線を受けて怯む。
「あ……」
 思っていたのとは全く違う反応を返されて、元彼が一歩引く。それに押されるように、果梨は軽く会釈した。
「じゃ」
 すっと脇を通り過ぎる果梨の胸にはもはや、何も残っていなかった。
 声を聞いた瞬間に膨れ上がった感情は、振り返って現実の男を見た瞬間何も残さないまま消えて行った。いや、ただ嫌悪だけが残っていた。
 普通に声を掛けられるその無神経さが、気持ち悪い。
「待てよ、果梨」
 すれ違いざまに、腕を取られる。振り返ると、背筋が寒くなりそうな色を宿した眼差しが果梨を映していた。
「俺さ……お前と別れてから色々考えたんだ」
(うわっ……マジかよ)
 まさか自分がこんな話を聞かされるとは思っていなかっただけに、果梨は戦いた。こんな……典型的なセリフを聞かされるとは。
「南海はイイ女だし、付き合ってもイイと思ってたんだよ。だけどアイツ、すげー嫉妬深くて。俺が誰とラインでやり取りしてるか一々チェックしてコイツは誰だって聞いてくるんだぞ?」
 ……………………へぇ。
「俺……判ったんだよ。お前がどれだけ俺の事考えてくれてたか。お前が俺のこと放って置いたのは俺の事、愛してるからなんだよな?」
 ぎらりと光る彼の瞳が果梨を捉える。だがこの瞬間、果梨はそこに自分が映っていないのを悟った。彼の瞳が映すのは、勝手に思い描いた果梨の姿。
「それに気付けなかった俺は馬鹿だ。そうだろ?」
 言って、ぐいっと果梨を引き寄せる。
「なあ、愛してるんだろ? だから、信じてるから放って置いたんだろ?」
 身体が接触し、彼の胸に果梨の腕が挟まる。香るのは……むせ返るような香水の香り。
 甘ったるいようなそれに、果梨は生理的に吐き気を覚えた。
「悪かった。俺……そんなお前の愛に気付けなかった。もうほんと馬鹿だよな?」
 これ以上近寄られたら、気持ち悪くて吐ける。
 果梨はそう確信した。
 彼の台詞の一つ一つが、胸をムカつかせる。
 愛してるから放って置いた?
 バカじゃないのか?
 確かに自分は相手を束縛して嫌われたらどうしようと、臆病だった。
 だが今なら分かる。それは愛じゃない。
 「嫌われたらどうしよう」なんてネガティブな発想が出てる時点で、相手との関係の進展と改善を放棄していた。
 相手の為に尽くしたい。
 その一方通行ではきっと駄目なのだ。
 相手からも望まれたい。
 その考えを失念していた。
 それが今なら分かる。
「なあ、やり直そう果梨。頼むよ……アイツ、今日もここに来てて、婚約指輪が欲しいって強請ってんだよ。俺はもう別れたいのに。お前しかいないって気付いたのに」
 ―――っああッ。
(ぐーぱんちでも分かんないのか、この男はッ)
 急所に蹴りを入れて、「この人痴漢です!」と叫ぼうかと腸が胸糞悪く震えた矢先。
「俺の彼女に何か用事ですか?」
 唐突に響いた柔らかい猫なで声に、果梨は真の恐怖を思い出した。
 昨夜の藤城の発言が、警報の如く脳裏に鳴り響く。

 俺は絶対に殺人を犯さないとは言ってないからな

(洒落にならんッ!)
 振り返り、怒れる男の雷を阻止しようとするより早く、乱暴に引き寄せられていた。






(ふーむ)
 うろうろと店内を見て回る果穂を横目に、康晃も彼女に何かプレゼントを買おうと考えていた。
 本当なら「結婚を前提に付き合ってるのだから」と指輪の一つでも買ってやりたい所だが迷いなく質屋に入れられそうなので却下していた。
 同様の理由でアクセサリーは贈れない。
 全く、なんて面倒な……と思いながらも彼は顔がにやけるのを抑えられなかった。
 不意に本当に結婚してしまったらどうだろかと考える。
 彼女の反応が面白くて、興味本位から付き合ってるだの婚約しているだの言っていたがそれだけでは済まない「何か」が彼の気持ちを揺さぶっているのだ。
 昨夜、白石相手に演じた失態。
 その中に、確かに果穂を奪われたくないという原始的な欲求が有った。
 そしてそれを反省したいとは思わなかったし、あの瞬間に立ち返ったとしても絶対に同じ行動をとる自信があった。
 果穂を抱いていないから、執着しているだけ。
 そんな事も散々考えたが……今日のデートを楽しんでいる自分がいる限り、それだけではないのもぼんやりと判った。
(ま、そういう細かい所は置いておいて……)
 家に果穂が居る……その図を想像し、思った以上にそれを喜ぶ自分に戸惑いながら、彼は少し果穂から目を逸らして陳列する棚を見渡した。
 彼女が何を欲しがるのか。
 取り敢えず……全く思いつかない。
 そもそも女に何かを買った記憶がほぼゼロに等しいのだ。
(昔……アイツにぬいぐるみ買って以来か……)
 学生時代に、康晃は触り心地の良いぬいぐるみを買ってやったことが有った。
 自分から自発的に女に物を買ったのはそれっきりだ。
(俺、割とポンコツだな)
 苦笑しながら棚を吟味する。
 果穂が欲しい物。
 トンチンカンな理由で怒って、意味の分からない褒め言葉を掛け、彼女の気持ちを理解してやれなかった。
(それを懺悔するっていう意味でもいいか……)
 白っぽい水蒸気を上げるアロマディフューザーなんかいいかもしれない。
 心を癒す効果もありそうだし。
 そこでふと、彼女の部屋に強引に引きずり込まれた夜を思い出す。そういうお洒落なインテリアは持っていそうだ……知る度に「似合わねぇな」と思うが基本的に彼女はそういう……香月とはまた違った、羽田寄りの人種の筈だ。
 だが、どうしても今知る果穂は持ってない気がするのだが。
(どうもちぐはぐだよなぁ)
 ちらりと見た彼女の部屋や、着ている物、会社での付き合いを思い返して築き上げた高槻果穂という人間と、康晃が現在見て、話をして、触れる女はその構築物に馴染まない。
 それがなんでなのか……判らない。
 から、気になる。
(……ま、取り敢えず俺の勘を信じるなら……)
 形に残るものをやれば、絶対に捨てるか売るかする気がする。だとしたら形に残らない物がいいかもしれない。一緒に使うモノとか。
(泡風呂……)
 バス用品コーナーを眺めながら、康晃は自分の想像ににんまりした。
 二人で風呂に入るのは……絶対に悪くない。むしろ推奨案件だ。
 指先まで撫でて洗ってやる想像をしながら、康晃は顔を上げた。
 途端、電撃のように怒りが脳天から爪先まで走った。
 見知らぬ男が、康晃が飾りたてた女を抱き寄せている。しかも、公衆の面前で。
 湧き上がる殺意を隠そうともせず、五秒で彼は果穂の傍に寄った。





「彼女?」
 そう言って元彼、狭山伸幸さやまのぶゆきは困惑したように果梨を見た。
 男はにっこり笑っているが、伸幸を映す目は殺気立っている。
 黒髪にブラウンの瞳。伸幸より頭一つ背が高いその男は、絶対に離さないと誓うような強さで果梨の肩を抱いていた。
 伸幸から見ても、同世代の男の中で勝ち組に入るスペックを持っている。
 そいつが果梨の男?
 一瞬の間の後、伸幸の目に「ああ」と何かを納得するような色が過った。
 この手の男が果梨に本気になる筈がない。きっとまた……「俺の時のように」果梨で遊んでいるのだろう……そう、確信する。
 果梨に面倒なことを任せて、好きなように生きる。
 それがどれだけ甘美な事だったのかと思い出し、伸幸は嫉妬に駆られた。
 この女が尽くすのは、俺だ。
 こいつは自分でもっといい女を探せばいい。果梨なんかに収まる男じゃないだろう。
「……失礼ですが、本当に?」
 衝動的とはいえ、伸幸からそんな言葉が漏れた。
 眉間に皺をよせ、信じられない……という感情を全面に出した、バカにするような元彼の苦笑を前に果梨は予想以上にダメージを受けた。
 ええ、そうですね。
 確かにそうですよ。
 ぎゅっと買ってもらったスカートを握る手に力が込められた。奥歯を噛みしめる。
 傍から見れば……そして果梨の阿保さ加減を良く知る伸幸から見れば果梨は藤城に全く相応しくないだろう。
 だが、俯く事だけはしなかった。なんでこんな男に馬鹿にされたくらいで俯かなくてはならないのだ。
 そういうのはもう……卒業したはずだ。
「残念ながら本当です」
 藤城が何かを言う前に、果梨が素早く答えていた。微かに目を見開く元彼を前に必死に冷たくなった手で藤城の腕を掴む。絡めて彼に擦り寄りにっこり笑った。
「私の彼氏です」
 きっぱりと言い切る。
 必死な果梨の様子に、伸幸はじんわりと「可哀想な奴」という感想を抱いた。
 こんなイイ男が果梨に本気になる筈がないのに、遊ばれてるとも気付かずなんて哀れなんだろう。
 それにこの男だって、果梨とちょっと遊んでみたいだけなのだろう。
 俺の時みたいに、何にも言ってこないから楽だと思うし。
 一体何号なんだ、果梨は。
 そう考え、気付けば伸幸は深い溜息を漏らしていた。ちらりと彼女が彼氏だと豪語する男を見る。
 同情の混ざった眼差しを、彼は藤城に向けた。
「……それは……アナタも大変ですね」
 はは、と笑って肩を竦める男に、康晃の目が殺気を帯びた。
 そう、殺気。
 果穂を他の男とシェアするくらいなら、殺人も辞さない。
 そんな危険すぎる本音は転じれば、彼女を馬鹿にする男を殺すこともいとわないという過激思想にもつながる。
 なぜなら……自分が選んだものは自分の物で、それは唯一絶対だと自負しているから。
「……何が……大変ですって?」
 妙に間延びした冷静な声が、恐ろしく優しく尋ねる。びりっと果梨の背筋に寒気が走った。上司がこういう喋り方をするのは危険だ。物凄く。
 その瞬間、果梨は我に返った。ここでこの男と藤城を戦わせてはいけないと今更ながらに気付いたのだ。
 何故って? そもそもここに居る自分は果梨じゃなくて果穂なのだ。
「今は私、この人と付き合ってるんです。だから、申し訳ないのですが二度とお目にかかる事はありませんから」
 焦りから早口に言って、ぐいっと藤城の腕を引っ張った。ち、と上司が舌打ちするのが判るがこれ以上こんな所で揉めたくない果梨は、逃げの一手を打ち続ける。
 急いでその場を去ろうとする果梨に、伸幸は苛立った。
 どうせこの男も果梨相手に遊んでいるだけだろう。
 ならば、そこに俺が入ったって文句はない……というか、クリスマス・イヴを前に彼女だと言い切る女を横に侍らせておくような男に見えないし。
「本当に付き合ってる?」
 微かに笑いを含んだ、バカにするような声音に、果梨が青ざめる。それはこの男が告げた別れの言葉に似ていたから。
 見て見ぬふり。
 寛容という名の無関心。
 それが招いた、痛々しい教訓。
 戦闘の日々が過り、果梨は耐えるように奥歯を噛み、深呼吸しようとした。
 破れかぶれで「その通りだ」と告げる前に、伸幸がにやにや笑いながら語を繋いだ。
「良かったら彼女、俺が引き取りますよ。申し訳ないが……コイツはあなた向きじゃない、平凡な女ですから」
 平凡、という単語に血の気が引いた。
 今さっきまで、伸幸に抱いた感想とそっくり同じその単語。
 知ってたけれど。判っていたけれど。
 確かに否定のしようもない程……藤城部長と釣り合ってないけどッ。
「………………お前に言われる筋合いはねぇんだよ」
 低く、狼の唸り声のような声音が上司から漏れ、今にも伸幸に殴りかかりそうだった果梨は青ざめるを通り越して真っ白になった。
 見れば、怒りに燃えるオーラがハッキリ見える程腹を立てまくっている上司がそこに居た。
「なあ」
 ぐいっと果梨の肩を掴んで抱き寄せた康晃が、どこまでも下衆な男に振り返ると、害虫でも見るような眼差しで伸幸を見た。
「お前、本当にアイツと付き合ってたのか?」
 酷く穏やかな声音だが、ぎらりと光る刃が包まれている。どくん、と早駆けし始める心臓が痛い。冷汗を流しながら果梨は微かに頷いた。
「二度と思い出したくない過去ですケド」
「ああ、良かった」
 康晃が安心したように眉を上げた。
「あんな男と付き合ってたなんて、お前の人間性を疑う所だが、ま、改心したのなら褒めてやろう」
 さっと伸幸の顔色が変わる。一瞬青ざめたかと思ったら、侮辱の言葉に真っ赤になる。
「ナルホド……随分上手くやってるようだな」
 鼻で嗤った伸幸が続ける。
「どうやったのか知らないが、格段の進歩だな。俺の時は初めてでみっともないくらい何にも知らなくて、一々教えてやらなきゃならなかったもんな」
 下卑た嗤いがそれに続き、果梨は眩暈がした。
 こんな所でそんな発言が出来る程、頭がおかしいとは思っていなかった。
「どうです? 彼女、何でも好きな事させてくれるでしょう? じゃないと捨てられると判ってるから。な、お前、そうだったよな? 俺の好きにさせてくれたよなぁ、色々」
 それもこれも嫌われたくないというネガティブイメージからの行動で、結局自分に自信が無いために起きた事だった。
 実際にそうだから否定も出来ず、果梨は怒りと屈辱で真っ白になる脳裏から何とか反撃の一手を拾い上げようと必死になった。
 何でもいい。
 この男をぶん殴れる、気の利いた一言を……ッ
「で?」
 怒りに気が遠くなりそうだった果梨の耳に、凍れる一撃が届いた。
「は?」
 聞き返す伸幸に、藤城がうんざりしたような溜息を吐いた。
「で? だから?」
「…………いや、だから……」
「わざわざ教えてくれて悪かったな。お前が、唾棄すべき、最低な下衆野郎だってことをな」
 そう言って、酷く恭しく果梨の手を取った。それからしっかりと自分の腕に絡める。
「で、俺に買う予定のプレゼントは見つかったか?」
 蕩けそうな程甘い瞳が、ただ真っ直ぐに果梨を映す。ゆっくりと絡めていない方の手が持ち上がり、そっと頬を撫でる。
「俺としては……あそこにある泡ぶろの素が魅力的なんだが」
 真っ直ぐに見下ろすブラウンの瞳には、ただ自分一人しか映っていない。
 今までの不愉快なやり取りなど全くないというように。今ここ、この世界に果梨しかいないと宣言するように。
 そんな康晃の態度が、果梨のひび割れたハートに直撃する。
 但し……壊すのではなく、柔らかく優しく、甘く溶けるように包み込むのだ。
 溺れたい。縋りたい。抱き付きたい……。
「使ってみたいだろ?」
 乾いた指先が、ゆっくりと頬を辿り唇をなぞる。官能的な仕草に、果梨はここがどこなのか忘れかけた。
 正面に、赤かった顔色が今や紫になっている元彼が居る事も気にならない。
「どうだ?」
 ふ、と果梨の前髪に康晃の前髪が触れるのが判り、キスできそうな程の至近距離で見詰められているのにようやく気付いた。
「って、嫌です! 絶対!」
「そう言うと思ったから俺が買う」
「ちょっと、どこ行くんですか!」
 ぐいっと引っ張ってバス用品の所へと歩き出す康晃に、果梨が声を荒げた。
「ああ、そうだ」
 喚く果梨など気にも留めず、わなわなと震えて立ち尽くす狭山伸幸を、藤城が振り返った。
「さっきの情報」
「………………あ?」
「好きな事がどうとか」
 激昂している伸幸を相手に、康晃は優越感の滲んだせせら笑いを返した。
「生憎俺は、女が自主的に色々してくれるんで特にしたい事は無いんだよ。ああでも」
 言ってにっこり笑う。
「君が彼女に何をしたのか知らないが……多分ろくでもない事だから忘れさせてやるつもりだ。もちろん、こんなことを言わなくても」
 ぐいっと果梨の顎を持ち上げてじっと見下ろす。
「もう二度と金輪際、最低なアンタの事を思い出す夜は無いだろうけどな」
 ちう、と素早く果梨にキスをして、康晃は満足気に歩き出す。
 一言も返せない伸幸をその場に残して。







 振り返る事無く、果梨は康晃に手を引かれてその場を後にする。彼は終始無言でバス用品を素通りすると通路を闇雲に歩いて行く。
「あの……」
 大股で歩く康晃に必死で付いて行きながら、果梨は勇気を振り絞って声を掛けた。
「あ……ありがとうございます……」
 口を突いて出たのは感謝の言葉。
 返って来たのは唸り声。
(う……唸り声!?)
 ハッキリ言って怖い。
 無言で手を引かれ続け、付いて歩きながら果梨はつい先ほど起きた出来事を脳裏で精査した。
 元彼があれほど最低だったとは思わなかった。
 そして、その彼に圧勝した部長。
 かあっと耳まで赤くなり、果梨は藤城部長に抱き付いて顔を埋めて、どちらの体温か判らなくなるまで溺れたいと切実に願った。
 彼は助けてくれた。
 貶し、平凡だと断言する最低野郎から。
 それが泣きそうな程嬉しい。
 不意に康晃の足が止まり、背中にぶつかりかけた果梨は脳裏をぐるぐる巡っていた思考から我に返り顔を上げた。
 巨大施設の中央には、メインとなる巨大なクリスマスツリーが立っていた。やはりというか当然と言うか、周りにはツリーを見上げる男女が大勢いる。そのツリーを前にくるりと振り返った藤城が、果梨を焦がしそうな眼差しで見詰める。
「お前……ッ」
 部長の唇から洩れたのは、酷い怒りの滲んだ一言。だがそこから先が続かない。
 必死に怒りを堪え、怒鳴りたくなるのを我慢している……そんなオーラが両肩から漂っている。握り締められた手が痛い。
 咄嗟に気分を害した事への謝罪を言おうとして果梨が口を開いた。
「しゃべるな」
 一喝され慌てて口を閉じる。
 苛立たしそうに視線を逸らし、康晃はとぐろを巻く感情を整理しようとした。そうでなければまず間違いなく、彼女の肩を掴んで思いっ切り揺さぶり、「あんな男にヴァージンをやったのか!?」と公衆の面前で絶叫するだろう。
 ヴァージン。初めて。……彼女の。
(やっぱりぶん殴って置けば良かったッ)
 あの下衆野郎相手に、必死になる果穂の姿を想像して何かを粉々にぶち壊したい衝動が膨れ上がる。必死にそれを抑え込む。ここが公共の場で本当に良かった。
 これがどこかの個室だったら、まず間違いなく家具はバラバラに破壊されていただろう。
「藤城ぶ……」
「今喋ったらトイレに連れ込んで犯すからな」
 ぴたりと口をつぐむ。青ざめる果穂を前に、康晃は必死に深呼吸した。よくあの場をあれで乗り切ったと褒めて欲しい。
 何十秒後にようやく気を落ち着け、出来るだけ事務的な口調で告げた。
「今後の日程を発表する」
 上司然とした声音に、果梨が居住まいを正した。
 先程までの光景を振り払い、康晃はぎゅっと果梨の手を握り締めた。
「当初の予定通り、お前は俺にプレゼントを買う事。これは決定事項で、変更は認められない」
 納得するまで開放してくれそうもないので、果梨はこくりと一つ頷く。
「次からお前に選択肢をやる。その一、俺の部屋に行って朝まで抱き合う。その二、ホテルで同じく朝まで抱き合う」
 デコルテまで真っ赤になった果梨は、消え入りそうな声で「その三は?」と尋ねた。
「お前の部屋」
 気が遠くなる。
 思わずよろける果梨の手を引き、康晃は一歩も引かないという顔で彼女を見下ろした。
 ブラウンの瞳に炎が燃えている。掴まれた手が酷く熱い。そこから侵入した炎が、果梨の身体を駆け抜けて空洞を訴える部分に迫って行く。
「本当なら、今日はそのままお前を帰してやろうと思っていたが胸糞悪い出来事の所為で気が変わった。拒否するなよ」
 焦って口を開く果梨に先んじて、康晃が噛みつくように告げる。
「あの……碌でもない下衆野郎にッ……お前の……」
 怒りで言葉が出ない。
「…………くれてやっておきながら俺を拒むなら、その理由を三文字で言えッ」
「短ッ!」
「無いな? 無いんだな!? なら同意だ、どこがいい!?」
「こ、拒む理由ならあります! え、えと……」
「あの、最低の男より、俺が劣ると……お前はそう言うんだな、高槻果穂ッ」
 その質問に、果梨はどう足掻いても答えることなど出来ないのだった。
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