ポーンの戦略 -三十六計逃げるに如かず-

千石かのん

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 香月渚は挨拶回りに行こうと社を出る藤城康晃を何とか捕まえた。
「部長、ちょっといいでしょうか」
 フロアの隅で脚を留めた彼にきびきびした足取りで近づく。そうしながら、彼女は手にしていた鞄からクリアファイルを取り出した。
「これなんですが、あとで眼を通しておいて貰えませんか」
 A4用紙二枚くらいの薄っぺらな書類に康晃は眉間に皺を寄せた。
「なんだ?」
「……ご意見を伺いたいんです、部長の」
 これが一体何なのか。何を意味しているのか。
 そう言って微笑む香月の頬は若干強張っている。
 エントランスに取り付けられた大時計をちらと見上げ、康晃は受け取ったファイルをひらっと翻す。
「急ぎか?」
「……その書類の内容が一体何なのかに寄るんですが」
 どうにも歯切れの悪い香月に彼は眉間に皺を寄せた。こう言う時、部下はてきぱきと物事を進めるし、こんな曖昧な物言いはしない。
 まだ時間に余裕はある。
 彼は溜息を吐いてファイルから書類を取り出した。
「―――予定表?」
 そこには一日の仕事の流れと部署の人間の名前、それからフロアの見取り図なんかがエクセルで作成されていた。
 ざっくりとどういった内容の仕事が多いのかも記載されている。
 顔面にどでかいクエスチョンマークを浮かべながら香月を見れば、彼女はしおらしそうに両手を前に組んで立っている。
「なんだ、これ」
「偶然、高槻さんのパソコンを借りた際にデスクトップに張ってあった書類を開いてしまったようで。そうしたらこの一覧が」
「高槻の?」
 藤城の眉間に皺が寄る。確かに……内容的には果穂の仕事の様子、だろうか。しばらく考え込む康晃に焦れたのか、香月が身を乗り出した。
「これ、確かに業務の内容ですがこんなものを作るなんて……彼女、大丈夫なんでしょうか」
 言外に何か心の病なんじゃないかと仄めかされ、康晃は笑いだしたいのを堪えた。
 彼女が心身性のストレスを抱えている?
 まあ……自分とああなる前なら考えられなくもないが、二人で確かに分かち合ったイヴの夜を考えるとそれも解消してるはずだ。
 ふと思い出した夜が楽しかっただけに、その後きっぱりと連絡を絶った相手に感じた苛立ちが蘇る。
 ―――一瞬だけ、彼女がどこか遠くに行ってしまいそうな不安定さを見た気もするがそれは自分がその倍、優しくすればいいだけの話だ。
 それに、彼女が仕事に疲れているのだとしたら早々に退職させても良い。
 有り難い事に、康晃の現時点の収入からすれば日本の少子化問題に貢献できるくらいのものはある。
 新年早々、イヴのような家庭的な生活を妄想しかかって、慌ててそれを打ち消した。
「ストレス性の……健忘症? とかを発症してるとは思えないし、ただ単に効率の良い働き方を模索しようとして自分の仕事を精査したんじゃないか?」
 それくらいだろう。というか、勝手に人のパソコンのファイルをプリントアウトする事の方が問題だ。
(こいつは……果穂を目の敵にしてるから……な)
 普段の彼女はこんなことをしない。
 そうさせているのは……他でもない自分だという謎の負い目が彼には有った。
 今度、ハッキリと彼女に言ってやらなければならないだろう。
 香月渚は……高槻果穂の代りにはならないのだ、と。
「そうではなくて」
 そう、代りなんて居ない。
「……部長?」
「あ?」
 幸せ家族計画に没頭しそうになっていた康晃は、こちらを見上げる香月に慌てて気持ちを戻した。兎に角、彼女が言う事は愚の骨頂だ。
「これ、SNSに載せたりしてませんよね、と言う事です」
 こんなものをブログやインスタにアップして何が面白いんだ?
「どんな些細な事でも、わが社に取ってダメージになるものは避けた方が良いと思うんです」
 勢い込む香月に、彼は溜息を吐いた。
 まあ……確かに。どんなに荒唐無稽でも、誰かの穿った解釈の元に晒されれば武器となり得るのが今の時代だ。
「香月の心配は判ったよ。後で高槻に確認してみる」
 まあ、結局は自己精査のような物だと思うがな。
 受け取った書類を鞄にしまい、再び時計を見上げた藤城が急ぎ足で会社を出て行く。
 その後ろ姿を見送りながら、香月はどこか暗い笑みを浮かべた。
 まぁいい。これがどんな結果になるのかはわからないが、彼女への不信感に繋がればいいのだと。







「これ、休暇中に仕上げたのか?」
「ええまあ……でもそれは今日は関係ないんです」
 東野設計に出向いた果梨は、白石に件のパワーポイントを見せていた。だがこれは口実に過ぎない。小さな会議室を見渡し、誰も居ない事を確認してから果梨は身を乗り出した。
「去年のイヴに白石さん、果穂に会いましたよね?」
 よく見ていないと判らない程小さく、彼の身体が強張った。彼が嘘を吐く前に、果梨は「やっぱり」と大きく頷いた。
「何がやっぱりなんだ?」
「年末に電話をした際、白石さんの携帯に果穂が出ましたから。それから二十四日に『私』を見たって同僚が」
 途端白石の顔が苦々しく歪んだ。
「お前に頼まれた飲み会か……」
「その節は有難うございました」
 深々とお辞儀をする果梨の白々しさに、彼は鼻で嗤った。
「ま……お蔭で俺も果穂に会えたしな」
 苦虫を噛み潰したような顔をする白石の様子に、果梨はおずおずと尋ねた。
「それで……果穂は……」
 疲れたように会議室の椅子に凭れかかり、白石は天井を見上げる。持ち上げた手が知らず首筋を撫でていた。
「問い詰めて吐かせたよ」
「…………何……を?」
 果梨の問いに、彼はしばらく天井を見上げたまま深い溜息を吐いた。
「結婚しようって言った」
 それは人生最大の決断を下した男にしては疲れ果て、強張った声だった。慶事を喜ぶようにはとてもじゃないが見えない。果梨の脳裏に白石が二度と結婚しないと言った言葉を思い出した。
 二度と。
「…………果穂との結婚に乗り気じゃないのは……二度と結婚しないと誓ったからですか?」
 恐る恐る切り出されたその言葉に、白石が背筋を正す。先ほどまで見えていた疲れたような様子は消え、感情の読めない眼差しが果梨を映している。
「それを俺が話す相手は果穂だ。そして俺は……責任は取る男だ」
 きっぱり告げる白石に、果梨は苛立つ。
 そう言われるのが嫌だから、果穂は果梨にトンデモナイ入れ替わりをお願いしたのだ。
 話す相手としての資格は、十分にあり過ぎるほど巻き込まれている。
「その義務感が嫌だから、果穂は私に入れ替わりを申し出たんです」
 気付けば厳しい口調で果梨が告げていた。テーブルの上に置かれた手がしっかりと握られている。
「義務感からじゃない」
「では何故? どうして主義を曲げたんですか?」
 思いっ切り怖い顔で睨まれる。だが藤城のお蔭でにらまれ顔に耐性が付いていた果梨は睨み返した。
 しばらく無言で睨み合った後、男の方が折れた。感情論で戦っても女には勝てないと悟ったのだ。
「正直……判らない」
 両肘をテーブルに付いた男が、組んだ両手に額を埋める。くぐもった声が彼の困惑を物語っていた。
「確かに結婚なんて考えてなかった……だが……果穂がどこか、俺の知らない所で誰かと暮らしているのには耐えられない。そんなことを考えたら……俺の傍に置いておく方がよっぽど安心だって気付いた」
 掠れた声はどこか聞き取りにくく、苦しそうで果梨は彼が酷く悩んだ末に導き出した答えなのだと気付いた。
 どんな理由が有るのか。
「俺達の事情の所為で君を巻き込んだ事は、果穂から聞いて判った」
 話題を替えるように、いくらかしっかりした声で告げられて果梨は我に返る。
「それで……君の問題はどうする気だ?」
 入れ替わり、藤城を騙している現状をどうするつもりだ……そう問われているのだと気付き果梨の心臓が一気に不安で高鳴る。それを抑えようと何度か深呼吸した後、ぎゅっと両手を握り締めた。
「……部長から頼まれた白石さんのサポートは取り敢えず今回のパワーポイントでひと段落付いてます。他に個人的に頼まれたことは会社とは関係のない事ですし」
 震える息を吸い込み、何も言わず続く言葉を待つ白石に果梨は顎を上げ背筋を伸ばした。
「ですから今日……辞表を出すつもりです」
 思い詰めた顔をする果梨を前に、巧は掛ける言葉を探して黙り込む。
「お前が高槻果梨だってことは? 白状するのか?」
「それは……」
 探るような眼差しで告げられて、果梨は膝の上の両手を握り締めた。
 全てを白日の下に晒して去る。
 それが一番正しい事だろう。
 全てを正して、自分は居なくなるのだ。
 恐らく、クリスマスイヴのような日々には戻れないだろう。
 全身を浸した、甘く温かな感情を思い出し、果梨は辞表を出すだけでいいではないかと心が弱くなるのを覚えた。
 あのどこまでも愛おしそうに見詰めてくれる眼差しを全て失うのは耐えられないと。
 自分の中の弱さが、会社を辞める事だけ告げればいいのではないかと唆しはじめ、果梨は更にきつく手を握り締めた。。
 それは確かに安易だが、もうそんな風に逃げたくない。
「…………辞表を出すのは、彼に全部話すつもりだからです。なので……藤城さんに嫌われるのを覚悟していきます」
 か細い声で告げられた決意表明に、巧は黙り込んだ。
 彼自身、康晃に全てを話した方が良いと思っていた。力を貸してほしいというのならいくらでも貸すつもりだし、果梨に頼まれれば未だ会社に出ようとしない果穂を引きずってでも康晃の前に連れて来て、弁明させる所存だった。
 だが、彼女は自分一人で立ち向かうという。
「……辞表だけ出して、落ち着いてから事実を話したらどうだ?」
 言いにくそうな巧の言葉に、頑固そうに奥歯を噛みしめた果梨の顎が強張った。
「私は藤城さんに果梨として会いたいんです。果梨として認めて貰いたいんです。その為に……ここから居なくなるんです。なのにそれを話していなかったら、ただ単に騙しただけになっちゃいますよ」
 その言葉にぐうの音も出ない。
 確かに後から聞かされたら、騙して逃げたとしか思えないだろう。
 ふと怒り狂って自宅に押しかけて来た康晃を思い出し、巧は苦笑した。
「君に出会ってからの康晃なら……判らんがな」
 優しい白石の言葉に、果梨は切なく笑った。
「それも……今日限りです」
 きっぱりと告げられた彼女の台詞に、巧は鋭い胸の痛みを覚えた。
「アイツは……きっと理解してくれる」
 はっと顔を上げると、しっかりと頷く白石が居て果梨は泣きそうになった。
「確かに名前を偽っていたが……アイツと接してたのは君だろ? 君と過ごした時間を信じろ」
「大した量じゃないですけどね」
「問題は中身だよ」
 にやりと笑う白石に果梨は微かに頷いた。
 唯一の……望み。
 それは千分の一パーセントにも満たないが、それでも望んでしまう。
 全てを話しても尚……彼が『果梨』を求めてくれる、許してくれる未来を。
「……すまない」
 ぎゅっと握り締めた拳を解けない果梨に気付いた巧が小声で謝る。全ては自分達が巻き起こした事だ。
「アイツが事実を受け止めきれずに……君に酷い事をするようなら、俺がちゃんと証明するから」
 君がただ巻き込まれただけだって事を。
「俺は味方だからな」
 そのたった一言が骨身に沁みて、果梨は精一杯の笑顔を見せた。
「大丈夫です。ちゃんと……話せば判って貰えるはずですから」
 その見込みが甘くなければいいと、彼女は心の裡で切に願うしか出来なかった。







 一通り取引先に挨拶を済ませ、ビルを出た康晃は時計を見る。昼を大分過ぎていた。昼を食べて帰社しようと大きく伸びをした。
 年明け、仕事始めの今日は快晴。吹いて来る乾いた風は冷たいながら、日差しはやや暖かい。
 すっきりした冬の空気を吸い込みながら、駅を目指して歩き出した。周辺には商店が立ち並んでいる。どこで何を食べようかと考えていると、康晃が出て来たビルに向かって歩いて行く男に目が留まった。見覚えがある。
(あー……)
 気付いた瞬間胃の腑から不快な物が込み上げて来た。年末に出会った、見たくも無い男だ。
 そいつも康晃に気付いたようで、こちらに向かって歩いて来る足取りが瞬時に遅くなった。
 同じようにビジネススーツにコート。鞄を持った相手の眉間にくっきりと皺が寄る。対して康晃は心持ち背筋を伸ばした。胸を張って堂々と立つ。
 そのまま大股に彼に近づき、狼狽える男に「どうも」と触れたら切れそうな口調で挨拶をした。
 相手が何か返す前に、そのまま横を通り抜ける。吹いてきた寒風が効果的に康晃のコートを翻し、なんとも颯爽な印象を相手に与えるから、対峙しすり抜けられた相手、狭山伸幸の胸に黒い怒りがこみ上げた。
 脳裏にあの男が吐き捨てた言葉がリフレインされる。
 ―――お前が、唾棄すべき、最低な下衆野郎だって事をな―――
(だからといってお前が人格者だって事にはならないだろうが)
 突発的な怒りの衝動に駆られる事に慣れている人間は、後先を考えずに言葉を発する。
「果梨は元気ですか?」
 背後から掛けられた声に康晃は振り返った。
 冷やかに見下ろせば、へらっと笑った男が立っていて康晃は虫唾が走った。
 だが自分は大人だ。相手から向けられる敵意と悪意に立ち向かうだけの術を持てるよう、鍛えられた。
 そこで穏やかな営業スマイルを返した。
「失礼ですが、なんと?」
 非の打ちどころのない笑みに、伸幸は舌打ちしたくなる。
「だから、果梨は元気かって聞いてるんだ」
「………………かりん?」
 その名が、康晃の中で引っかかった。誰の事かはなんとなく想像がつく。というか、この男が関わって康晃に関係のある女は一人しかいない。
 だが……かりん?
「そうだよ、お前が上手く言いくるめて手にしてるあの女だ」
 苛立ったように告げる男に、更に康晃の眉間の皺が深くなった。
「……高槻の事か」
「そうだよ」
「彼女なら問題ない。俺と居て幸せじゃない女なんかいないからな」
 薄く笑いながら堂々と告げる康晃に、伸幸は苛立った。
 あの女は俺と居る時だって幸せそうだった。俺の為に、喜んで何でもしてくれたのだから。
「……一体どこでアンタを捕まえたのか」
 鼻筋に皺を寄せて吐き捨てる男に、康晃は苛立つ。捕まった覚えはない。どちらかというと自分から捕獲しに行ったのだ。
 そう堂々と宣言しようとして。
「あんたの会社にどうやって再就職したのか知らないが、気を付けた方が良いぞ。頼めばなんでもしてくれるかもしれないが、他の女の手柄を横取りするような奴だからな」
 伸幸が根も葉もない……果梨が聞いたら卒倒しそうな内容をべらべらしゃべり出す。
「実際、アイツの先輩が俺に泣き付いてきたからな。果梨を何とかしてくれって。ま、結局居づらくなって辞めてったわけだが、アンタも入って来た新しい女が気になっただけでのめり込んでないんなら手を引いた方が良いぞ」
「………………おい」
 果梨の評判を落とそうと、意図的に嘘を喋った伸幸は、低い男の声にぎくりとする。
 果梨とこの男の間がこじれればいい……そう思ったので言った台詞だが、もしこの男と果梨がしっかり繋がっていたとしたら非難されるのは自分になる。
(いや、構うもんか)
 もうアイツは俺に関係ない。アイツの人生に俺は関わっていない。だからどうなろうが知ったことか。文句を言われる筋合いも無いだろう。
 こちらを見る冷やかな眼差しに気圧されそうになるが、伸幸は脚を踏ん張った。
 誰かを不幸にするなら、最後までだ。
「なんだ? 俺は正しい事をしようとしてるだけだ」
「…………お前の言ってる女は、この間俺が一緒に居た高槻の事だよな?」
 唐突に変化球が来て、伸幸は戸惑った。
 顔全体にクエスチョンマークを浮かべる伸幸に、康晃はかみ合わない歯車の刻む、揃わないリズムに苛立った。
「そうだが?」
「…………かりん?」
「ああ、高槻果梨。って、お前アイツの名前知らないわけじゃないよな?」
 だとしたら傑作だと、伸幸が乾いた笑い声を上げた。
「あの女、俺の事何も説明しなかったのか? 今はどこに就職してるか知らないが俺の会社に新入社員として入って来て。営業補佐だ。で……分かるだろ? 公私ともに色々便利だったからさ」
 肩を竦める伸幸の語る内容が、徐々に康晃の中で新たな歯車を作って行く。
「アンタの所でも補佐やってるのか?」
 皮肉な笑みを浮かべる伸幸を、康晃は無視した。
 高槻果梨?
 それは……誰だ? 俺の知っている女?
 高槻果梨の悪口のほとんどを聞き流しながら、煩いスピーカー男の口を塞ぐように康晃は声を荒げた。
「高槻果穂は? 知ってるか?」
「果穂? ……あー、アイツの姉さんがそんな名前だったかな。っても、双子だっていうから歳は一緒なんだけどな」
 康晃の身体を悪寒が走った。
 姉?
 双子の?
 瞬間、康晃の脳裏と胸の内に引っかかっていた様々な小さな疑問が一気に解けて行くのが判った。
 ちぐはぐな物言い。そぐわない格好。自分が知る彼女と違う彼女。名前で呼ぶなというセリフ。
 果梨。
 かみ合わなかった歯車が、がたん、とずれてようやく正しいリズムで回り始める。康晃は衝撃に眩暈を覚えた。嵐のような感情の波が身体を襲う。
 驚愕、不信感、動揺。そして怒り。
 トンデモナク強烈な、怒り。
 彼女は――――騙していたのか?
(この……俺をッ!?)
 冬の快晴。冷たく身を切る寒さの中、目に見える真っ黒なオーラを放つ男に、伸幸の身体が引けた。自分の何がこの男の感情を煽ったのか判らない。判らないが、ぎらぎら光る眼で睨まれて気付いた。
 上手い具合に、果穂を窮地に落とし込めたのではないだろうかと。
「申し訳ないが」
 怒りに震える声が伸幸に告げる。
「俺はこれで失礼する」
 くるりと踵を返し、康晃は怒りに任せて歩き出した。残された伸幸は、いつの間にか固く握りしめていた拳を開き、長い長い溜息を吐いた。そして笑い出す。
 やれやれ。せいぜい苦しめばいい。
 もう自分には関係のない事だ。だが、彼女が困ればいいと、下衆な事を考えながら。

 感情の中核に居座るのは『騙された』という単語。そこから枝分かれして派生していくのは『何故』『何時から』『どうやって』『どうして』という言葉たち。
 一つ一つに康晃は明瞭な答えを見いだせなかった。トンデモナイ方向に伸びた枝が指し示す物の中には『産業スパイ』という単語が有ったりする。
 ICHIHAの……しかも白石が担当する建築物に応用される技法。それはある意味自社のメイン部分だったりするのだ。そこを他社にすっぱ抜かれるのは酷い痛手だ。
(高槻果穂……)
 恐らく、彼に打算からプロポーズして来たのは果穂本人だろう。その後、彼女達は何らかの理由で入れ替わった。
 どんな理由で? 何が有って? 何をするために?
(くそッ)
 判らない事の多さに苛立ちが募る。その中で一つだけ確かな事があった。
 それは、彼女……高槻果梨が自分に身体を許したのに、決して心を許してはいなかったという事実だ。
 いくらでも話す機会が有ったはずだ。ああなる前に。それを話さなかったのは康晃を信じていないからだ。逃げ腰だったのも頷ける。康晃を信じていない、騙しているのだとしたら真実に近くなるかもしれない彼を遠ざけようとするのは当たり前だ。
 愚かな自分はその彼女を追い続けた。
 欲望に忠実で、どうしても彼女が欲しくて。
 もし逃げたのも打算の一つだったら?
 嘘を吐いたまま康晃を手に入れ、このまま素知らぬ振りを通そうとしているのだとしたら。
(……二十四日のあれも……全部計算)
 彼を完全に自分の思い通りにするために、何もかも演出していた。
 彼の中で高槻果梨という人物の輪郭がぼやけ、裏切られたという痛みだけがそれを貫いて行く。疑いだせばきりがなく、彼女が何をしようとしているのかもはや判らなくなる。
 兎に角今出来ることは、彼女を問い詰める事だけだ。
(…………逃がさない)
 何をしようとしているのか、それを吐かせてからだ。
 何もかも、あれもこれも。
 全部を踏みにじった彼女を罰するのはその時を置いて他にない。






 その日一日はのろのろと過ぎて行った。外回りから戻って来た部長はそのまま新年一発目の会議に呼び出され戻ってこない。回り出した新たな年。相変わらずの営業部を見渡し、藤城が居ないうちに総務に辞表を提出しようかと上の空で考えた。
 それよりも先に部長に話をしようか。
 藤城に真実を話す。
 そうしようと決心はしたが、果たしてどうやって切り出していいのか見当も付かない。
(会社を騙していたので辞表を出します……って?)
 その理由を話したとき、激怒した彼に雷を落とされるだけで済めばいいが、その前にきちんと納得してもらえるような話し方を出来るかどうか。
 過ぎていく時間と、動き出せない感情の間に挟まれてうんうん唸っているうちに終業になってしまった。
 藤城はまだ戻ってこない。
 比較的のんびりした空気の流れるフロアは、積極的に働く人と早々に引き上げる人で別れている。ぐずぐずしているうちに、果梨はいつの間にか部署に一人になってしまった。
 総務はまだ誰かいるだろうか。それとも藤城を待つべきか……。
 ぎゅっと目を閉じて良い方のイメージを膨らませる。
 彼が……怒っても許してくれるイメージを。
 何日も考えたのだ。こうするのが一番いいと。こうする為に今朝、家を出たのだ。
(先に出してしまおう……)
 総務がまだいるか判らないが、鞄を手に取り中に入れたままの辞表を取り出そうとしたそのタイミングでスマホからメールの受信を告げる鐘の音が響いた。
 画面の表示は藤城康晃。
 会議からはまだ戻ってきていない筈だが、と多少疑問に思いながらも果梨はメールを開いてみる。
 そこには「会いたい」という四文字と場所の名前が刻まれていた。
 不意に鼓動が高鳴り、一瞬で干上がった喉を潤すようにごくりと喉を鳴らした。
 その四文字には、物凄い破壊力があった。
 身体の奥に刻まれている彼の熱が、一瞬で全身を侵食するような……そんな力がある。
 彼の手に、唇に、肌に、髪に、触れられた箇所がつぎつぎと熱を帯びていく。
 それを全て捨てる。
 思った以上に指先が冷えて震え、なかなか入力が出来ない。だが、彼女は痛すぎる胸の内を隠して「分かりました」と時間を掛けて打ち込んだ。
 ここから自分の人生は百八十度変わるのだと、心が冷たくなるのが判った。






 私も会いたいです
 その文字を眺めながら、康晃は自分の胸がトンデモナク痛むのを感じた。
 どういう意味で? 何の為に? どうして?
(くそッ)
 巡る疑問に耐えられずぐしゃりと前髪を握りつぶす。その後、康晃は苛立った表情で顔を上げた。
 問い詰めるべき時が来た、と。

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