ポーンの戦略 -三十六計逃げるに如かず-

千石かのん

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 高槻果梨と距離を取ってそろそろ三週間。
 康晃は未だ自分の中で、彼女に対しての感情を整理出来ないでいた。
 今も項垂れたようにモニターを見詰める果梨の姿に、全身が痛くなる。
 駆け寄って抱き締めて、何でもないと言いたい自分と騙されていた、理由がクダラナイ、何か裏があるんじゃないかと大声で叫ぶ自分が居る。
 ある時は彼女は無実で、本当に何の悪気も無かったんだと納得する。だがその数時間後には彼女は何も話してはくれなかったという事実を前に苛立つ。切り替えが得意な筈の康晃だが、この一か月は自分が何をしてどんな判断を下したのか非常に曖昧だった。
 苛立つあまり普段より素っ気なくなり部長会議でちくりと嫌味を言われる始末だ。
 こんなジェットコースターのような気持の上げ下げを繰り返して良いわけがない。
(それも……)
 彼女の……そして高槻果穂の罪がハッキリすれば解消されるはずだ。
 経理と人事のセキュリティ課には内密に話はしてある。彼等なら、高槻果穂の仕業を突き止めてくれるはずだろう。
 いや、突き止めてくれないと困るのだ。
「部長」
 入り口から呼ばれ、康晃は顔を上げた。上から吊られたように背筋を伸ばした香月が強張った顔でこちらを見ている。
 立ち上がり、ゆっくりとそちらに向かう。
 その姿を、パソコンのモニターから顔を上げた高槻と羽田が見ていた。
(果梨……)
 彼女に視線をやらなくても、彼女が不安そうにしているのが判った。いつ、自分たち双子が犯した罪が暴露するのだろうかと戦々恐々としている事だろう。
(……俺は……)
「会議室でお話が有ります」
 人目を避けるように、小声で告げる香月の言葉にはっと我に返る。アーモンド形の瞳を見ながら康晃は震えて痛む心を隠して「ああ」とだけ答えた。




「行ったわね」
 頼まれた書類を作りながら麗奈が言う。
「そうね」
 ややしっかりした声がして、麗奈は振り返った。そこには渋面でキーボードをたたくお通夜継続中の彼女が居る。
「……長い一週間だったわね」
 既に果梨と麗奈で飲みに行ってから一週間が経っていた。
「首尾は?」
 簡潔に果梨が尋ねる。
 それに、うふふふふ、と得意そうな笑い声が聞こえて来た。
「聞いて驚け……麗奈さまは己が楽しい事なら全力投球もいとわないのだよ」
 喉の奥で笑う麗奈に軽く戦慄しながら、彼女は「そう」とモニターをガン見しながら答えた。
「いよいよね」
 その言葉に、麗奈は胸が躍るのを感じた。
「そう、いよいよだ」






「……何も無い?」
 香月渚は悔しそうに奥歯を噛みしめた。頭の中が真っ赤になるのが判る。
 藤城部長から頼まれて、例のファイルが怪しいから、彼女が関わった案件や出退勤、不明時間等が無いか徹底的に調べてくれと頼まれた。
 経理と人事と共に内密に調べたのだが、彼女が怪しい行動を取ったと証明される物は何一つ発見できなかった。
 領収書や備品ですら全部規定に則り、手順を踏んで発注されボールペン一本、くすねた記載は無かった。
 それが渚は悔しい。
 きっと何かある筈なのに、ここまで狡猾に事実を隠蔽できるとは。
(あの女ッ……)
 自分の悪事が露見するのではないかと、この数週間肩を落として震えていたくせに。それは世を忍ぶ仮の姿と言う事か。
 その真っ黒な腹の中で……私と部長を嘲笑っていたのよッ!
 昔開いた黒い穴。そこがまた、吸引力を増していく。
 持っていたファイルを力一杯握り締める香月とは対照的に、康晃は混乱すると同時にほっとしていた。
 何も無い。
 彼女達は……ひいては果梨は何もしていない。
(本当に……?)
 しょんぼりと項垂れた姿。痛々しい程震えていた肩。攻め立てられ、思いやりの欠片も無い抱かれ方にショックを受けていた顔……。
 ふと見た己の右手が、痛い程きつく握りしめられ震えているのが判った。
 本当に? 本当に彼女はそんな「クダラナイ理由」で入れ替わったのか? ただあの下衆野郎から逃げて、果穂の代りになる事を受け入れたと?
(いや……だが……しかし……)
「きっと巧妙に立ち回ってるんです」
 ふと低く呟くような香月の声を聞き、はっと康晃が我に返る。
 怒りから身体を震わせた香月が、絞り出すような声で言う。
「じゃなきゃ……あんな女が……」
「香月?」
「部長! 彼女は犯罪者です。これがその証拠です。間違いないんです!」
 力一杯握り締めた書類を振り回す。
「あの女が……そうじゃなきゃ、この私を差し置いて……」
「香月!」
 彼女の思想が危険な方向に傾いている事に気付き、康晃は低い声でなだめるように……だが厳しさを込めて名を呼んだ。
「経理も人事もなんの問題も無いと言ってるんだ。むしろ模範的な社員だと、報告書には記載されている」
「ですが!」
「これ以上、無い事で騒ぎ立てれば今度は君が処分される」
 厳しい一言に、香月がはっと身を強張らせた。じっと見詰めて来る藤城部長の視線の意味を取り違える程渚は馬鹿では無かった。
 このファイルの出所は、康晃の一存で伏せられた。社員が不正を働いているのではないかと言う事で、検証して欲しいと申し出て、その一環として差し出したものだ。
 調べた側も提出した側も出所は暗黙のルールで黙認している。
 だが、調べた結果、何の罪の証拠も出ないとなると騒ぎ立てたこちらが火の粉を被る。
 その事実が、渚……そして康晃の脳裏にじわりと浸透した。
 それが……康晃には奇妙な程嬉しかった。
(そうか……そういう事実はないのか……なら……)
 ―――やっぱり納得できない。
 高槻果穂が果梨に入れ替わりを頼んだ理由が。
(そもそも彼女はどこに居る……?)
「――――なんで……」
 自身の考えに没頭しかかっていた康晃は、その一言に顔をあげた。
 俯き、真っ白になるほど手を握り締めた香月が怒りの滲んだ眼差しに康晃を映した。
「なんで……あんな……失礼ですが彼女の日々の勤務態度から見ても、他の部員と比べて明らかにやる気がありません。模範的な社員だなんて、私の目からは到底思えません」
 書類を掲げ一歩、二歩と詰め寄った渚が、康晃のシャツを掴む。
「部長だってそう思われませんか? 今だって、しおらしい空気を出してますが私に言わせればパフォーマンスな気がします。大体……頼まれた事すらちゃんとできないのに。それが模範的だなんて心外です! そしてなによりこの書類が一体何なのか説明がつきません! きっと……きっとなにか後ろ暗い事に加担して私達を騙してるんです。なにか犯罪者の一味と―――」
「いい加減にしろッ!」
 びくりと渚の身体が強張る。対して、声を荒げた康晃は感情のまま口走っていた。
「高槻はそんな人間じゃないッ!」
 小会議室に、その声は驚くほど響いた。
 古びた街の上空で朗々と響き渡る鐘の音のように。
(あ……)
 耳の奥でこだまし、永遠と消えない余韻となって響く己の声に、康晃は震えた。
 高槻は、そんな人間じゃない。
「藤城部長……」
 愕然とした香月の眼差しを捉えながら、康晃はすとんと胸に落ちた言葉に乱れた呼吸を整えながら静かに続けた。
「…………彼女はそんな人間じゃないんだ」
 そこに混じったのは、疲労と、敗北と、諦め。自嘲。そして……希望だった。
 そんな人間じゃない。
(俺は馬鹿か)
 怒りのフィルターがばらばらと落ちると、果梨を見ていた真っ赤な目が澄んで透明になる。
 その透明な眼差しで見た果梨の姿が、康晃の骨に突き刺さった。
 どんなに彼女は辛かっただろうか。勝手に果穂の代りにここに来て、逃げる予定が果穂から受けた謎のプロポーズで藤城康晃という人物と関わり合いになって。
 必死に誤魔化そう、騙そうとして。
 そこに滲んだ一生懸命さに……見えない努力に、俺は惹かれたのかもしれない。
 正体を知ってからのジレンマがゆっくりと溶けていくのが判った。
 彼女は罪を犯していない。
 ならば……そもそも、彼女の罪は何だ? 俺は何故、どうして、あんなに彼女を攻め立てた?
 ――――それは罪、云々では無くて…………?
「…………どうして」
 震える声がし、康晃が顔を上げる。
 怒りに震える香月の姿がそこにあった。
 必死に両足で床を踏みしめながら、縋るように康晃のシャツをきつくきつく握りしめる。
「どうしてですか? どうして彼女なの!? 私とあの子となにが違うって言うんですか! 彼女よりもずっとずっと私の方が優秀じゃないんですか!?」
 真っ直ぐに己の意見をぶつけて来る香月に、康晃はふっと目を伏せた。
 彼女と対面した深夜の駅前。あの時本人に気付いて欲しくて飲んだ言葉が口を突いて出る。
「君と果り…………高槻の何が違うのかというと……」
 そっと彼女の手をシャツから放し、強張った指先を解いてやった。
「―――結果が全てだって、そういう現実を受け入れている所だよ。君はこれだけ努力をしたから、これだけの見返りがあって当然だと言う。けど、高槻は違う。どれだけ努力しても結果を残せなければ意味がないと知っている。だから君に嫌がらせを受けても、ミスをしたのは自分だからと飲みこんだ。俺が勘違いして怒ったのにもかかわらず弁解すらしなかった。そこは……弁解して良かったのにだ。あいつはそう言う『努力』がある事を知ってる。目に見える『努力』じゃない、目に見えない『努力』だ。そして……俺はそれこそ評価したいと思うし、汲んでやりたいと思うし、認めてやりたいと思う。だが、部長ではダメだろ? 結果が全てだと言わなくてはいけない存在の筆頭だ。会社の……上司なんてのは」
 あいつが溜め込んだ言葉や思いを汲んでやりたかった。
(なのに俺は土壇場で彼女の言葉や思いを切って捨てた)
 震えていた背中。
 その小さな背中に背負っていた物を、俺は「クダラナイ」と評価した。
 一度息を吸い、ゆっくりと吐きだす。そうしながら康晃は低く掠れた声で告げた。
「だからと言って、君が努力していないとは言わない。ただ……俺には違ってただけだ」
 違っていただけ。
 その一言に、香月の身体の中心で何かがバラバラに砕けるのが判った。
 ――――俺が欲しい好きじゃない。
 あの日言われた一言が急にフラッシュバックし、眩暈がする。
 違っていた。欲しい物じゃない。
 だったら何? どうすればいい? 
 今までの人生で、褒められない事は無かった。望めば手に入ったしやれば出来た。怒られた事も無いし、期待を裏切った事も無い。
 その人間の努力が「違う」? 「好き」になれない?
 そんなバカな。
 暗く開いた彼女の淵が、再び香月渚を飲みこもうと広がって行く。
「そうですか……」
 不意に、香月は気付いた。
「判りました」
 一歩、二歩、と藤城から離れ手を降ろす。それからゆっくりと歪んだ笑みを見せた。
「違っているのなら、正せばいい。そうですよね?」
「俺が言ってるのは、君の努力は部下としては正しかったと言う事だ。だがそれが俺には響かなかっただけ―――」
「では正しい事をします」
「香月!」
 叱責は、彼女の裡に開いた淵に飲みこまれて届かない。
 踏み出した足元が確実に崩れているのに、香月は無理やりそれを踏んで歩く。そんな危うさは……微妙な均衡を保っていた秤のバランスを崩すのに、十分すぎるほどの衝撃だ。
 例のファイルを握り締めて、早足に部署のフロアを目指す香月に、康晃は焦った。
(正すってなんだ? どうする気だ!?)
 それが判ったのは、茫然とした分出足が鈍った康晃が、営業部のフロアに辿り着いた瞬間だった。






 「あの日」から一週間。毎日を淡々とこなしてきた。
 そう言えばつまらない仕事だったと、パソコンを叩きながら思ったものだ。よくこんな毎日を送れるものだと。
(ま……それを選んだのは私だケド……)
 なんとなく就職試験を受けて受かり、毎日働く。
 単調だけど、人と付き合うのは面白かった。給料も良かったから手放したくなかったが、人生が一変したのだから仕方ない。
(…………それも終わり)
 窓の外を見ながら、高槻果穂はひっそりと笑った。





 目の前の机の空いたスペースに、耳障りな音と共に叩きつけられた物があった。
 窓の外を見ていた彼女がゆっくりと視線を落とす。
 そこにあったのは、例の勤務形態から営業部の情報などが書かれたファイルをプリントアウトしたものだった。
 のろのろと視線を上げると、眼をぎらぎらと光らせた香月がこちらを見下ろしていた。
 頭から爪先まで、その様子をじっくり観察してから、果梨は口を開いた。
「何?」
 非常に冷たい声が出た。出入りしていてこの事態にぶつかった他の営業部員がぎょっとするほどの異常な冷たさ。
「それはこっちが聞きたいんだケド」
 対して香月の方は烈火の如く、言葉尻が燃えている。抑えきれない怒りが滲んでいるのだ。
 猫のようなアーモンド形のキツイ眼差しと、部長に負けず劣らずな冷やかな間差しがぶつかり合う。
「何やってる!」
 日常的なざわめきを無音にする程の沈黙が周囲を包んでいた。その中に焦って飛び込んだ藤城が眉間に皺を寄せた。香月が果梨に大勢の人の中で突きつけたファイルを見て舌打ちしたくなる。
 これでは事態が大きくなる可能性がある。だが藤城が入るより先に、香月が勝ち誇ったように告げた。
「これ、うちの内部情報よね? こんなにご丁寧に書きだしてどうするつもり?」
 そうだ。正しい事は正しい物なのだ。こんなファイル作ること自体が正しくない。
 だからそれを正すのは、正しい。正しい。正しい……。
 ちらっとその書類に目を落とした果梨を、部署のほぼ全ての人間が見ている。誰も一言も発さない事態に、康晃は苦いものが込み上げるのを覚えた。
 それは……果梨と果穂が入れ替わる際に作られたものだ。その事実が暴露されれば、どちらもただでは済まない。康晃的にはその書類を「言い訳」にして果穂を調べたかっただけなのだが、これでは藪蛇になりかねない。
「高槻」
 彼の視線の先で、果梨は微動だにしない。
 だが次の瞬間、ひどくゆっくりと彼女が顔を上げた。
 その表情に、康晃は衝撃を受けた。
 にやり、としか表現しようのない笑みが彼女の口元に漂っていたのだ。
 うっすらと笑ったまま、果梨はゆったりと椅子の背に凭れかかった。
「まさか……こんなに簡単に引っかかってくれるとは思ってなかったです……香月さん」
 不気味に落ちた沈黙を、のんびりとした軽い声が打ち破った。
「………………は?」
 ぴく、と香月の眉が上がる。対して果梨はにっこり微笑んで、頬に手を当てて首を傾げた。
「ね、これで判ったでしょう? 羽田さん」
(羽田?)
 全員と同じように、康晃の視線がスライドする。
 満場の注目を一心に浴びて立ち上がった羽田が「香月さぁん」と自分の可愛らしく巻かれた髪に指を滑らせてくるくるさせ始めた。
「私は果穂ちゃんの間違いだってぇ、何度も言ったんですぅ。でも聞かなくて……だって証拠も無いのに自分が作ったコンペ資料の内容を誰かが他にリークしようとしてるなんてぇ……信じられないじゃないですかぁ」
 コンペ資料のリーク?
 周囲がざわめく中、高槻と羽田のコンビは重大発表を続けた。
「香月さんほどのちょうちょうちょーう優秀な営業さんがぁ……まさか人のUSBを勝手に覗くなってするわけないってぇ……私は散々言ったんですぅ」
「でも見てよ、羽田さん。これがその動かぬ証拠でしょう?」
 今まで黙っていた果梨が立ち上がり、両足を開くとその場に仁王立ちになった。書類をひらりと翻し、顎を引いてにやりと笑う。鋭く、切れそうなその眼差しに、康晃は再び衝撃を受けた。
 自分が知る果梨とは、まるで別人だ。
「こ、れ。私がダミーで作ったんです。誰かが私の能力が劣ってて、重要なコンペにエントリーしてる白石さんに釣り合わないと思ってたみたいで。私が苦労して作ったファイルを何者かに改ざんされたりしてたんですよね」
 ひたり、と高槻の眼差しが香月を捉えた。
「だ、か、ら。これを作って私がいかにも不正を働こうとしてるって……見せかけてみたら……あらら~、どうしましょう。こ、れ、香月さんから貰っ、ちゃっ、た」
 次第に状況が飲みこめてきた全員が、ざわめきだす。
 当然、事態に気付いた香月は、みるみる真っ青になって行った。
「な……何言ってるのよ! あんたが不正を働こうとしてるのは私がよく知ってるんですからねッ! それを……なにでたらめ言ってるのよッ!」
「―――果穂からコンペの仕事を奪っておいて良く言うわよ」
 羽田がぼそりと周囲に聞こえるくらい大きなひそひそ声を漏らした。全員がその一言に、率先して白石とのコンビを引き受けた香月を思い出した。
 彼女がそれを引き受けるのを誰もが不思議がっていた。
 追いうちは続く。
「ねえ、果穂。言ってやりなよ。自分が作った物を壊されて間に合わないって部長に言ったらそれはもうやらなくていいって言われたんでしょ?」
「ちょっと羽田さん! それは言わない約束でしょ!」
 オーバーに慌てて見せた果梨が、計算しつくされた動きで羽田の口を押える。
「私が悪いの。パスワードとか設定しておけば良かったのに。だから」
 泣きそうな顔と、これまた計算しつくされた間を取って胸に手を当てる。
「部長は悪くない」
「嘘よ!」
 香月の悲鳴がフロア内に響き渡る。
「嘘です、部長! こんなの……こんなの茶番ですッ!」
 振り返った香月の目には必死さが、眦には涙が滲んでいる。だが、康晃は完全にフリーズし、魅入られたように果梨を見ていた。
 ちらりと彼女が此方を見る。
 火花が散る程の勢いで、康晃と果梨の眼差しがぶつかった。
 その瞬間、悪女宜しく果梨が全てを馬鹿にしたような笑みを返した。
(な――――ッ)
「部長」
 すとん、と真面目な声になった果梨が、ゆっくりと康晃に向き直る。
「この一週間、セキュリティの谷口くんに頼んで、このUSBが何時どこで開かれたのか、逐一教えて貰いました。その結果、私が完全に退社した後にこの営業部で開かれた形跡が一件だけ有ったんです」
 もはや香月の顔色は、青を通り越して白い。
「その時このフロアに残っていたのは香月さん、ただ一人。それは監視カメラの映像で確認済みです。そしてその旨はすでに人事に通達してます。ですが、私は――――」
 一際大きな笑みを、彼女が浮かべた。
「三週間前に部長に提出した、退職届が受理されてない事に異議を申します」
 とんでもない所から飛んで来たカウンターパンチに、康晃はぎょっとした。
 だが自動追尾で攻撃は続く。
「ですが、今回の香月さんの件は、私の出勤を今日で最後と認めて貰える事で無かったことにしますと既に伝えてあります。何せ私、退職しちゃいますし。同様に、私が出した届を早急に人事に出して上層で検討して頂けなかった……一種のパワハラも、これで無しにします」
 よろしいですね?
 にっこりと微笑む果梨に、開いた口が塞がらない。
 何か言わなければ。いや、それを言う前に……。
 ふふん、と肩をそびやかす果梨のその、堂々たる立ち居振る舞いに康晃は確信した。
 彼女は……この目の前にいる女は―――
「お前……ッ」
「た、退職って……理由は?」
 唖然と成り行きを見ていた本橋が、恐る恐る尋ねる。それにふっと果梨が視線を落とした。
 先週の「あの日」を思い出す。
 この判断が何に繋がるのかは判らないが、それでもこれだけは言わないといけない。
 ゆっくりと顔を上げ、まっすぐ前を向く女の悲壮感に、康晃の身体が自動的に動いた。
 彼女が何を言おうとしているのか、手に取るように判ったからだ。
 世界がスローモーションになる。
 今ここに居る、高槻の姓を持つ者が悲しそうに笑って。
「それは今ここにいる私、高槻果穂が」
(言うなッ)
 それを言わせたいわけじゃない。皆の前で糾弾したいわけじゃないのだ。
 色々な問題が確かにある。だが……康晃は出来る事なら白と黒で分けたくなかった。
 処罰されなくてはならないのは分かる。自分だってそれが正しいと思っていた。だが、正しい事全てが望まれる終わりとは違うのだと知った。
 高槻果梨はそんな人間じゃない。
 明確な証明書の発行など出来ない、だが自分がやっとのことで手にしたこの信頼という証明書を台無しにしたくなかったのだ。
「年末から違う――――」
(駄目だッ)
 気付けば力一杯手を伸ばした康晃が、彼女の口を掴むような勢いで塞いでいた。
「!?」
 こちらを見る彼女の目がびっくりしたように大きくなる。
「ちょっと来いッ」
 そのまま有無を言わさず、肩を押して営業部の入口へと引きずって行く。その間、もごもご言っている彼女は完全無視た。
 唖然とする部署内の人間と、椅子にへたり込んでいる香月を残して二人が退場していく。後に残った羽田が「あ~らら」と妙に間延びした声を上げた。
「今日で最後にしては呆気ない退場ですね」
 それでいいのか!? という物言わぬ突っ込みがその場にあふれかえった。





「何のつもりだ、高槻果穂ッ」
 廊下で彼女の口から手を離し、怒りも顕に告げる。対して彼の前に立ちはだかった女は、負けるもんかと顎を上げて見せた。
「何か御用ですか、藤城部長」
「大ありだ! ていうかお前……全部暴露しようとしたな?」
 ぎりっと奥歯を噛みしめて告げるその言葉に、果梨が背筋をピンと伸ばした。
「二人で話し合った結果です。藤城部長に信じて貰う為には、全員の前で罪を認めるしかないって。ただし、何の他意も無く入れ替わっただけ―――」
「俺はそんな事望んじゃいない!」
「望んでたから果梨を攻め立てたんでしょう!?」
 その台詞に、康晃は確信した。
「お前……ッ! 果穂だろッ!」
 こんなことをするのは、果穂しかいない。あんな風に笑って、あんな風に容赦なく攻撃を繰り出せるのは、あの女しか居ないだろう。
「果梨はどこに行った!?」
 彼女の手首を掴んだ康晃の怒鳴り声に、彼女はこちらが思わず怯むほどじっと康晃の顔を覗き込んだ。
「―――さあ?」
「さあって……」
 掴む康晃の腕を強引に振りほどき、果穂は痛みを堪えるようにして微笑んだ。
「いつか会えるんじゃない?」
「………………お前ッ」
 再び手を伸ばし、捕まえて納得のいく説明を求めようとする。
 そもそもこの女の所為で、果梨はあんな嘘を吐かされたのだ。
 俺に、最後まで隠し通そうとしたあの嘘を……。
 俺が見抜けなかった、重大な果梨の隠し事―――それに、康晃ははっとした。
(そうか……俺が怒ってたのは……)
「部長」
 きっぱりとした果穂の声に、康晃が物思いから我に返る。はっとして見れば、彼女は逸らす事無くじっと康晃を見詰めていた。
「私はここに、決着を付けに来たんです。自分の……入れ替わりも含めて。でも、部長はそれを許してくれないのですね。……あくまでも、ご自分で果梨の裏切りを追求すると」
「違う! 俺は……俺は、お前に……いや、果梨に―――」
 信じてやれなくてごめんと、ただ自分は今でも果梨のことを……
「~~~兎に角、果梨に会ってからだッ」
 柔らかな果穂の手首を、康晃の乾いた指先が掠めた瞬間、「そうですか」と彼女がふっと目を伏せた。
「―――今までありがとうございました。楽しかったです」
 そんな小さな謝罪に続き、廊下を行く全ての人間が振り向くほどの大音量が鳴り響いた。
「!?」
 サイレンにも似たそれは……間違いなく防犯ブザーのそれで。
「助けてぇッ! この人、自分が浮気したくせに私が結婚するのを阻止しようとするトンデモナイ男なんですぅぅぅぅぅ! それでこんな嫌がらせをーッ」
 丁度付近を巡回警備していた警備員が気付き、険しい表情で近づいて来る。
「おい、ちょっと待て」
「藤城部長? なんの騒ぎですか、これは……」
「待て! それは全部あの女のでっち上げでッ」
 なんだなんだと外に出て来た連中が好奇の眼差しでこちらをみる。それに激怒し、逃げを打つ果穂に掴みかかろうとした康晃は慌てた警備員に後ろから羽交い絞めにされた。
「部長! 落ち着いて!」
「お、落ち着けるか! あの女が全ての元凶で」
 必死に振りほどこうともがきながら、射殺さんばかりの眼差しを向ければ、そこに居た女は徐々に出来つつある人垣の後ろにするりと混じり、康晃をじっと見詰めた。
「果梨は本当に何も企んでません。それをまだ信じられないって言うなら……」
 ふっと微笑んで。
 思いっ切り舌を出した。
 あっかんべー……と。
 それからざわつくフロアを、嵐のようにさっさと通り過ぎて行く。
「ま……」
 怒りで目の前が真っ白になる。
「待ちやがれ、高槻果穂ーッ!」
 その絶叫だけが朗々と、フロア一杯に響き渡ったのである。






「災難だったな」
 高槻果穂の退職理由は結婚。相手は東野建設の白石巧―――それを羽田から聞き出した康晃は、自分は高槻果穂とは一切何のかかわりも無く、退職届を出さなかったのは結婚しても働く道はあると説得する為だったと警備、営業課長、人事課長、人事部長、専務に話した。更に呼ばれた白石が全部本当の事だと証言して裏を取り、「気を付けたまえ」と厳重注意をされて二人が会社を出たのは二十二時を過ぎていた。
「そんな言葉で片付けないで貰えるかな」
 怒りに呻くような一言に、巧は同情した。
 あの双子が巻き起こした騒動に、完全に巻き込まれただけの康晃がいっそ哀れだ。
 なので静かに尋ねてみる。
「なら……もう関わり合いを辞めるか?」
「冗談」
 間髪入れずに答えが来て、おやっと巧が眉を上げた。見れば闘志を燃やした康晃の座った眼差しがそこにあった。
「俺の評判を此処まで地に叩き落としておいて、許せるわけがないだろうがッ」
「半分以上自業自得だろ」
「煩いッ」
 その瞬間、康晃は確信した。この男は……果穂と果梨の入れ替わりを知っている。何故か直感で判ったのだ。
「……お前、知ってたのか?」
 確認するように尋ねると、三秒ほど沈黙した後、「ああ」と低い声が答えた。
「ICHIHAに居るのが果穂じゃないと気付いて……誰だと問い詰めた」
 淡々とした巧の言葉に、康晃は腹に鈍い痛みを覚えた。ぎりっと奥歯を噛みしめる。
「つまり……俺はそれに気付けなかったと言う事か」
「そっくりだからな、あの二人」
「そう言う問題じゃないッ」
 噛みつくように告げる康晃に、巧は肩を竦める。
「じゃあどういう問題だ?」
 俺がアイツの最大の隠し事に気付けなかったってことだよ。
 その言葉を、康晃はぐっと飲みこんだ。
 今ここにある怒りも、あの時果梨を攻め立てた怒りも全ては「そこ」にあった。
(果梨の努力を汲んでやりたいとか言ってたくせに……アイツの隠し事にまるで気付かないなんて)
 それがあまりにも不甲斐なくて。相談して貰えなかった事に苛立って。
 まるっきり子供な理由で、彼女を傷つけた。
 彼女が俺が感じたのと同じ痛みで傷付いて泣けばいい……なんてハッキリ言ってガキの所業だ。
「康晃?」
「―――深遠なる問題だよ」
「阿保か」
 苦肉の策で告げた返答に、呆れたような答えが来る。だがふと考え込むような仕草をした後、巧は康晃に視線を落とした。
「で、どうしたいんだ?」
「あ?」
 怪訝そうに問い返す。歩みを止めた二人の間を、冷たい突風が吹き抜けていった。
「果穂と果梨だよ」
「………………」
 どうしたい?
 あの時朗々と響き渡った鐘の音は、まだ康晃の中でこだましていた。
「……果梨には謝りたい。土下座して……傍に居て欲しいって言う」
「……果穂は?」
 ぎらっと康晃の眼差しが鈍く光った。
「アイツが全ての元凶だ。ていうか、お前と結婚!? 一体全体なんで」
「ならその理由はアイツから訊け」
 康晃の質問のすべてに答えず、さっさと巧が歩き始めた。
「おい」
 あわてて後ろから付いて行くと、前を行く巧がタクシーを拾って乗り込んだ。
 辿り着いたのは、前回康晃が乗り込んだ彼のアパートだった。
「もしかして……」
「ああ、一緒に住んでる」
「それを先に言えッ」
 康晃の声を後ろに聞きながら、巧は取り出した鍵でドアを開けた。
「ただいま」
 ふわっと温かくて……どこか家庭的な香りがする空気が二人を包み、思わず康晃は目を閉じた。
 おかえりなさい、とそう言って迎えてくれたのは十二月二十四日で。
 その思い出に胸が痛くなる。
 もう戻れないのだろうか? あの時犯した間違いの所為で、彼女を信じてやれなかった所為で、もうこんな風に自分のマンションのドアの向こうに、温かく黄色い光が満ちる事は無いのだろうか。
「お帰りなさい」
 ぱたぱたと軽い音がして、住人が出て来る。
「昼間はどうもッ」
 眼を見開き怒りの滲んだ声でそう告げると、巧と康晃を迎えた果穂が数度瞬きをした後。
 何がおかしいのか、大爆笑をし始めたのだ。
「何がおかしいッ」
 掴みかからんばかりの康晃の肩を、巧が掴んで押しとどめる。ひとしきり爆笑した後、果穂は涙を拭いながら「まあ、どうぞ」と部屋に入るように二人に促した。
「あんな大立ち回りを演じて、自分はさぞかし気持ちいだろうなッ」
 足音も荒く部屋に押し入り、ぎりぎりと奥歯を噛みしめ呻くように尋ねる。対して呼吸を整えた果穂は、「お茶でも淹れますからお座りください」と馬鹿丁寧に答えた。
 茶缶から葉を取り出し急須に入れながら、果穂は何気なく尋ねる。
「かなりの大打撃だったようですね」
「あれで大打撃にならないと思う方がおかしいだろッ」
 座れ、と巧に肩を押されて、床に置かれたローテーブルの前に座る。牙を剥く康晃を相手に、果穂はなんとか笑みを堪えて湯呑を三つお盆に載せるとひどくゆっくりと巧と康晃の前に戻って来た。
「何故です?」
「お前がやった事を思い返してみろ! 入れ替わりをした挙句、今度は果梨を隠す為に元に戻って、それであの暴露と俺への不審者扱いだッ」
「不審者扱い……?」
「防犯ブザー鳴らしたら立派に不審者扱いだろうがッ」
 途端、果穂がまた盛大に笑い出すから。
「何がおかしいッ!」
 ばん、とテーブルを叩く康晃を前に、喉の奥に笑いを押し込めた果穂が震える吐息を吐きだした。
「ええ、おかしいです」
「お前……ッ」
「あの果梨がそこまでするとは……よっぽど邪魔をした藤城部長に腹が立ってたんでしょうね」
「だからって俺の評判―――――」
 そこではたと気付く。
 いま、この女はさらりと……トンデモナイ事を言わなかったか?
「………………おい、今、お前……」
「まさか果梨が、部長を前に防犯ブザーを鳴らすとは、思わなかったって言ったんです」
 その言葉に、康晃の脳が今度こそ、完膚なきまでに、フリーズした。
「…………な……」
 信じられない。
 絶句する康晃を可哀想に思いながら、果穂は居住まいを正して深々と頭を下げた。
「勝手にこんな真似をして申し訳ありませんでした。でも、これだけは言います。今日、あなたの前に立ってすべてに決着を付けたのは、私ではなく果梨です。誰でもない、果梨なんです」
 果穂と呼ばれた彼女が痛みを堪えるように告げた言葉が耳に蘇る。
 いつか会えるんじゃない?
 今までありがとうございました。楽しかったです、と。
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