ポーンの戦略 -三十六計逃げるに如かず-

千石かのん

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28 インポートを開始します

 もともと会社を辞めるつもりで、更に実家に帰る決意を固めていただけに正月休みを利用して自室の荷物のほとんどは実家に送っていた。
 あるのは本当に身の回りの品くらいだ。
 大立ち回りを演じた翌日、残っていた品を迎えに来てくれた兄のミニバンに詰め込んでいた果梨は、「げ」という麗奈の声に振り返った。
 普段の彼女はオフホワイトのPコートに桜色の膝丈フレアスカート、同じく白系のブーツというどう考えてもハードルの高い格好を好んでしているが、今日の彼女はメンズ物かと思うような、ファーの付いたフード付きコートとトレーナーにジーンズ、黒っぽいブーツという出で立ちだ。
 一本にまとめただけの髪に、唯一ちかっと光って見えるクジャクの羽根を模したクリップのみが女性っぽい。
 気合の入らない格好をそれとなく揶揄すると、「なんのメリットも無いのに気合入れるなんて無駄でしょ」と真顔でいっそ清々しい返答が来た。
 その彼女が何故、果梨と一緒に居るのかというと。
「部長から掛かって来てるんだケド」
 派手な音楽をまき散らすスマホを見せられて、果梨は呻いた。三十分おきに果梨のスマホが鳴っていただがまさか今度は麗奈に掛けて来るとは。
 藤城部長、と銘打たれた画面を見せつけられ肩を竦める。
「あのお弁当で判って貰えなかったのかな」
「あの浮気男にそんな情緒があるとは思えないけどね」
「ちょっと……部長は浮気なんかしてないわよ」
 眉間に皺を寄せて憤慨す果梨に、麗奈はぽかんとした。
「え?」
 あれ? そうだっけ? なんかそんな気がしたのだが……。
「変なレッテル張らないで」
 怒る果梨に、麗奈はまあいいか、と肩を竦めた。
「で、どうすんの?」
 重ねて尋ねる師匠に、果梨は溜息を吐いた。
「今の私では会わないって決めたから私は出ない」
 そう言い切る果梨の顔をじーっと見た後、麗奈はにやりと笑って徐に画面をなぞって通話をオンにした。
「はあい、羽田ですぅ」
 出るのかよ!
 苦々しげな弟子とは対照的に、トーンの上がった麗奈の声に段ボール箱を抱えていた兄がぎょっとして彼女を見た。
 冬の日差しの下で、いい感じに色の抜けた栗色の髪が柔らかく輝いている。身長は高い方。手足が長くしなやか。日向で微睡んでるくせに、耳だけはばっちり立てている猫のような印象がある。
 店でお年寄りを相手にする所為か、いい意味で達観している。だが双子が困るといやいやながらも手を貸してくれるし、妹たちが不当な仕打ちを受けていると分かれば爆発してくれる。
 今日だって、朝風呂帰りにコーヒーを飲んで帰る常連のおじいちゃんから「ハルさんは俺達の憩いの場を取り上げるのか」なる非難を貰いながらも、「午後から開けるからさ」と年輩女性に絶大な人気を誇る笑顔でかわして今に至っている。
「何の用でしょうかぁ? 私今日、有給なんですけどぉ」
 その声を出すには仕草も必要なのか、己の髪をくるくると指に巻き付け始める麗奈にそんな晴人は首を振った。
「女ってのは怖いな、おい……」
 さっきまで飄々と腕を組んで「怠い」だの「なんなんだ」だの文句を言っていた彼女を見ているだけに戦慄する。
「男ってああいう可愛いのが好きなんじゃないの?」
 自分のトランクを詰め込んで振り返った果梨に、は、と晴人が鼻で嗤った。
「お前ら見てりゃ、若い女に幻想を抱くのを辞めるだろフツー」
「私は違うわよ」
「ど、こ、が。果穂に言われて高校ん時似たような格好してたこともあんだろ」
 兄に指摘され、果梨はどきりとした。
 つい最近やっと自覚した事をさらりと兄に言われるとは。
 思わず苦笑する。
「だって……」
 楽なんだもん。
 そんなセリフが喉まで出かかり慌てて飲みこんだ。
 でももう、それも終わりなのだ。
「今年からは違うよ」
 果穂を意識していたとはいえ、香月を糾弾した際のあれは、彼女の素だ。自分にも自分らしい一面がちゃんとあった。今はそれだけを信じて、果梨として彼に出会うのだ。
 ぽつりとこぼれた果梨の台詞に、晴人が苦笑する。その後ろで麗奈の声が一際高く可憐になった。
「そういわれましてもぉ……昨日はあのまま果穂さんとは別れましたしぃ。今日は一身上の都合でお休みしてるんですぅ」
 スロットルを入れた麗奈が、のらりくらりと藤城からの攻撃をかわし続ける。果梨は改めて感心した。なんというか……流石だ。
「え? 果穂さんとーしても連絡が取りたい? じゃあ、私から電話するようにお伝えしますぅ。ただ保証ははしませんからね」
 電話の向こうでは「それでは困る」とか「今の場所を教えろ」とかいう声が聞こえて来るがあっさり無視して彼女は通話をオフにした。
 涼しい顔で振り返った麗奈が肩を竦める。
「部長は怒り心頭みたいね」
「ま……そりゃそうでしょ」
 ずきりと痛みが走るが、防犯ブザーを鳴らした身としては当然だと思う。
「ちゃんと出会うまで会わないって決めたんだし」
「ちゃんと出会う、って意味が分かんないけど」
 眉間に皺を寄せた麗奈が一歩踏み出して、果梨の胸に拳を当てる。
「ちゃんとした出会いってなによ。出会っちゃったもんは仕方ないじゃない。それを生かそうとして何が悪いのよ。チャンスが転がってんなら掴めばいいだけじゃないの」
 その言葉に思わず俯き、果梨は目蓋を伏せた。
 確かにそうなのだが。
「……それでも、もう一度、果梨として出会いたい」
 顔を上げて、麗奈の瞳を覗きこむ。
「今ここで、部長ともう一回話し合って……理解してもらったんだとしても、結局それは果穂の力を借りての事だから。もし……私の力で藤城さんに出会えたら、奇跡だと思わない?」
 そのトンデモナイ台詞に呆れた、と麗奈が吐き捨てて両手を上げる。
「とんだお子ちゃまロマンチック乙女ね! 話しになんないわ!」
 は、と馬鹿にしたように笑う麗奈に、果梨がむきになって言い返す。
「し、仕方ないじゃない! そうしたいって思っちゃったんだから!」
 そう思ったのだ。
 誰でもない、自分が。
「そうしたい事を、そうしようとして何が悪いのよ」
 睨み付ける果梨に、羽田が微かに感心したように眉を上げた。
 女は根性だ。
「で、どうやって出会おうとしてるのかも説明できるのよね? 優秀なICHIHAの営業補佐さんは」
 腕を組んで斜めに見下ろしてくる麗奈に、果梨は深呼吸をした。
 あの深夜、二人で歩いた冬の道で果梨が憧れにも似た感情を覚えた。
 眠っている街の中で、ただいたってフラットになれる場所がある。それを……自分が提供出来たらいいのではないかと。
 そして。新しく始めた自分と、部長が出会えたら。
「一応ね。春からスタートさせたい事が」
 にっこり笑う果梨に、麗奈は呆れたように首を振った。
 春からスタート。ああなんて……気長な話なんだか、と。





 電話をしてもつながらない。会社に登録されていた住所は果穂のマンションだけ。探そうにも、果穂も巧も協力はしてくれない。
 そうなると八方ふさがりとなる。
 やがてその電話もメールも相手に届かなくなり、康晃は完全に果梨との直接的な連絡手段を絶たれてしまっていた。
(何をやってるんだ俺は……)
 彼女がくれたお弁当の意味を、さよならだとはどうしても取りたくなかった。まだ希望はあるのだと思いたいのだ。もらった物を胸に、幸せに浸って終わりではなく、まだ渡せないでいるのだとそう思いたい。
 だがコンペの件での仕事が忙しくなり、一日一日をこなしていくと月日はあっという間に過ぎていく。季節は確実にめぐり、世の中には春の息吹が満ちようとしていた。
 暗い冬を越えて、花開きだす春。新しく生まれ判る時。
 そんな浮かれた季節に気付き、連絡が取れないままここまで徹底して拒否されると……
(くそッ)
 のらりくらりの会議が苛立たしく、彼は珍しくそれをぶった切るように声を荒げた。
「明豊社の新社屋建設をどこに頼むかでダラダラ憶測を話してどうするんですか。うちのトップを送り込んで直接談判させます」
 時間つぶしとしか思えない部長会議を、苛立った藤城が一刀両断する。
「だがあそこは常盤建設を常に贔屓していて―――」
「経営者が変わりそうなこの時だからこそ、で議題にしたんでしょう? やらないうちに勝手に諦める理由をあげつらう意味が判りません」
「しかしだな、藤城部長。見込みのないモノに時間も金も割けないだろう」
「だったらこの会議は何なんですか? 見込みのないモノに時間も金も割いてるこの会議は」
 ばん、と両手を机に叩きつけ藤城は恐ろしすぎる眼差しで全員を睥睨した。
「これが許されるのなら、私の案も許されてしかるべきでしょう」
 その一言に全員が静まり返り、進行役の建設部長が「じゃあ……先ずは営業部が突破口を開くと言う事で」と当たり前過ぎる上になんの結果の滲まない締めの言葉がこの場を収束した。
 またそれが苛立つ。
 すたすたと会議室を早足で出て行くその背中に嫌味たっぷりのひそひそ声が被るが彼は聞いていなかった。
 今言った自分の一言が、割と真実だと気付いたからだ。
 やらないうちに勝手に諦める理由をあげつらう意味が判らない。
(ここで……終わりにさせたくない。……果梨を傷つけてそのままで終わるなんてあり得ない)
 結果が全て。
 だが結果を出せない努力も報われるべきだ。
 なのに結果を諦めて何もしないのは論外だ。
 そうと決まれば自分がやるべきことは一つだけ。
 廊下を進む彼の足取りは次第に早くなり、最終的に康晃は廊下を猛然と走り出した。





(……番号を変えてから既に二か月)
 下っ端は皿洗いと下ごしらえからだ、と晴人に言われて実家に帰って来てから月程果梨はそればかりを繰り返していた。後は接客。
 小さな喫茶店なのでアルバイトなど不要なのだが、果梨は一応バイトとして働いている。寝起きする場所と三食が付いて更にバイト代がでるのだから有り難いと思え、と晴人にデカい顔で言われたがもちろん文句などある筈がない。
 時折、「これ作ってみろ」と言われて作るが「店に出せるか」と怒られる。
 それでも料理は好きだし、苦にはならなかった。
 季節は確実にめぐり、空気は暖かく土の香りがし始める。どことなくそわそわ浮かれた気持ちになる夜に……というかほぼ毎日果梨は康晃の事を一回は考えた。
 例のコンペは見事、白石が勝ち取ったと果穂と麗奈から報告は受けていた。最後に自分が携わった仕事が成功して喜ばしかったが、それはまた次へと引き継がれている。
 社内で推すものとなったが、それが採用されるかどうかはまた次の話なのだ。
(白石さんなら大丈夫……よね)
 彼から頼まれていた独立の際の資料の件もあったが、白石自身が現在果穂との事で岐路に立っているので延期になっていた。
 そんな風に日々は過ぎて行き、今日もそろそろ店を閉める時間となっている。カウンターの前で皿を拭いていた果梨は気持ちを切り替えるように首を振った。
 最後に渡したお弁当。あそこに描いた様子を康晃はどう取っただろう。
 終わりと取った? それとも続きと取った?
 時折痛いくらいの不安が襲ってくるが、今は果梨として彼に会うためにやらなくてはならない事をやろうと決めている。その所為で……麗奈曰く気の遠くなる作戦の所為で康晃さんが人の物になってしまったとしても……それは果梨の所為だ。
「まだ開いてる?」
 果梨がお世話になった喫茶店は二十三時まで営業していた。その有り難さが骨身に沁みていた果梨も、晴人に頼んで閉店を二十三時にしてもらっていた。
 ただし、二十時から二十三時までの間、果梨が回すという条件付きで。その間の給料は出来高次第。儲けが無ければ即辞めるぞと言われて一か月。
 そこそこお客さんも入るし、何せ果梨の腕を試せるいい機会だった。
 その閉店間際に駈け込んで来たのはほかでもない麗奈だった。
「ま、開いてなくても押しかけるけど」
「何しに来たの」
「ひっどい言い草ね。あんたの計画の結果が知りたいかと思ってきたのに」
 鞄から取り出したファイルをひらりと振る麗奈に、果穂はぱっと顔を輝かせた。
 果梨の立てた再会計画はなんとも壮大なものだった。その第一段階の許可が下りた事に浮かれていると、すかさず麗奈が釘を刺した。
「っても、部長がそれに興味を示すかどうかは判らないわよ」
「それはまあ……判ってますよ」
 果梨が淹れたコーヒーを差し出す。と、じっと水面を見てから一口飲んだ麗奈が溜息を吐いた。
「おいしくない」
「アンタね……」
 思わず半眼で睨めば、麗奈がカウンター奥を覗き込む。
「晴人さんはー? 居ないのー?」
「……ほんっと、アンタって男なら誰でもいいのね」
 どこが不味いのよ、と自分のコーヒーを飲む果梨に麗奈がふん、と鼻を鳴らした。
「女が淹れたモノより男が淹れた物の方が良いに決まってるじゃない」
「……その徹底ぶり……いつか後ろから刺されるわよ」
 そんな果梨の言に麗奈は勝ち誇ったように笑って見せた。
「本望よ」
(やっぱり徹底してる……)
 空恐ろしい物を感じながら、何か食べるかと麗奈に『一応』訊こうとした矢先、兄が顔を出した。
「げ」
「げ、とは何よ。この店員さんのコーヒー美味しくないから淹れてください」
 頬杖を付いてすかさず注文する麗奈に晴人は首を振った。
「もう遅いだろ。ホットミルク淹れてやるよ」
 さっさと冷蔵庫に向かう晴人は、喚く麗奈の文句などどこ吹く風だ。
「子供じゃないんだから、何よホットミルクって!」
「大人なら尚更、良識的に考えて夜中にコーヒーは飲まないだろ。夜中にコーヒー飲むのは親に隠れて何かしたいお年頃のお子ちゃま」
 鼻歌交じりに牛乳を温め始める晴人に、麗奈が舌打ちした。
「そういう所がモテないんですよ」
 嫌味な一言をあっさり無視し「で、どうなったんだ?」と果梨に尋ねる。
 麗奈からの報告と手続き、それから用意するべき物の話しなどをした後、兄は大きく頷いた。
「資格はお前が自力で取るとして。それまでは俺が代りに行くが……」
 果たしてそれでお前の部長さんとやらは気付いてくれるのか。
 言葉に出なかったそれに果梨の心の弱い部分が怯んだ。
 そんな果梨の空気に気付いたのか違うのか、麗奈が「ホットミルクに合うパンケーキとか無いわけ?」と切り込んできた。
「……太るぞ」
「余計なお世話よ」
「サンドイッチでいいなら作るよ」
 果梨の言葉にそれ頂戴、と晴人を睨みながら麗奈は頬杖を付いた。
「これで藤城部長が気付かなければそれまでよ、って事でしょ」
 全くその通りだ。
「それでも良いって決めたんでしょ」
 疑問形じゃない断定する言い方に、果梨の弱い心が再び震えた。だが、ここで諦めるわけには行かない。果穂のまねではなく、自分自身で……彼に出会うのだ。
「その通りよ」
 出されたホットミルクからバニラの香りが漂う。
「ほら、お前にも」
「え?」
 兄が麗奈の隣にもう一つカップを置く。
「そっち座れ。この女のサンドイッチは俺が作ってやるから」
 カウンターから追い出され、麗奈の隣に座った果梨に彼女は持っていたファイルを差し出した。
「で、これはアンタに頼まれて調査したもの」
 そう、動機は不純だがやるからにはちゃんとしたものにしたい。
 貰ったファイルをめくる果梨をじーっと見詰め、麗奈は思案した。
 部長の態度は果梨が辞めた後もあまり変わらない。というか、果梨が居なくなって気落ちするか暴君になるかと危惧したのだがいたって普通だった―――表面上は。
 もうすっかり果梨の事は忘れてしまったのか。それとも彼女が言うように防犯ブザーの件の怒りをまだ引きずっているのか。
「ねえ、これを見る限りやっぱり人気なのは―――」
(といってももうそろそろ何かアクションが有る筈よねぇ)
 まあでも……二人がまた違う相手と付き合いだしても面白いかもしれないし……。
「―――どうかした?」
 どうみても不愉快な事しか考えてないような麗奈のにやけ顔に、果梨が不審そうに尋ねる。我に返った麗奈がなんでもない、という風に手を振った。
「……部長が気付かなかったら、あたしがイイ男紹介してあげるわよ」
「……不吉な事いわないでくれる」
 顔を顰める果梨に、麗奈ははいはいと適当に相槌を打って用意されたサンドイッチに手を伸ばす。
 これがまた絶品なのだ。
(ま、彼女の目論見が始まればわかる事だし……いっか)
 それでもその瞬間を想像してニヤニヤしてしまうのが羽田麗奈という女だ。
 不気味な笑みを浮かべてサンドイッチを頬張る麗奈に、晴人が恐ろしそうに首を振る。
「……ほんと女ってのは怖いな」





「ここ最近、藤城部長なにしてるんですかね?」
 昼になるとさっさと席を立ってどこかに行ってしまう彼の行動に、この春入って来た新人で果穂の代りの女子がひそひそと尋ねて来る。それに珍しく麗奈は苛立った。
「さあ? 部長も阿保だから、見当違いな事をしてるんじゃないのかしらね」
「羽田さん、部長に対して大胆!」
 何故か尊敬のまなざしで見られ、麗奈は苦い物を噛み潰したような顔で周囲を見渡した。
 例の前の大立ち回りから、麗奈を見る目が変わっている。香月はああ見えてかなり優秀だったのだ。その彼女は現在、何故か開発部に回されていた。
(ま、開発は部長、課長を筆頭に細か~~~~い人間ばっかりだからね。企画との調整役に抜擢されたのかもしれないけど……いっそ哀れだわ)
 針のむしろとは言わないが、一つの企画を通すのに百もの意見に反論するのはさぞかし骨が折れるだろう。
(なんでもかんでも認められるわけじゃないと言う訳か)
 彼女がそこで成長してくれればいいという藤城部長の温情なのだろうが、あのプライドが高層ビル級の彼女に耐えられるだろうか。
 しかしその香月が居なくなり、営業部の成績は落ちた。
 目に見えて落ちた。
 その所為でとばっちりを受けたのが他の部員たちだ。部長もいわれのない「防犯ブザー」の件でそこはかとなくついた汚名を漱ぐのに必死になり、がむしゃらに働く物だから、部下たちは死屍累々の体を擁していた。
 だがそれも、明豊社の新社屋建設を鮮やかな手腕で獲得し、周囲をねじ伏せてからは成りを潜めている。香月が優秀だった為に伸び悩んでいた他の人員も、嫌でもここに来て最大限フル稼働させられて一回りも二回りも成長したと言っていいだろう。
 だが麗奈は知っている。
 藤城康晃という男が、たった一人の女を探し出せず右往左往している事を。
(ほんと……馬鹿よね)
 溜息を吐きながら麗奈は立ち上がった。
「そして羽田さんは今日も外でですか?」
 机の下から己のお弁当を取り出す新人に、麗奈はにっこりと微笑んだ。
「そ。馴染の店がね、最近できたのよ」




「喰いつかないわね」
「まだ始めて一週間だろ」
「運命ならすぐ出会う筈じゃないの」
「運命! 運命の……弁当に?」
 会社の敷地内に停車するケータリング車。お弁当の販売から、軽食とコーヒーを提供するそれは周囲に椅子とテーブルを設置してちょっとしたオープンカフェのような感じでもある。
 調理台が見える位置には二席ほどのカウンター席もあり、麗奈はそこに陣取って晴人特製サンドイッチを前にコーヒーを飲んでいた。
 視線はもちろん、ICHIHAのビルだ。
「そもそも俺、俺の妹二人誑かした部長さんを見ても居ないんだが」
 同じように視線を入り口にやりながら、晴人が仏頂面で呟いた。
 まあ、彼は藤城部長とやらがどんな外見なのか全く知らないのだが。
「滅多に昼にでてこないからなー、部長。コーヒーブレイクの夕方までここに居ればいいじゃない」
 しれっと告げる麗奈に、晴人が「その間果梨に店任せとけって?」と呟くと鼻で嗤った。
「この年で転職はしたくないな」
「調理師免許持ってるし、海外で修業もしたんでしょ? 雇ってくれるところくらいあるんじゃないの」
 それに晴人が胸を張ってひらひらと手を振った。
「俺は基本的に誰かに命令されるのが嫌いなんだよ」
「…………あっそ」
 堂々と言う事じゃないだろ。
「そもそも俺は会社の体系が嫌いだ。なんだよ、社長の下に専務が居て? その下に部長やら課長やら係長やら……結局誰が何の仕事してんだよ!? どこがなにをして利益を上げてるのか、もう判らないだろ。そもそも会社は誰のモノっていう議論が出る時点でアウトだし、更にそれが株主の物とか言い出したらそれこそ」
「あ、部長」
 滔々と流れる晴人の持論を、一ミクロンも聞いてなかった麗奈が唐突に声を上げる。
「何ぃ!?」
 社会の歯車に組み込まれながらも、他人を蹴落として甘い蜜を吸おうとしてる害悪が!?
「どこでそんな偏った思考を埋め込まれたのか知らないけど、あれがそうよ」
 半眼で睨みながらそう告げる麗奈が、自部署の長を指した。
「あれか!」
 時は冬を過ぎ、柔らかな風は浮かれるように温かい。
 今日の気温はコートの要らないもので、件の営業部長、藤城康晃はスーツにぱりっとした春らしい白いシャツと水色のネクタイを締めていた。漂う春の空気に柔らかそうな黒髪がふわりと揺れている。
 真っ直ぐ過ぎる眼差しと眉。端正な面立ち。それから自信に満ちた歩みをする脚と手。
 しなやかな指を確認し、晴人は歯ぎしりした。
「おい、あんなハイスペックな男がなんで果梨に固執するんだ? 騙されてんじゃないのか?」
「普通そう思いますよね」
 果梨に失礼過ぎる発言だが、二人ともそこに重きを置いていない。置けよ、と思うが置かないのだ。
「でも……ま、後はご自分の目で確かめてください」
 ふっとイタズラ好きな猫のように笑うと彼女はくるっとスツール毎振り返り、「部長~」と明るい声で叫んだ。
 急ぎ足で歩いていた彼が振り返る。うう、と晴人が唸った。
 こんな好物件を、うちの果梨が振り向かせることが出来るとは到底思えなかったのだ。
「なんだ、羽田……ケータリング?」
「部長、お昼まででしょ? 美味しいんですよーここのお弁当」
 あとコーヒーも。
 カップを掲げて見せる羽田に、康晃は苦笑した。
 女はこういう……ちょっとお洒落な物に弱い。お弁当の他には軽食も出してくれるようできちんとキッチンの用意が出来ていた。
「いらっしゃい」
 カウンター脇に置かれたお弁当のラインナップは『日替わり弁当』と『おにぎり弁当』、『サンドイッチ弁当』の三種類だ。
 ラインナップを眺めていた彼は、真正面からの挨拶に顔を上げた。
 頭にバンダナを巻いた、ブルーのコックコートを着た男がこちらを見ている。細身だがしっかりした体格の男は、どこか親しみを覚える笑顔を向けているのだが硬い。焦げ茶色の瞳からの眼差しはどこか冷めていて諦観しているが……どこか……ちらりと燃える炎を感じる。
(…………売る気あるのか?)
 完全に威嚇されていると気付き、康晃は途端に冷えた心の裡で冷笑する。
 こんなんでは売れる物も売れないだろうと、営業部長の自分が嗤った。それとも男相手に愛想を振りまくのは得策じゃないと思っているのか。
「どうです、一つ」
 羽田の声で我に返る。彼女はにこにこと微笑んで、お弁当を薦めて来るから。
(…………面白い)
 何一つ売る気は無い、という仏頂面の男の鼻を明かしてやろうか。
「そうだな。隣、いいか?」
 ちらっと羽田がカウンターの男を見る。彼は意外そうに眼を見張った。それから羽田にだけ分かるように小さく頷いた。
 そこに一瞬だけ流れた物に、康晃が首を捻った。
 この二人は……知り合いか?
(いや、知り合いは知り合いなんだろうが……)
「どうしますか? お弁当? それとも何か作りましょうか」
 再び実の無い笑顔を見せる男に、康晃が微かに眉を上げる。
「一時から人と会う約束があるから、お弁当で良い」
 人と会う。
 もちろんビジネスだろう。
 だが、その単語に麗奈がチャンスとばかりに目を輝かせた。
 藤城が最近打ち合わせをしているのが、明豊社の新社屋建設担当の美人だ。
 途端、何でもこじらせて楽しくしたい麗奈が、この事態をさりげなく晴人が知ればそこから果梨に繋がるとコンマ三秒で計算した。
 面白そうだ。
「もしかして、最近部長と噂になってる美人さんですか?」
 男二人がぎょっとする。
 あんぐりと口を開けている晴人に気付かない康晃が、渋面で呻くように言った。
「噂ってなんだよ。てか、そんな事気にする前にいくらでもやる事あるだろ」
「そうは言ってもぉ、入って来たばっかりの矢部さんとかぁ、里見ちゃんとかぁ部長の事狙ってるんですよぉ。そうなると、お似合いの美人と一緒にいると気になるじゃないですかぁ」
「気にする前に仕事しろ」
「で? 本当のところは?」
「ホントも何も―――」
 そこではたと気付いた康晃が顔を上げると、ケータリングの店主が恐ろしい形相でこちらを睨んでいてぎょっとする。
「―――何ですか?」
「いえ……コーヒーはこんな渋いお顔になるブラックでいいですね」
「え? ……あ、はあ」
「どうぞ」
 どん、と置かれたそれに「感じ悪いな」とむっとして顔を上げると冷やかな眼差しで逆に見下ろされる。
 一体全体なんなんだ、ここは!? 客商売する気があるのか!?
「で? 真相は?」
 更にしつこく切り込んでくる羽田に、ふと康晃は考え込み、答えるべき単語を選んだ。
「もちろん……親しくさせて貰えれば嬉しい美人だな」
 意味深に笑ってコーヒーを持ち上げる。
 その笑顔に溢れた魅力と自信に、晴人の肩が強張った。見ていた麗奈もやや緊張する。
「え? ってことは……」
「どうぞ、こちらが当店お勧めの日替わりで、唐揚げ弁当です」
 再びコーヒーと同じ勢いで置かれた弁当に苛立って顔を上げる。
 だが店主は素知らぬ顔で、有りもしないカウンターの汚れを拭き始めていた。
 意味の分からない嫌がらせ(?)に舌打ちしそうになりながら、康晃は蓋が取られたそのお弁当を見てはっとした。レイアウトに見覚えが有ったのだ。
「某弁当屋の唐揚げ弁当とそっくりだとか言いださないでくださいよ、お客さん。ほらここ、ここが違うでしょ」
 すかさず店主の説明が入った。だがそれは康晃の耳を素通りしていく。
その唐揚げ弁当は、タレが二種類付いている。プラスして女性にも食べて欲しいとサラダが一区画をしめていた。
「うちのオリジナルですからね」

――――オリジナリティを出せって言うからこうしました―――

 不意に響いた果梨の声に、心臓が一気に跳ね上がった。
『部長あんまり野菜食べないし』
『腹いっぱいにならないだろ? 野菜喰ってもさ』
『だから、唐揚げでお腹を満たしてください。で、この野菜も食べると』
『……要らない』
『小学生ですかッ!』
 食べさせてくれたら喰う、と笑顔で宣言したらいい笑顔で彼女は自分の口に康晃の野菜を突っ込んでいた。
『その野菜寄越せッ!』
『馬鹿ですか! 馬鹿ですよね、部長! だったら自分で食べてくださいッ』
「どうかしました、部長?」
 羽田の声で我に返る。
 鮮明に脳裏に過ったやり取りで、彼の思考が珍しく混乱した。
 あの日のやり取りと、そっくり同じに見える弁当がそこにある。
「いや……美味そうだなと思って」
 ぎこちなく箸を取り上げる藤城部長に、麗奈はこっそり微笑んで晴人を見た。
 だが彼は相変わらず仏頂面で彼を睨んでいるから。
「ちょっと家庭の味って所がイイですよね~。晴人さんのお手製ですもんね」
「ま、俺はレシピ通りに作っただけだけどな」
 むすっとして告げられたその言葉に、何故かほんの少しほろ苦いサラダを口に運んでいた康晃が顔を上げた。
「レシピ?」
「このお弁当の発案者がいるんですよね?」
 麗奈の声がやや弾む。そこに滲んだ期待感に晴人は意地悪く笑みを返した。
「ああ。俺の愛する人が、この弁当の発案者だ」
 その台詞に麗奈は眩暈を覚えた。これ以上こじらせてどうする気だと、自分もこじらせようとした事を棚に上げて考える。
 だが、相対していた相手が悪かった。
 二人のやり取りを訊くともなしに聞きながら、件の唐揚げを口にした彼は、無視できない程の衝撃を受けたのだ。
 たかが唐揚げ。されど唐揚げ。
 嫌がらせのように「ゆず胡椒風味」の唐揚げを作られたのは、彼が嫌いだと知った翌日だった。
 その……味がする。
 その瞬間、康晃の脳裏で勝利の鐘が鳴り響いた。
 彼の瞳がきらっと光る。ゆっくりと箸を置き、顔を上げた康晃が非の打ちどころのない微笑みを浮かべたのだ。
「羽田」
 晴人から視線を逸らす事無く、麗奈に声を掛ける。
「他の二種類の弁当を買って、俺のデスクに置いておいてくれ」
 挑戦的な康晃の視線を正面から受け止めた晴人が、気圧されたように身を引きかかる。だがどうにか足を踏ん張った。
「で、こちらの店は……何時までここで?」
 じっとこちらを見詰める康晃の顔は無表情で、人の下で働くのが苦手な晴人には到底その下にあるモノが読み取れない。舌打ちしたくなるのを堪えて、彼は笑顔を返した。
「十五時までは、ここで営業させていただく許可を貰ってます」
「そうですか」
「ど……どうしたんです、部長?」
 ゆずの風味が鼻に抜けて思わず咽そうになりながら、康晃は腹立たしいほど大量に詰め込まれた野菜をあの日の果梨のように口に突っ込んでカバーしながら素っ気なく答えた。
「それは、残りの弁当を確認してからだ」
 残りの弁当。それに何が入っているのか。
「そこまで気に入って頂けたんですかね」
 のんびりと晴人が告げる。だがその声にいくらか苛立ちが混じっていた。康晃は苦いコーヒーを喉に流し込んで、負けず劣らずゆっくりと告げた。
「中身を見てから……でしょうか」
「気に入ると思いますよ」
 晴人が意味深に告げる。
「多分ね」
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