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番外編
キングの憂鬱-待てば海路の日和あり-下
あんたの兄ちゃんと部長で指輪買ってたわよ。遂に年貢の納め時ね!?
そんな文章と共に送られて来た画像に、果梨はクリティカルヒットを喰らい瀕死のダメージを受けた。
当然だ。
婚約者と実の兄が……自分が拒絶しまくった指輪を買っているのだ!
(あ…………)
黒い感情が込み上げ、果梨の気持ちを蹂躙していく。
(なんだ……これ……)
申し訳ないが、香月さんと藤城部長が一緒に居る時に感じたものとは比べ物にならないほどの真っ黒な感情が溢れて来るのが判った。それと同時に、世界の破滅を願うような、光の剣のようにぎらぎらと眩しくて鋭く危険な刃が、痛む心臓を切り裂いてすべてに斬りかかろうとしているのが判った。
とられたくないいやだそばにいてほしいわたしいがいをみないでいやだいやだいやだいやだ
(ッ)
思わず耳を塞いで目を閉じる。
――――こんなの……あんまりだッ
「お父さん」
気付けば果梨はリビングに駆け込み、のんびりとくつろいでいる父に声をかけていた。
「店番お願いッ」
(あとはどうやって渡すか、だが)
なんだか疲れた。疲労困憊だ。それもこれも全部。
(俺の愛を頑なに拒むあの女が悪い)
身体中に自分の痕跡を刻むのも。心の中に俺だけの場所を作れと、愛を叫ぶのも全部果梨を手に入れて繋いでおくためだと康晃は自負している。
そんな風な独占欲を、他の男たちに見せつけたいと思うのはそんなに拒絶されることなのか。
彼女の左手の薬指には、彼女が他の男の物である印がない。
それが有れば、誰から見ても彼女が売約済みだと分かるのに。
それを拒むのも……それを付けずに他の男に前に立つのも……全く面白くないと何故気付かない。
「ま、それも今日で終わり」
ふふふ、と不気味な笑みを浮かべて独り言をつぶやく康晃を、運転席から半眼で眺めていた晴人は、自分と康晃の乗る車の前方からダッシュで駅方面へと走る果梨を見付けて目を丸くした。
反対車線の歩道を、一心不乱に駆けていく。
「果梨?」
晴人が指摘するより早く、康晃がつぶやく。
車と人通りが増えて来る夕方の、しかも駅前通り。早足で行く人の流れの中でそれに気付くとは……我ながら良い果梨センサーを搭載していると康晃はどこか満足げに思った。
夕方の黄色い光と空の下、頬を真っ赤にして走る彼女は、どんどん二人から遠ざかっていく。
「止めろ」
「分かってる」
運よく信号手前で車を歩道に寄せて止めた瞬間、飛び出した康晃がガードレールをひらりと飛び越えて一気に全速力で駆け出した。
ちゃんと指輪の袋を持って。
「これは思ったような展開にはならなそうだな」
ホテルディナーにでも誘って、それからロマンチックな夜景を背景に再度プロポーズ……とか考えてただろうに、と一心不乱に走って行く義弟を眺めながら、晴人は小さく笑った。
「ま」
ゆっくりと車を車線に戻しながら、晴人は夕暮れの空を見て呟く。
「待って待って……業を煮やしてやっと攻めて掴んだ日和だ」
今日を逃したら他に良い日なんかないかもな。
息が切れる。苦しい。でもそんな肉体的苦痛よりもっともっと苦しい。
(駄目……走れない……けど……)
どこまでも走りたい。電車になんか乗らず、途中で倒れるくらいの勢いで走り続けなければ自分の中にある真っ暗な感情に追いつかれて飲みこまれる。
気付けば果梨は怖くてただ、脚を動かしているだけだった。
(苦し…………苦しいよ……)
甘かった。
本当に甘かった。
押しかけて来た彼に安心していた。康晃さんのくれる愛に、欲しいと訴える指先に勝手に満足していた。家のローンとか、心配事を並べ立てた自分がやろうとしていたのは……。
(最……低……)
彼の気持ちや愛情ばかりを求めて、自分からは出し惜しみをするなんて……なんて嫌な女だろう。
そしてそれに気付くのが、別の人に盗られるかもしれないと不安になってからだなんて。
気付けば最寄り駅を通り越し、隣の駅が道の遠くに見えている。
息が続かないことよりも、足が動かない事よりも、自分勝手すぎるただ「愛されている自分を確認したかった」なんていう浅はかな気持ちの方が苦しくて、果梨はもつれた脚の所為で傾いだ身体が地面に向かって行くのを止める気にならなかった。
このまま地面に転んで受けた痛みが、欲しい……。
「果梨ッ」
その瞬間、耳慣れた声がして彼女の身体は倒れるのをやめ、強引に引き寄せられた。ふわりと、嗅ぎ慣れた香りが身体を包む。
はっと顔を上げれば、全身汗だくで肩で息をする最愛の人が居た。
「……康晃……さん……」
「あほ。ずっと……叫んでんのに……振り返りもしないんだから……お前は……」
そのまま後ろから果梨を抱き締めて、頭を垂れる。ぜーぜーいう呼吸音を聞きながら、果梨は何故か泣けて来て自分を抱き締める腕に震える指先を添えた。
「だって……ていうか、どこから……」
「車で帰る途中に……お前見付けて……てか、走るの……早すぎだろ……」
「……それは……」
「まあ、それより、だ。話しがある」
彼女を捕まえている現在が絶好のチャンスだと、康晃は握り締めていた紙袋の重さを実感した。
対して果梨は恐怖に震える。
いやだ。聞きたくない。
「いえ、何も言わないでください」
反射的にそんなセリフが出た。可愛くない事この上ないと、言ってから彼女は舌を噛んだ。だがそんな口調も、切羽詰まっている康晃には届かなかったようだ。
「いや、聞いてもらう。何が何でも」
「何が何でも聞きたくないです。ていうか、私から言わせてください」
果梨からの提案が絶対自分が聞きたくない言葉だと直感した康晃は、抱き締める腕に力を籠め、こちらに振り返ろうとする果梨をホールドした。
「いいや、俺からだ。今日こそ聞いてもらう」
「ダメです! 聞きたくない! ていうか、まず私の話を聞いてからにしてください」
康晃の腕から逃れようと身を捩る果梨と、絶対に逃がしたくない康晃が攻防を繰り広げる。線路沿いの中通りとはいえ、買い物帰りの主婦や学校帰りの学生なんかが疎らに通りかかる往来だという事に、二人は全く気付いていない。
興味津々の小学生を他所に、ようやく身体を反転させた果梨が語気を荒げた。すかさず康晃の手が果梨の肩を掴む。
「私、本当は康晃さんと―――」
「あのな、果梨。実は俺―――」
「指輪を買いに―――」
「今日、指輪を買ってきたんだ。俺と―――」
耳に入れないようにしていた単語に、果梨の心がひび割れる。
(駄目ッ! 聞きたくないッ!)
次の瞬間、果梨は無我夢中で康晃の頭を抱き寄せるとやや強引にキスをした。
ちゅーしてるー ドラマみたいー
そんな呑気な小学生達の声をBGMに、果梨はありったけの自分のプライドと愛を詰め込んでキスをした。流石に舌を絡めることはしなかったが、どうしていいかわからず、気付けば唇に噛みついていた。
「っ!?」
「んっ!?」
血の味がしてぱっと果梨が離れる。対して、唇を噛まれた康晃が呆然と彼女を見ていた。やや腫れた彼の唇にじんわりと赤いものが滲んでいる。
「あ……」
どん、と花火が爆発するかの如く一気に顔が真っ赤になった。
「ご、ごご、ごめんなさい、あの……い……痛い……です……よね?」
対して自分の親指で唇を拭った康晃が、信じられないものを見たという雰囲気で、自分の指先を見詰める。舌先で確認すればびりっと痛みが走った。
「ご、ご、ごめんなさ……」
目元に涙が滲んだ状態で、心配そうに見上げる果梨に視線を落とし、康晃は感じた事のない甘さと、五臓六腑の震えと、突き上げるような欲求が身体を突き破るような衝撃を受けた。
「康晃……さん?」
耳まで真っ赤になった彼が、慌てて口元を抑えてそっぽを向く。
「あの……」
赤味は首まで広がり、ざっくり開いたVネックのサマーセーターから覗く鎖骨まで広がっている。
「果梨……それは卑怯だ」
「え?」
唖然とする果梨を放っておいて、初めて感じる何とも言えない多幸感を抑えようと康晃は頑張る。じゃないと今ここで、彼女を抱き締めてどこかに連れ込んでしまいそうだ。それこそ駅のトイレでも。だがそんな無様な真似はしたくなくて、必死に堪えた。
「い……痛くな……い?」
「ちょっと……まって……」
深呼吸を繰り返してから、ようやく康晃が果梨に視線を落とした。
(あ……)
自分を見詰める瞳が溶けている事に、果梨は気付いた。途端心臓が壊れる程早く鳴り響いた。
ただし、不安で破裂しそうだったそれとは違う、爪先まで溢れて止まらなくなる、甘い疼きだ。
何と表現していいのか判らない、溢れて来るその感情が、果梨の喉から言葉を押し出した。
「――――すき」
「!?」
ようやく心を落ち着けて、なんとか指輪の話を切り出そうとしていた康晃は続く第二波の衝撃に吹っ飛びそうになった。
「か……果梨……さん……!?」
赤味の引かない顔を見詰めたまま、果梨はああそうか、と気が付いた。
彼から貰う言葉に自分が動揺したり、甘い気持ちになったり、信じられない位幸せになったりするのと同様に、彼にも自分の言葉が影響を与えるのだとようやく…ようやく信じられたのだ。
こうなったら、引けない。
後で後悔するかもしれないけど、言えなくて後悔するんじゃなくて、言ってしまって後悔したい。
「好きです、康晃さん。騙してごめんなさい、卑怯でごめんなさい、手を放せなくてごめんなさい。でも好きなの。愛してる……面倒でも大変でもこれだけは捨てられない……だから、あなたのモノだっていう証を下さい、お願いしますッ」
一気に吐き出し、膝に付くのではないかというほど深く頭を下げる。
ああもう。
あああああああもおおおおおおおおう。
「―――なんで……君は俺のプランを毎度毎度粉々に砕くかな」
「…………ごめんなさい」
「正月一緒に居たかったのに断るし。その後トンデモナイ事してくれるし。最悪の一月のあと、最悪の三か月だったし」
「申し訳ないです……」
「だったら逃がさないつもりで外堀から埋めたら、ことごとく拒絶するし」
「それは康晃さんが巨大すぎる買い物を……」
文句を言う唇に、康晃が人差し指を押し当てた。
「次反論したら、キスする」
黙り込む果梨を抱き寄せて、康晃は深い深い溜息をついた。
「それ全部、俺が言いたかったことなんだが……まあ、仕方ないか」
先にいわれちゃったからな。
軽く笑いながら身体を離し、康晃は果梨の額に自分の額を押し当てて、不安そうにこちらを見上げる瞳を愛おしそうに見つめた。ゆっくりと彼女の左手を取り上げて、薬指の付け根をなぞった。
「ここに、枷が欲しい?」
「……証が欲しいです」
ふっと小さく康晃が笑った。
「どういう心境の変化?」
不安を全面に押し出した果梨が、泣きそうに顔を歪めた。
「康晃さんを……盗られるかもしれないと思ったら……どうしても欲しくなりました……」
真剣に泣きそうな果梨には申し訳ないが、康晃は吹き出した。
「なんで俺が? 俺はずっと果梨しか見えてないけど?」
「でも……お兄ちゃんに盗られるのだけは……」
「………………は?」
目が点になる。だがそれに構わず、自分の手を掴む康晃の手を彼女は力一杯握り返した。
「お兄ちゃん、彼女全然いなくて。なのに唐突に康晃さんに押し倒されてたから多分……そうなんだと思って……でもお兄ちゃんに誘惑されたからって、二人で指輪を買いに行くなんてあんまりですッ! じ、実の兄なんですよ!? か、果穂ならともかく……あ、兄に負けた……なんて……」
ぽろぽろと涙を零しながら訴える壮絶な誤解に、康晃の気が遠くなった。
「か……果梨さん?」
必死に訴える眼差しで果梨が叫ぶ。
「私、康晃さんの事絶対にあきらめませんッ! 私にちょっとでも脈があるのなら私にしてッ! 他の男に目移りしないでッ!」
「大声でとんでもない事いうなッ」
通り過ぎる人間の好奇の視線が痛い。
「でも……じゃあなんであんなベッドに二人」
「果梨ッ!」
今度は康晃恐ろしい言葉を紡ぐ唇にがキスをする。
酷く甘ったるいそれは、通行人が眼を逸らす程長くて。
腰が砕ける一歩手前で解放された果梨が、ぽやっとした眼差しで康晃を見上げた。
「ち……がうんですか?」
「当たり前だ」
端々に怒りをまぶしながらそう告げ、彼女の目尻を拭ってやると、本当に深い溜息を洩らした。
「あれはだな……」
腕に彼女を抱いたまま、康晃は紙袋から四角いベルベッドの箱を取り出した。
「お前が何時まで経っても俺と一緒に指輪買いに行ってくれないから、自分で買に行く事にしたんだよ。その際に……その……お前の好みを外したくなかったから」
どんな趣味なのか確かめに行ったんだよ。
ぱかっと蓋を開けて出て来た、ピンクダイヤが二つ、ダイヤモンドの横に輝く指輪を目にして果梨の瞳が丸くなった。
「これ……本当に私の為? お兄ちゃんのじゃなくて?」
「男がこのサイズ入るわけないだろ」
ていうか、なんだその発想! どこからそうなるんだよ!
言いながら、康晃は果梨の左手を取ると、ゆっくりと指輪をはめて行った。
「朝も昼も夜も……俺といちゃいちゃしてるときも、えっろいことしてるときも外すなよ」
言ってから、持ち上げた彼女の手首にキスをする。軽く歯を立ててちゅっと音を立てて放すと、男はにいっと楽しそうに笑った。
「さあこれで、念願叶って果梨には俺の証が……目に見える証が付いたわけだ」
夕映えに照らされて、七色の光が指輪の中心で踊る。その向こうで、悪魔もかくやと笑う康晃に、果梨はへにゃっと嬉しそうに微笑んだ。
「康晃さんにも……付けたいです」
婚約者の可愛いおねだり。それに、男はにんまりと黒い笑みを返した。
(う~わ……引くわー、マジで引くわー)
翌日出勤してきた藤城康晃のテンションが春なのと、喉に張られた絆創膏に麗奈がドン引きする。
「部長、お怪我でも?」
何も気づかないのか、それとも気付いているから訊くのか、だとしたらチャレンジャーだなと思う麗奈を他所に、勇敢なる後輩が書類を手渡しながら尋ねるのに、麗奈は耳を澄ませた。
さあこの、頭湧いてるとしか思えない男が、何と答えるのか。
「ああ、これ」
ちらっと麗奈を見る。
「愛の証」
どストレートでとんでもねぇなこの男ッ!
「部長ッ! 此方の書類、さっさと出してもらえませんかねッ!」
珍しく声を荒げる麗奈に、「ああ、もってけ」と書類を手渡す部長。固まったままの後輩を回収し麗奈はトンデモナイ奴だと思いながらもどこか諦めの境地で悟った。
高槻果梨に幸多かれ、と。
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