ポーンの戦略 -三十六計逃げるに如かず-

千石かのん

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「部長……」
 寒そうに己の身体を抱いていた香月が、やって来る藤城にほっとした顔をした。傍にいた白石が近づく彼を確認した後、すれ違ってすたすたと反対方向へと歩いて行く。二人で話をしろという事なのだろう。
「で? 一体何の用だ」
 この辺り一帯の冷え込んだ気温を更に下げかねない声にも、香月は怯まなかった。一度目を伏せた後、意を決したように藤城を見上げる。
 その瞳に宿っている憧憬に彼は溜息を飲みこんだ。彼女は部下の中で一、二を争うほど優秀だ。ここで手放すのは惜しい程に。
「部長、私―――」
 続くセリフの内容を、藤城は簡単に推測出来た。
「部長の信頼に応えられるように毎日努力しました。今でもあなたの為にいい仕事が出来ていると思ってます」
「……そうだな」
 低い声で肯定する。ふと手にしたスマホが眼に入り康晃は目を細めた。
「言われなくても、俺は自分の部下がちゃんと成長して俺の期待に応えているのを知ってる。きちんと評価もしているつもりだが、足りなかったか?」
 まさかそんなセリフが返って来るとは思っていなかったのか、微かに香月が怯む。
「違います。私が言いたいのは……」
 そこで唇を噛む。言いにくい事を言いだそうとしている雰囲気に、康晃は沈黙を通した。
(ああくそ……面倒だな)
 偽らざる本音が心に漏れるが、彼は無表情と無言を貫いた。申し訳ないが香月に抱いている感情は色っぽい物ではない。どちらかというと同志に感じる友情……と言った方が近い。
 だが須らく、彼が認めた女は……。
「部長は高槻さんをどう思われてるんですか?」
 直球ではなく、変化球で来た。だが康晃はこの球の方が処理しやすかった。
 変化球にはそれなりの対応をするまでだ。
「……なぁ、香月。お前、休日は何してる?」
「え?」
 自分の質問に質問で返され、香月はその眼をすがめた。警戒心が湧き上がって来る。上司がそういう戦法を好むのは知っている。だが香月はあえて乗っかる事にした。
「そうですね……ジムに行ったり、最近ではトレッキングなんか始めました。黒谷工業の社長が趣味だとかで、ビジネスチャンスに繋がるかと。それから読書も欠かせません。雑誌から経済紙まで話題は多いに越したことはありませんから。英会話も始めましたし」
「ふうん……」
 指折り数えて告げる香月の休日の過ごし方に頷き、藤城はにっこりと微笑んだ。
「ナルホド。充実してそうだが……そうなのか?」
「はい」
 心持ち顎を上げて答える香月の身体からは、自信がオーラのように溢れていた。その様子に藤城は満足気に微笑んだ。香月の心を蕩かす笑みだ。……だがそれはもちろん、高槻が眼にしたことのない類の微笑みである。
「それなら俺も特にいうことはない」
「………………え?」
 うんうんと一人頷く藤城を他所に、香月は戸惑った。彼の言葉の意味を測りかねる。
「そういうことだ」
 にっこり、としか形容のしようがない笑みを浮かべる上司に香月はまごついた。
「―――ていうか私は、部長は高槻さんの事をどうお考えなのか知りたくて質問してるんです」
 やや強めの一言。だがここでも彼は笑みを崩す事無く……だが不意に冷たい色を瞳に宿した。
「だからな、香月。――お前、毎朝どんなふうに家を出て来る?」
「…………はい?」
「家だよ。朝、どうやって家を出る?」
 再び全く意味の分からない質問が来て、香月は苛立った。だが彼女は憤りを我慢して答える。
「朝は……身支度をして朝食を取って家を出ます」
「何喰うの?」
「全粒粉のトーストと、あとスムージーですね。たんぱく質も必要なのでスクランブルエッグとベーコンを」
 その回答にも、何故だか藤城は満足したように頷いた。
「言うコト無しだな」
「一体何なんですか?」
 眉間に山脈を築く香月に、藤城はく、と小さく笑った。
「お前、俺が好きだとか俺の為になりたいとか俺を支えていきたいとか言おうとしてただろ」
 見透かされ、かっと香月の顔が赤くなる。耳まで真っ赤になるのが駅前の街灯の仄白い灯りの下でも分かった。通話中のスマホを肩の辺りに持ち上げながら、藤城は意識して香月に告げた。
「どうなんだ?」
「…………私は、自分を高めてくれる存在をずっと探してました。ICHIHAに入社して部長の元で働いてやっと……私にはあなたが必要なんだと実感したんです。なのに部長は最近何故かあの腰かけOLに時間を割いてます」
 可笑しくないですか、と彼女は未だ崩れることのないくっきりとラインの引かれた猫目を吊り上げた。
「部長は今まであの子に全く興味を持ってませんでした。一体どういう心境の変化なのか知りたいんです」
 言外に、何故私じゃないんですかが滲んでいる。その真っ直ぐな様子に藤城は溜息を呑んだ。
「俺はちゃんとお前を買ってるよ」
「そうでしょうか? 部長はご自分の友人である白石さんと、全く仕事の出来ない高槻さんを何故か重宝なさってます。白石さんに関しては……きちんと仕事の出来る凄い方だと分かってますし、我々とは違う職種だから手を貸すのも納得も出来ます。ですが、高槻さんは……」
 結構まともに見えたが、確かに酔っ払っているなと藤城は彼女の感情論を聞きながら冷静に観察した。白い灯りの下で、彼女の瞳が潤んでいる。微かに鼻を鳴らす様子に、藤城の気持ちは急速に、頑なに、彼女を受け入れられないと訴え始めた。
 女のヒステリーを好む男など世の中に存在しない。
 今現在、彼女が訴えているのは彼女の主観が入った物言いだ。どちらかというと愚痴に近い。愚痴を聞くのも上司の務めだとは分かっているしガス抜きも必要だ。
 だが今この、深夜二時を過ぎた会社とは程遠い場所でこのやり取りをするには藤城はあまりに……狭量だった。相手が酔っ払っているという部分を差し引いても、『大事な場面を邪魔された』感がデカすぎて、結果的に相手を思いやる気持ちよりもマイナス感情の方が勝ってしまっている。
「部長の仕事がどれだけ重要で大切か、彼女は全く分かってません。私なら藤城部長の為に――」
「俺の仕事の仕方に文句を付ける権利はお前には無いはずだが」
 同じことの繰り返しに終止符を打つべく、更に一段冷気を纏った声で告げる。
 しかし自分の事で精一杯の香月の耳には止まらない。彼女はここ数週間でたまったストレスを吐きだすように告げた。
「私が一番、部長を理解してると思ってます。誰にも負けません。だからあの……」
 高槻さんを無視してください。
 そんな言葉が香月の喉から零れそうになり、彼女は慌ててその台詞を飲みこんだ。流石にこれではただの中学生だと酔っ払っていながらも気付いたのだ。気に入らないから無視しろだなんて……社会人としてどうなのか。
 だが香月の心の中に生まれ、棲みつこうとする黒い淵は、全ての理性を飲みこんでいく。そして奥底から嫌だと叫ぶ権利を主張するのだ。
 こんなに苦しいのだから、叫んだっていいだろう。今はプライベートで会社ではない。ならば自分が言いたい事を全部吐きだす方が人間として正しいのではないだろうか。
 そんな強引な理屈が香月を唆す。甘言に彼女の理性は屈し、どんどん崩れ、酔った勢いも相まって彼女の唇は欲しい思いを紡いでいった。
「私は……心から部長の事を尊敬してます」
 かつん、とヒールの音が響き、後押しされた彼女が藤城に向かって一歩を踏み出す。身体が動いた事に勇気を得て、彼女は彼の胸に向かって倒れ込んだ。
 身を投げ出すも、拒絶は無い。広い胸元に縋るように香月は顔を埋めた。
「だから……」
(…………結、局、こう、なる)
 失望が藤城の身体を重くしていく。まだまだ通話中の画面を見詰めながら、藤城は身を投げ出している香月の背中をそっと撫でた。だがそれも一瞬で、その肩に手を置いてぐいっと引き離した。嫌がるように、彼女が首を振って更に身を寄せて来る。彼女の額を首筋に感じながらも藤城は真っ白な吐息を長々と吐きだした。
「離れてくれないか」
 静かだが、有無を言わせぬ一言。この口調と温度で言われると、彼の部下はたちまち我に返って冷静な判断を求められる。はっと身体を強張らせた彼女がぱっと藤城から離れた。
 身体を強張らせ立ち尽くす彼女は、先ほどの自信が消え迷子のような印象が残った。心許ない、か細い雰囲気。
「香月」
 だが藤城から返って来たのは固く、事務的な声音だった。
 その一言で、反射的に彼女は受け入れられない現実が襲ってくるのを感じた。香月の胸に出来た淵が暗く暗く……深くなって行く。それは自分ではどうしようもない速度で支配域を広げ、窒息しそうなほど胸にあふれて喉を埋めて行く。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だと拒絶が膨れ上がって来る。
「お前は俺と付き合いたいのか?」
 鋭い眼差しで見詰められ、香月の胸が震える。
 付き合いたい? 男女として? 
 彼の隣に立って彼を独占できる……。
 その未来は酷く甘く香月の全身を浸していった。
「…………はい」
 震えを飲みこんで溢れた答え。じっと見上げる潤んだ猫のような瞳を見下ろしながら藤城は苦い思いを噛みしめた。
 望む物がどんなに手を尽くしても手に入らないジレンマ。
 それを康晃は知っていた。
 人の心を思い通りにする事はなかなか出来ない。それは営業先でも、会議でも……プライベートでも。
 重い物を飲みこんだような息苦しさを感じながら、康晃はゆっくりと告げた。
「だがお前の中に俺が入る余地があるか?」
 淡々とした言葉の意味を取り損ね、香月がぽかんと藤城を見上げた。対して彼はゆっくりと話し始める。
「お前は俺の為に傍に居たいと言ってくれた」
 困惑した顔のまま彼女が頷く。先ほどの彼女の休日と朝の過ごし方を思い出しながら、藤城は氷の営業部長らしく感情を交えずに続けた。
「俺の為に出来ることをしたいってな。お前はそれだけを望んでいると。ま、当然だよな。日々の暮らしは充実しているし仕事も順調だし」
 そこで言葉を切り、藤城はダークブラウンの瞳をひたと香月に添えた。
「その充実した生活のどこに俺は入るんだ?」
 冷たい一言に、香月の身体が強張る。
「当然俺はお前を引っ掻き回すし、お前の言う趣味に付き合う気も無い。充実しているらしいお前の生活は俺には合わないとハッキリわかっているから尚更だ。そしてお前はそんな俺を支えたい、力になりたいという。だが俺は? 俺はお前に何もしてやらなくていいのか?」
 いいんだろうな、と彼は勝手に話を締めくくる。
「お前の生活はすでに、自分の物で完成しているから。そしてただ単に足りていないのが―――」
「違います!」
 掠れて鋭い声が夜の静寂を震わせた。こちらを睨む香月の頬からは血の気が失せている。握りしめた拳が白くなって震えているのに気付き、藤城は口をつぐんだ。
「私は部長の事が好きで……だから……」
「それは俺が欲しい好きじゃない」
 切り捨てるような言い方に、香月が凍り付いた。大きな目を見開きじっと藤城を見詰める。その彼女の視線を避けることなく、康晃は堂々と受け止めた。
「悪いな」
 低い彼の一言に、口を開けた淵が頭から自分を飲みこんでいくのを彼女は感じた。
 何が違うのか判らない。どうしてダメなのかも理解できない。
 好きだという事のどこに違いがあるというの?
 好意は万国共通で、どれも同じ甘い感情だというのに―――何故!?
「判りません」
 気付けば香月はそう呟いていた。乾いた笑みが唇に浮かぶも口の端は震えて歪んでいた。
「部長が好きだというだけでは駄目だということでしょうか? じゃあどうすれば?」
 高槻さんのように仕事が出来ずに手間ばかり掛かる人間になれと!?
「悪い所があるのなら直します。言って下さい、私には何が足りないんですか!?」
 香月のその台詞に、藤城は歪んだ笑みを返した。
「それはお前が自分で見つけろ」
 唐突に風が吹き、冷たい空気の波が二人の間を通り過ぎて行く。肩を竦め寒さをやり過ごした康晃が、両手を握り締めて固まる香月をじっと見た。
「以上だ」
 まるで会議でもしていたかのような事務的な口調で藤城が告げる。手を伸ばしたものを奪われ、蹂躙されるのをただ見詰めているだけ。そんな感情が溢れて来る。
 私の何が悪いの? 私の何が足りないの? 私の好きは……一体何なの?
 ただ一つ分かる事がある。
 背を向けて立ち去ろうとする藤城に、香月は冷たい声で問いかけた。
「部長は高槻さんの事が好きなんですか?」
 思いがけず直球が来て、康晃は足を止めた。
 くるりと振り返り、にやりと笑って見せた。
「興味が湧いた」
 電灯の下、ポケットに手を突っ込んで笑う彼の姿はどの男性よりもシャープでカッコよく、香月の「隣に立ちたい」欲を煽って行く。
「興味……」
 じゃあな、と帰って行く藤城の背中を見詰めながら香月渚は真っ赤な唇を噛んだ。
 彼は興味があると言った。好きかと問いかけた渚に対して興味があると。
 重く甘ったるいチョコレートのような感情が渚を包み込んでいく。
 ああ、私はこの人にもっともっと……今以上に認めてもらって近くに居たいのだ。そして理想のこの人を独占したい。どうしてもどうしても。
 高槻果穂など知ったことか。彼女がどんな人間だろうと構うものか。
 そう気付くともう、叫ぶ声は一色に染まり耳をふさぐことも出来ない。
 あんな女なんかに私が負ける筈がない。
「……そう、負ける筈ない」
 白い吐息が決意を紡ぐ。ぐ、と背筋を伸ばしてくるりと向きを変えると、ヒールの音高く進む。視線の先のロータリーには二台ほど空のタクシーが停まっていた。終電はもうとっくの昔に終わっている上に繁華街とは程遠いというのに。苦労している人間がこんな所にもいるんだなと、渚は関係ない所でぼんやりと考えながら、その一台へと近づいて行った。

(アナタの望む私になります……ねぇ)
 大分歩いてから振り返り、彼女がタクシーに乗り込むのを確認しながら康晃は苦い思いで先ほどのやり取りを思い返した。普段なら気のある素振りを見せて来た女を切るのは簡単で、特に何とも思わなかった。ベッドの隣に件の女がいたとしても。
 だが今回はそうではない。彼女は部下で手放すのは惜しい人材で、そして普段の彼なら彼女の気持ちに漬け込んでホテルに連れ込むくらいは余裕だったのに、そんな気も起きなかった。
 それもこれも。
(あのバカが謎の貞操観念を暴露するから……)
 もっと単純に終わるものだと思ったのだが意外とそうならなかった。その事に苛立ちながら康晃は繋がったままのスマホに視線を落とした。
「聞いてたか?」
 誰の所為でこんな結末を迎えているのか判っているのかと、謎の怒りをぶつけて尋ねる。だが返って来たのは。
『えっと……こ、この辺りに……住んでると言いますか……』
『本当か?』
 誰か男と話をしていると思しき『彼女』の声。
 その話す相手が誰かに気付き、康晃は唸った。そうだった。白石が途中で退場していたことをすっかり忘れていたのだ。

 康晃と香月が話し出した頃。
 通話中の端末の向こうからやや聞き取りにくい二人の声が聞こえてくる。
 淡々と答える藤城とは対照的に、あのキャリアウーマン然とした香月が、酔っているとはいえ感情論を展開するのに驚いた。それと同時に、これは訊いてはいけない会話なのではないかと罪悪感も覚えた。
 意外と藤城が冷静に相手を思いやる行動を見せたのにも驚いたが。
(――俺が欲しい好きじゃない、ね)
 電波が届ける内容に果梨はそっと目を伏せた。彼が欲しい好きは何だろうと知らず考えてしまう。
 果梨から藤城に好意を見せたことは……無いと言ってもいい。ほぼほぼ彼相手に繰り広げているのは拒絶のみだ。そして彼が「付き合ってくれ」と言った言葉の裏にあるのは「好奇心」だけ。
 香月が高槻の事をどう思っているのかと尋ねた際、不覚にも果梨の胸はときめいた。どきりと高鳴り答えを何故か期待した。
(ってバカバカしい)
 なんだ、期待したって。別に私は何も期待していない。そもそも私は果穂じゃない。その妹の果梨だ。だから……期待なんてするべき物じゃないしする必要もない。
 だが思いがけず溢れた甘い感情を逆転するように、彼の口から零れた返答が果梨の余計な期待を打ち砕いた。
 彼はただ単に「興味」があるそうなのだ―――高槻果穂に。
 そう告げるセリフに、果梨のほの甘いときめきは一瞬で霧散した。
 そう、興味。好奇心。不可解な物を解き明かしたいという学者のような感情。
 猫をも殺す好奇心……ということか。
 ずきりと走った痛みと広がる黒い靄のような物に困惑する。
(ていうか、興味を持たれたら正体がバレる可能性が……)
「高槻?」
 不意に声を掛けられはっと彼女は振り返った。コンビニの入り口にスーツにコートの男が立っていて驚いた顔でこちらを見て居た。
 それは数時間前に居酒屋で別れた白石だった。
 途端、果梨は別の意味で蒼白になった。
「何してんだ?」
 掠れた低い声が尋ねる。最初の驚きが消えた白石の顔に浮かぶのは不信感と……心配そうな、苦しそうな表情だ。
 さあ、どうしよう?
(よりによって……この人の事を忘れるとはッ)
 現在彼女が着ているのは男物のダウンコートと男物のジャージだ。先刻の飲み会で着ていて装備品は解除されている。ジャージにヒールのブーツというミスマッチな格好でコンビニに居る自分をどう言い訳しようかと、果梨は脳をフル回転させた。
「っと……あの……」
 何かを秘めたような表情で白石が近づいて来る。
「もう深夜二時だぞ? 一人か?」
 どうしよう? 彼は藤城に会ったのだろうか? 会話は無かったと思うがどうなんだろう?
「誰かを待ってるのか?」
 すぐ前に立つ白石がこちらをじっと見下ろしている。手に持ったスマホを後ろ手に隠すようにしながら果梨は必死に言葉を探した。
「えっと……こ、この辺りに……住んでると言いますか……」
「本当か?」
 嘘です。
 挙動不審で泳ぐ視線。そわそわと足を踏みかえる果梨の姿をじっと観察した後、白石が低くざらついた声で尋ねた。
「康晃か」
 それは疑問ではなく、確信的な物言いだった。途端果梨の頬が意に反して赤く燃え上がった。
「ち……違うんです」
 何がだよ、と自分でも突っ込みながらそれでも果梨は必死に言い訳を考えた。
「つ、付き合ってるとかじゃなくて……そ、その……えっと……」
 頭のてっぺんから爪先までをしげしげと見られ、全身が熱くなる。付き合ってもいないのに何でこんな格好なのか。
 本当にこのまま、この近所に住んでいるという嘘を貫き通そうか。
 赤くなった顔が徐々に青ざめるのを感じながら、果梨は破れかぶれでマラソンの帰りに寄ったとか言おうかと思った。だがそれより先に、白石の手が果梨の手首を掴んでいた。
 そのままぐいぐいと引っ張りコンビニの外に連れ出される。
「果穂」
 両腕を掴まれ、瞳を覗き込まれる。不意にぎらつく光をその目に認めて果梨は衝撃を受けた。
 果穂。
 名前呼び。
(まさか……)
「どういうつもりなんだ? これは何かのゲームなのか?」
 白石のこの台詞。東野建設には気を付けろという果穂の言葉。会社を休む宣言。プロポーズ。
「果穂」
 ぐいっと抱き寄せられた瞬間、絶対零度の声が空気を震わせた。
「なにやってるんだ」
 康晃の手が伸び、果梨を奪回するべく肩を掴んで引き寄せる。だが白石も手を離す気は無かったらしく、一瞬だけ果梨の身体が二人の間で揺れた。
 だが力なく手を離したのは白石の方だった。
 意志など関係なく藤城の方に倒れ込んだ果梨を抱き留め、怖い顔で康晃が白石を睨む。
「高槻に何の用だ?」
 静かな声を身体を通して聞きながら、果梨の心臓はばれるかもしれないという不安と、知りたい事が知れるかもしれない期待で高鳴った。
 ごくりと喉を鳴らしながら、ちらと白石を見上げれば彼は今にも掴みかからんと言った様子で康晃を見ていた。
(まさかいきなり部長に殴りかかったりしないわよね!?)
 ひやりと冷たい物が背筋を伝い降りて行く。気付けば果梨はぎゅっと藤城のジャンバーの袷を握り締めていた。白石の視線がそれを捉える。
「巧?」
 促すような藤城の声に、白石が引き剥がすように果梨から視線を逸らした。それから奥歯を噛みしめたまま唸るように告げる。
「何でもない」
 誰がどう見ても何でもないようには見えない。だがそれを今ここで果梨は問いただせない。何故なら自分を捕まえている藤城が居るから。白石から果穂との関係をぶちまけてくれればと、果梨は一瞬だけ願った。だがそれをやれば修羅場も修羅場。加えてここに居る女が果穂ではないとバレる可能性が高くなる。
「……お前、高槻と何か関係があるのか?」
 ぎくりと身体が強張る。果梨も……白石も。
 だが白石は康晃の探るような眼差しを前に答えない。
「―――お前が彼女を大事にするならそれでいい」
 もう答えないのではと思われるほどの沈黙の後、聞き取りにくい掠れた声が告げた。
 はっとした果梨が白石を見れば、彼はどこかが痛むような顔で果梨を見ていた。
 不意に疑問が湧いてきた。
 喉の奥から「どうして」という単語が溢れて来る。
 どうしてあなたはそんなことが言えるの?
 果穂を大事にしたかったのはもしかして貴方なんじゃ……。
 くるりと二人に背を向けて、白石が去って行く。思わず身体が動く。その肩を掴んだ藤城が果梨を押しとどめた。はっとして藤城を振り返ると、彼は恐ろしい程無表情に果梨を見下ろしていた。
「…………アイツと関係があるのか?」
 何が、と問いかける前に康晃のぎらつく眼差しが果梨を貫いた。
「俺にプロポーズしてきたのは」


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