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第三合

第35話

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「糖質だ」


 だしぬけに飛び出した単語に俺は戸惑った。
 それは聞いたことがある。
 いやコンビニ商品のパッケージに書かれている文字を見たことがある。


「糖質って……」
「知らないか?」
「知ってます。確かコンビニの商品に表示されているものがあったと思います。低糖質がどうとか」


 ファミリーマートがライザップとコラボしたときは商品が続々と出ていて、それには糖質の量がピックアップされていたはずだ。
 原材料だけを確認しておけばいいと思っていた俺は特に糖質量を気にしたことはなかった。
 それが何だというのだろう。


「糖質が人でない存在にどんな影響があるかは断言できないが、人に悪影響を及ぼすものであることは言える」
「ぴりかはその糖質のせいで体調不良になっていると?」
「私の想像だがな」
「そうだとして、糖質の何がいけないんです?」
「ひかりは糖質にどんなイメージを持っている?」
「え。んと、ダイエットしてる人が注意するべきもの? 理由は知りませんが。違ってますか?」
「違う。糖質量は人間にとって生きる上で絶えず気をつけなければならないものだ。ダイエットとはその一環に過ぎない」
「また怖い話みたいですね」
「何だその言い草は。私はただ警告し用心しろと言ってきただけだ」
「すみません……。その糖質ってどういうものなんです?」
「ひかり、三大栄養素を言ってみろ」
「えっと、タンパク質、脂質、炭水化物、ですよね」
「その炭水化物が糖質だ」
「言い方の違いですか?」
「いや。正確には糖質と食物繊維を足したものが炭水化物なんだ。学校で教わらなかったか?」
「そんなこと習ったかなぁ」


 五体満足の子供が栄養なんかにいちいち感心なんか持つわけがない。
 憶えてなくても無理はない。
 三つ答えられただけでも誇らしいくらいだ。


「糖質はエネルギーだ。車でいうガソリンみたいなものなんだが、しかし摂りすぎると害となる」
「いやいやいやいや。炭水化物って三大栄養素のひとつなんですよね? 三つとも体にいいんじゃ」
「タンパク質には必須アミノ酸、脂質には必須脂肪酸というものがある。これはふたつとも人体では作られず外部から取り入れるしかない栄養で、まさしく必須なものなんだ。だが必須の炭水化物なんてものはない。さきほど言ったようなエネルギーでしかないからだ。昔ならいざ知らず、現代ではとっくにさして摂る必要のないものとなっている」
「過剰に取りすぎるどうなるんです?」
「明確な弊害が三つある」
「三つも?」
「肥満、糖尿病、糖化の三つ」
「糖化、ですか? それは?」


 よく耳にする酸化とは違うのだろうか。


「その前に肥満から説明しよう。糖質をとると血糖値か上がる。上がるとインスリンというものが出て血糖値を下げようとする。このインスリンには脂肪を増大する効果があるため肥満に繋がる。小食なのに太るやつがいるのはこのせいだ」
「それってカロリーが少なくても太るってことですか?」
「そうだ。だからそれを知っているものは糖質量に気を使うんだ。お前が言ったコンビニ商品に糖質量が表示されているのはそのためだ」
「あの数字、思ったより重大だった……」
「次に糖尿病だが。いま説明したように血糖値が上がるとインスリンが分泌される。この関係は火事と消防車と思えばいい。火事が発生したら消防車が出動して鎮火する」
「なるほどー」
「さて摂取した糖質量が多くて大火事になったらどうなると思う?」
「大火事だからたくさんの消防車がいりますね」
「では絶えず火事が発生し続けたら?」
「絶えず消防車が必要ですね」
「すると次第に消防車は出て来なくなってしまうんだ」
「出ずっぱりで疲れ果ててですか? それとも仕事に嫌気が差してですか?」
「阿呆。たとえ話だからそんなのどっちでもいい。さあ火事になっているのに消防車が来ないとどうなる?」
「そりゃ火事のままですよね」
「その状態でいると高血糖のままということになる。高血糖でもすぐに害はない。だが血糖値が高いままだといずれ血管などが痛み合併症を誘発する。これがいわゆる糖尿病だ。そうなるともうインスリンが出ないから注射を打って血糖値を下げるしかなくなる。もしくは糖質制限をしなくてはならなくなる」
「理屈はわかりましたが合併症ってどんなものです?」
「失明、足先が壊死して切断」
「げ」
「腎不全による死ぬまで人工透析、神経障害」
「げげ」
「脳卒中、心筋梗塞」
「げげげ」
「その引き起こされる合併症の多さから糖尿病とは歩く病気の総合デパートと言う人もいるくらいだ」
「こっわ!」
「最後に糖化。これが本題だ」
「そうだ、まだあったんだ……」


 これだけでも充分に糖質のリスクはわかったつもりだったが。


「糖化とはタンパク質や脂質が余分な糖質と結びついて人体を劣化させる現象を言う。糖化の際に生み出されるものをAGE、最終糖化生成物と言う」
「なんか中二病的な名前っすね」


 食らえ、最終糖化生成物《ダークマター》、みたいな。


「この現象はとてもホットケーキに似ている。ちょうどこれだ」


 タイミングを見計らったかのようにやってきたのは窯焼きスフレパンケーキだ。
 見た目よし匂いよしだが、いまはそれどころではない。


「それ伏線だったんですか!?」
「砂糖とタンパク質が結びつき、そこへ熱を加えて変性したものがこれだ。何色に見える?」
「焦げて茶色ですけど」
「その通り。人の中で砂糖、タンパク質、体温によって糖化が起こると、これと似たようなことになる。つまり肌の透明感がなくなり、くすむ。酸化をよく身体が錆びるという表現をするが、糖化の場合は焦げると言ったほうが適切だろう。まあどちらも老化と言ってしまえばそれまでだが」
「要するに老けると?」
「そうだな。最終糖化生成物により細胞を破壊されると人体は大きなダメージを負う。それで肌の劣化、たるみ、シミ、毛髪のパサつきが起こる」
「人によってやたら年の割に老け込んで見える人がいるのはそのせいなんですかね?」
「かもな。もうひとつ質問だ。このパンケーキは焦げて茶色になっているが、元の白色に戻すにはどうすればいいと思う?」
「焼いたものを白くなんて、そんなの無理に決まっているじゃないですか」
「そうだよな。そこが怖いところだ。AGEの悪影響は強く蓄積される。元に戻らないとは言わないが改善にはかなりの時間がかかるだろう」
「たとえがわかりやすいだけに怖い」
「しかしこれはあくまで見た目の話。当たり前だがAGEの健康への悪影響も測り知れない」


 はっとする。
 ここで繋がった。
 俺の疑問と彼女の導き出した答えが。


「そうか、ぴりかの体調不良は糖質の摂りすぎ、先生はそう言いたいんですね?」
「あの子がだんだん体調不良になったのはお菓子を与えた時期からだ。あの子は三食しっかり食べた上で、甘いお菓子も食べている。それも毎日。たくさん。そうだったな?」
「はい……」
「そのせいとしか思えない」
「あいつ食事制限で好きなもの食べられないから可哀想で、だからせめてアレルギーがない好きなものくらいは望むだけ食べさせてあげようって。ほしがるままに与えてました。でもそれがかえってぴりかを苦しめてたなんて……」
「お前の優しさはわかる。だがほしいものを与えることだけが優しさではないぞ」
「難しいですね。不甲斐ないです……」
「失敗は誰にでもある。気にするな。私が教員をやっていたときそんな親をたくさん見た。欲しいままにお菓子やジュースをあげてまだ低学年にも関わらず子供を肥満体にしている親とかな。もしくは祖父や祖母も。わかるよ。喜ぶ顔を見たら駄目なんて言えないよな」
「甘かったのはお菓子じゃなくて俺の方でしたね。はは……」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、だ。糖質は確かに体を動かすためのエネルギー。だかどんなものでもとりすぎれば害となる。水で人が死ぬように、空気で人が死ぬように」


 彼女の仮説はたぶん当たっている。
 いまならわかる。
 そうとしか思えない。
 ぴりかの体調不良の元凶はやはり俺の管理不足だったのだ。
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