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第一章 帰ってきた幼馴染
真白と、白いチーズケーキと紅茶(1)
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「店員さん、お願いしまーす」
「デザートまだですか?」
「こっち、注文したいんだけど!」
お客様の声があちらこちらから聞こえる。
「大変申し訳ありません。もう少々お待ちくださいませ!」
もう何度目だろう。
このセリフを口にするのは。
わたしの職場は現在、目の回るような忙しさとなっていた。
お昼どきのファミリーレストラン。
次々にお客様が来店し、席への案内も配膳もまったく追いついていない。
いわゆる、猫の手も借りたい状態だ。なのにホールにはわたしと女の先輩の二人しかいなかった。
卒業シーズンで、高校生のアルバイトさんたちが一斉に辞めてしまったのだ。
三月中旬は毎年、こうして人員が少なくなる。店内はご覧のありさまだ。
けれどわたしはこのぐらいではへこたれない。忙しさよりつらいのは、これだ。人間関係。
「おい、早く運べ!」
「ったく使えねえな。オーダーが詰まってるだろうが!」
キッチン担当のベテラン男性二人。
彼らはわたしより年上だが、いつもキツイ言い方で指示してくる。スタッフが多いときはまだ分散されていたからマシだった。でも少なくなってしまった今となってはそれがわたしに集中している。
「はあ……お疲れ様でした……」
遅番の人たちにバトンタッチすると、わたしはようやくバックヤードに下がった。
更衣室に向かう途中、キッチンの方からまた怒号のような声が聞こえてきて憂鬱になる。
もう限界。
早く帰って休みたい……。
午後五時十分――。
「羽田真白(はねだましろ)」と書かれたタイムカードを切って、わたしはようやく職場から解放された。
店の裏口に回り、駐輪場に停めておいた白い自転車にまたがる。
「今日も忙し過ぎたぁ……。ああ、早く新人入れてほしい」
店の前は車がブンブンうなりをあげて走っていた。ここは大きな国道だ。相変わらず土埃がひどい。
わたしはコートのポケットに入っていたマスクをつけ、ペダルをこぎだした。
ここは埼玉の中ほどにある加輪辺町(かわべちょう)。
観光スポットと呼べるような場所はひとつもない、平々凡々とした町だ。
国道沿いに並ぶ飲食店とガソリンスタンドの他には、点在する住宅と田園がどこまでも広がっている。
遠くに荒川の堤防が見える。その上を散歩する人々も。傾き始めた日が薄曇りの空を赤く染めている。冷たく吹き付ける風に、わたしは思わず身を震わせた。
「ううっ、さぶっ」
わたしは高校卒業後、フリーターとして七年間いろんなところに勤めてきた。
ホームセンター、道の駅、コンビニ、スーパー、などなど。
今のファミレスに落ち着いたのが二年前だ。
(なんだかんだ二年も続いてるんだなあ。こんなにきつくなったのは初めてだけど)
そんなことを思いながら、荒川の支流沿いの道に曲がる。
この小川はそれほど深くなく、しかも大股で五歩ぐらいの幅しかない。川岸も整備されていて、ところどころ下に降りられる階段がある。橋がかかっていないところは、川を横断できる飛び石があった。
「もうすぐ春だなあ」
川岸の桜並木は、枝の先のつぼみがたくさん膨らみ始めている。
見上げながら自転車を走らせていると、突然ピルルルルッとバッグの中でスマホが鳴った。
きっと友人からだ。
わたしの友人は主に高校からのつきあいだ。
みんな東京の大学に行き、あっちの会社に勤めている。彼氏ができたとか、どこどこに旅行に行ったとか、そんな話をいつも聞かされる。正直うらやましい。
けれど――。
わたしは、この桜が満開になっても、次の春が来ても、きっと今とあまり変わらない。
変わりたくてもどう変わればいいかわからないのだ。
わたしは十年前にいろいろなものを失って、それからこの代わり映えのない灰色の日々をずっと繰り返している。
「ん?」
自宅そばまで来ると、川向こうに見慣れない車が走っているのが見えた。
水色のワンボックスカーだ。ここらでは見慣れないおしゃれな車だった。
それは思いがけないところで停まった。
わたしの家の真向かい、つまり川の反対側に真っ白い外観の洋館が建っているのだが……その家の前に停車したのだ。
そこはわたしの知り合いの家で、現在は空き家だった。
「えっ? だ、誰? 不動産屋さん? それとも……泥棒!?」
「泥棒じゃないわよー。あれは今日あそこに越してきた人」
「お、お母さん!?」
声がした方を振り返ると、玄関先にエプロン姿の母が出てきていた。
「おかえり。もうご飯よ」
「ただいま。うん。ていうか、あの車……なに? 誰?」
「ああ、あれは……ふふ。真白も知ってる人」
「ええ?」
「あんたがバイトに行った後にね、うちにご挨拶にきたのよー。タイミング悪かったわね。業者さんたちも今日たくさん来ていたけど、その人たちはもう帰ったみたい。今ならあんたもゆっくり挨拶できるんじゃない?」
「え、だから誰……」
そう言うと母はニヤニヤしだした。
「ふふ。本当にわからない? 九露木さんの息子さんよ」
「え? 嘘……!」
九露木。
その名を聞いた途端、わたしは自転車を放り出していた。
「えっ、ちょっと真白!?」
「嘘でしょ。そんな……」
川向こうまで走る。
息が、思うように吸えない。胸がきりきり痛む。つけていたマスクをはぎとってあえぐように呼吸する。
水色のワンボックスカーは洋館の右手のスペースにバックで入ろうとしていた。わたしは急いで橋を越えて車の前まで行く。
「あのっ……!」
声をかけたら、ちょうど運転していた人と目が合った。
男の人はハッとしたようにわたしを見る。
ギッと音がしてエンジンが止まる。
そして、運転席からその人がゆっくりと出てくる。
「……真白?」
「青司、くん?」
目の前に「青司くん」がいた。
九露木青司くん。
十年前にどこかへ引っ越していってしまった、わたしの幼馴染。そして……わたしの初恋の人。
見た目が少し変わっていたが間違いなかった。
サラサラの黒い髪に、眠そうな目。スッと通った鼻に、猫背気味の高い背。そして……この独特で落ち着いた低い声。
もう会えないと思っていた。
なのに……。
急に世界がぱっと色を取り戻したみたいになった。
青司くんの周りだけが、色鮮やかに輝いて見える。
「ひ、久しぶり……」
「うん。久しぶり……だな」
そう言い合うと、お互い無言になってしまう。
周囲の木立がさわさわと風に揺れた。
彼はこの十年ですっかり大人になっていた。
わたしより三歳年上だから……今は二十八?
あまりにも嬉しくて、わたしはじわりと涙ぐんだ。
でも泣かないようになんとか次の言葉をつむぎだす。
「あ、あのっ。さっきお母さんから聞いて。びっくりした……」
「あー、その、いろいろあってさ。またここに住むことになったんだ」
「そう……」
「とりあえず、中で話さないか」
「うん」
青司くんは助手席から買い物袋を二つ取り出すと、家の表の方に回った。わたしはその後を緊張しながらついていく。
大きな木製の玄関扉。
その横には「お絵かき教室」と書かれた看板がまだ掲げられている。
十年の間にすっかり色あせてしまったが、下の方にはまだ青司くんのお母さんの名前がはっきりと刻まれていた。
「これ……」
「ああ、俺も今日、これ見て懐かしいって思った」
じっと、青司くんもそれを見つめる。
その瞳はどこか寂しそうだった。たぶん、わたしも今似たような目をしていたと思う。
青司くんが鍵を開けて中に入る。
夕暮れの薄暗い部屋。
そこには、昔のままの光景が広がっていた。
「……わあ、懐かしい」
アンティーク風の四角い木の机が三つあり、その上にそれぞれ椅子が四つずつさかさまに乗せられている。
わたしは十年前まで、ここの「お絵かき教室」に通っていた。
そこには優しい水彩画家の女の先生と、その子どもの青司くんがいた。何人もの生徒たちが、学び合って、ふざけ合って、笑い合って。誰もが幸せな日々を過ごしていた。
でも、それはある日突然消えてしまった。わたしは心のよりどころを一気に失って……ずっと立ち止まりつづけることになった。
ここは、なにも変わってない。
今のわたしと同じように――。
でもわずかな違いもあった。
床が、ワックスがかけられたばかりのように飴色に輝いていた。
窓もどれもピカピカで、十年空き家であったとは思えないほど綺麗になっている。
業者が来ていたと母が言っていたけれど、それは掃除のプロだったようだ。
奥には手洗い場と、サンルームが。その先の庭にはいろんな草花が植わっていて。
視線を左手に向けると、画材用の収納棚があった。今はなぜかほとんどからっぽだったけど。そしてその上の壁にはたくさんの絵が飾られていて――。
「え……?」
そこにはかつて、子どもたちの描いた絵が飾られていた。しかし今飾られているのは……あきらかにプロの絵だ。
しかも、おそろしく美しい水彩画。
計算された色彩、グラデーション。精密に描かれた人物や風景。
それは心が洗われるような素晴らしい絵だった。それと同時に、ひどく懐かしい気持ちにさせる絵でもあった。
「青司くん、これ……」
振り返ると彼もちょうどわたしを見つめていた。
でも、なぜかちょっと複雑な顔をしている。
「それ、俺が描いたんだ。これでも一応……画家でさ」
「えっ、画家? 青司くん画家になったの?」
「ああ……」
「すごい。これ全部、青司くんが……」
青司くんはわたしの言葉に照れたのか、ささっと奥の方へ行ってしまった。
右奥にはカウンター式のキッチンがあり、その前には足の長い椅子が五つ並べられている。
買ってきた食材を冷蔵庫に詰めながら、青司くんは電気ケトルのスイッチをポンと押した。
「今、お茶入れるから。そこに座ってて」
「うん……」
カウンター席に腰かけると、なんとなく昔のことが思い返される。
ここで過ごしていた、昔のこと。
「ねえ青司くん。よくおやつの時間にさ、先生がいろんなお菓子とか飲み物を……ふるまってくれたよね? わたし、それがホントに大好きでさ。覚えてる?」
先生の手作りのおやつ。
もう一度食べてみたいと思うけれど、もうそれが叶うことはない。だって先生はもう、十年前に亡くなって――。
「はい、どうぞ」
「え?」
見るといつのまにかわたしの目の前に白いチーズケーキと、湯気の立った紅茶が置かれていた。
思わず目をしばたたく。
「こ、これ……」
「母さん直伝のケーキ。それと昔と同じ銘柄の紅茶。良かったら、一緒に食べてみて」
わたしは胸がいっぱいになった。
なんで。どうして今これが、ここで出てくるの。
「青司くん……」
「真白。俺さ、昔母さんがここでやってたみたいなこと、したくなってさ。絵とおやつとみんなの笑顔……それに囲まれたいなって思って。それで、ここに戻ってきたんだ」
青司くんは、そう言ってふわりと笑う。
その笑顔は昔と同じ優しさで。
「この家で、アトリエ付きの喫茶店を開こうと思うんだ。良かったら手伝ってくれないか、真白」
「デザートまだですか?」
「こっち、注文したいんだけど!」
お客様の声があちらこちらから聞こえる。
「大変申し訳ありません。もう少々お待ちくださいませ!」
もう何度目だろう。
このセリフを口にするのは。
わたしの職場は現在、目の回るような忙しさとなっていた。
お昼どきのファミリーレストラン。
次々にお客様が来店し、席への案内も配膳もまったく追いついていない。
いわゆる、猫の手も借りたい状態だ。なのにホールにはわたしと女の先輩の二人しかいなかった。
卒業シーズンで、高校生のアルバイトさんたちが一斉に辞めてしまったのだ。
三月中旬は毎年、こうして人員が少なくなる。店内はご覧のありさまだ。
けれどわたしはこのぐらいではへこたれない。忙しさよりつらいのは、これだ。人間関係。
「おい、早く運べ!」
「ったく使えねえな。オーダーが詰まってるだろうが!」
キッチン担当のベテラン男性二人。
彼らはわたしより年上だが、いつもキツイ言い方で指示してくる。スタッフが多いときはまだ分散されていたからマシだった。でも少なくなってしまった今となってはそれがわたしに集中している。
「はあ……お疲れ様でした……」
遅番の人たちにバトンタッチすると、わたしはようやくバックヤードに下がった。
更衣室に向かう途中、キッチンの方からまた怒号のような声が聞こえてきて憂鬱になる。
もう限界。
早く帰って休みたい……。
午後五時十分――。
「羽田真白(はねだましろ)」と書かれたタイムカードを切って、わたしはようやく職場から解放された。
店の裏口に回り、駐輪場に停めておいた白い自転車にまたがる。
「今日も忙し過ぎたぁ……。ああ、早く新人入れてほしい」
店の前は車がブンブンうなりをあげて走っていた。ここは大きな国道だ。相変わらず土埃がひどい。
わたしはコートのポケットに入っていたマスクをつけ、ペダルをこぎだした。
ここは埼玉の中ほどにある加輪辺町(かわべちょう)。
観光スポットと呼べるような場所はひとつもない、平々凡々とした町だ。
国道沿いに並ぶ飲食店とガソリンスタンドの他には、点在する住宅と田園がどこまでも広がっている。
遠くに荒川の堤防が見える。その上を散歩する人々も。傾き始めた日が薄曇りの空を赤く染めている。冷たく吹き付ける風に、わたしは思わず身を震わせた。
「ううっ、さぶっ」
わたしは高校卒業後、フリーターとして七年間いろんなところに勤めてきた。
ホームセンター、道の駅、コンビニ、スーパー、などなど。
今のファミレスに落ち着いたのが二年前だ。
(なんだかんだ二年も続いてるんだなあ。こんなにきつくなったのは初めてだけど)
そんなことを思いながら、荒川の支流沿いの道に曲がる。
この小川はそれほど深くなく、しかも大股で五歩ぐらいの幅しかない。川岸も整備されていて、ところどころ下に降りられる階段がある。橋がかかっていないところは、川を横断できる飛び石があった。
「もうすぐ春だなあ」
川岸の桜並木は、枝の先のつぼみがたくさん膨らみ始めている。
見上げながら自転車を走らせていると、突然ピルルルルッとバッグの中でスマホが鳴った。
きっと友人からだ。
わたしの友人は主に高校からのつきあいだ。
みんな東京の大学に行き、あっちの会社に勤めている。彼氏ができたとか、どこどこに旅行に行ったとか、そんな話をいつも聞かされる。正直うらやましい。
けれど――。
わたしは、この桜が満開になっても、次の春が来ても、きっと今とあまり変わらない。
変わりたくてもどう変わればいいかわからないのだ。
わたしは十年前にいろいろなものを失って、それからこの代わり映えのない灰色の日々をずっと繰り返している。
「ん?」
自宅そばまで来ると、川向こうに見慣れない車が走っているのが見えた。
水色のワンボックスカーだ。ここらでは見慣れないおしゃれな車だった。
それは思いがけないところで停まった。
わたしの家の真向かい、つまり川の反対側に真っ白い外観の洋館が建っているのだが……その家の前に停車したのだ。
そこはわたしの知り合いの家で、現在は空き家だった。
「えっ? だ、誰? 不動産屋さん? それとも……泥棒!?」
「泥棒じゃないわよー。あれは今日あそこに越してきた人」
「お、お母さん!?」
声がした方を振り返ると、玄関先にエプロン姿の母が出てきていた。
「おかえり。もうご飯よ」
「ただいま。うん。ていうか、あの車……なに? 誰?」
「ああ、あれは……ふふ。真白も知ってる人」
「ええ?」
「あんたがバイトに行った後にね、うちにご挨拶にきたのよー。タイミング悪かったわね。業者さんたちも今日たくさん来ていたけど、その人たちはもう帰ったみたい。今ならあんたもゆっくり挨拶できるんじゃない?」
「え、だから誰……」
そう言うと母はニヤニヤしだした。
「ふふ。本当にわからない? 九露木さんの息子さんよ」
「え? 嘘……!」
九露木。
その名を聞いた途端、わたしは自転車を放り出していた。
「えっ、ちょっと真白!?」
「嘘でしょ。そんな……」
川向こうまで走る。
息が、思うように吸えない。胸がきりきり痛む。つけていたマスクをはぎとってあえぐように呼吸する。
水色のワンボックスカーは洋館の右手のスペースにバックで入ろうとしていた。わたしは急いで橋を越えて車の前まで行く。
「あのっ……!」
声をかけたら、ちょうど運転していた人と目が合った。
男の人はハッとしたようにわたしを見る。
ギッと音がしてエンジンが止まる。
そして、運転席からその人がゆっくりと出てくる。
「……真白?」
「青司、くん?」
目の前に「青司くん」がいた。
九露木青司くん。
十年前にどこかへ引っ越していってしまった、わたしの幼馴染。そして……わたしの初恋の人。
見た目が少し変わっていたが間違いなかった。
サラサラの黒い髪に、眠そうな目。スッと通った鼻に、猫背気味の高い背。そして……この独特で落ち着いた低い声。
もう会えないと思っていた。
なのに……。
急に世界がぱっと色を取り戻したみたいになった。
青司くんの周りだけが、色鮮やかに輝いて見える。
「ひ、久しぶり……」
「うん。久しぶり……だな」
そう言い合うと、お互い無言になってしまう。
周囲の木立がさわさわと風に揺れた。
彼はこの十年ですっかり大人になっていた。
わたしより三歳年上だから……今は二十八?
あまりにも嬉しくて、わたしはじわりと涙ぐんだ。
でも泣かないようになんとか次の言葉をつむぎだす。
「あ、あのっ。さっきお母さんから聞いて。びっくりした……」
「あー、その、いろいろあってさ。またここに住むことになったんだ」
「そう……」
「とりあえず、中で話さないか」
「うん」
青司くんは助手席から買い物袋を二つ取り出すと、家の表の方に回った。わたしはその後を緊張しながらついていく。
大きな木製の玄関扉。
その横には「お絵かき教室」と書かれた看板がまだ掲げられている。
十年の間にすっかり色あせてしまったが、下の方にはまだ青司くんのお母さんの名前がはっきりと刻まれていた。
「これ……」
「ああ、俺も今日、これ見て懐かしいって思った」
じっと、青司くんもそれを見つめる。
その瞳はどこか寂しそうだった。たぶん、わたしも今似たような目をしていたと思う。
青司くんが鍵を開けて中に入る。
夕暮れの薄暗い部屋。
そこには、昔のままの光景が広がっていた。
「……わあ、懐かしい」
アンティーク風の四角い木の机が三つあり、その上にそれぞれ椅子が四つずつさかさまに乗せられている。
わたしは十年前まで、ここの「お絵かき教室」に通っていた。
そこには優しい水彩画家の女の先生と、その子どもの青司くんがいた。何人もの生徒たちが、学び合って、ふざけ合って、笑い合って。誰もが幸せな日々を過ごしていた。
でも、それはある日突然消えてしまった。わたしは心のよりどころを一気に失って……ずっと立ち止まりつづけることになった。
ここは、なにも変わってない。
今のわたしと同じように――。
でもわずかな違いもあった。
床が、ワックスがかけられたばかりのように飴色に輝いていた。
窓もどれもピカピカで、十年空き家であったとは思えないほど綺麗になっている。
業者が来ていたと母が言っていたけれど、それは掃除のプロだったようだ。
奥には手洗い場と、サンルームが。その先の庭にはいろんな草花が植わっていて。
視線を左手に向けると、画材用の収納棚があった。今はなぜかほとんどからっぽだったけど。そしてその上の壁にはたくさんの絵が飾られていて――。
「え……?」
そこにはかつて、子どもたちの描いた絵が飾られていた。しかし今飾られているのは……あきらかにプロの絵だ。
しかも、おそろしく美しい水彩画。
計算された色彩、グラデーション。精密に描かれた人物や風景。
それは心が洗われるような素晴らしい絵だった。それと同時に、ひどく懐かしい気持ちにさせる絵でもあった。
「青司くん、これ……」
振り返ると彼もちょうどわたしを見つめていた。
でも、なぜかちょっと複雑な顔をしている。
「それ、俺が描いたんだ。これでも一応……画家でさ」
「えっ、画家? 青司くん画家になったの?」
「ああ……」
「すごい。これ全部、青司くんが……」
青司くんはわたしの言葉に照れたのか、ささっと奥の方へ行ってしまった。
右奥にはカウンター式のキッチンがあり、その前には足の長い椅子が五つ並べられている。
買ってきた食材を冷蔵庫に詰めながら、青司くんは電気ケトルのスイッチをポンと押した。
「今、お茶入れるから。そこに座ってて」
「うん……」
カウンター席に腰かけると、なんとなく昔のことが思い返される。
ここで過ごしていた、昔のこと。
「ねえ青司くん。よくおやつの時間にさ、先生がいろんなお菓子とか飲み物を……ふるまってくれたよね? わたし、それがホントに大好きでさ。覚えてる?」
先生の手作りのおやつ。
もう一度食べてみたいと思うけれど、もうそれが叶うことはない。だって先生はもう、十年前に亡くなって――。
「はい、どうぞ」
「え?」
見るといつのまにかわたしの目の前に白いチーズケーキと、湯気の立った紅茶が置かれていた。
思わず目をしばたたく。
「こ、これ……」
「母さん直伝のケーキ。それと昔と同じ銘柄の紅茶。良かったら、一緒に食べてみて」
わたしは胸がいっぱいになった。
なんで。どうして今これが、ここで出てくるの。
「青司くん……」
「真白。俺さ、昔母さんがここでやってたみたいなこと、したくなってさ。絵とおやつとみんなの笑顔……それに囲まれたいなって思って。それで、ここに戻ってきたんだ」
青司くんは、そう言ってふわりと笑う。
その笑顔は昔と同じ優しさで。
「この家で、アトリエ付きの喫茶店を開こうと思うんだ。良かったら手伝ってくれないか、真白」
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