川向こうのアトリエ喫茶には癒しの水彩画家がいます

津月あおい

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第一章 帰ってきた幼馴染

真白と、白いチーズケーキと紅茶(3)

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「これ、桃花先生の……。懐かしい。小さいうちはみんなプラスチックのコップを使っててさ。中学生以上になったらこのイチゴのカップ使っていいわよー、なんて言われてたよね」
「……ああ、そうだった」
「今はもう大人だし、使ってもいいよね?」
「もちろん。だから出したんだ。ほら、早く冷めないうちに」
「じゃあさっそく、いただきます」

 あの桃花先生が、今もどこかから見守ってくれている。そう思うと、さっきまで張りつめていた空気がちょっとゆるんだ気がした。
 わたしはカップに鼻を近づけ、香りを堪能する。

「ああ、いい匂い。味も……うん、昔と同じ。美味しい」
「良かった」

 紅茶を一口飲み終わると、青司くんはホッとしたような笑みを浮かべた。
 でも少し、疲れがあるように見える。引っ越しが予想以上に大変だったのかもしれない。
 わたしは、ちょっとだけ勇気を出して言ってみた。

「あの。せ、青司くんも……こっちで一緒に休まない?」
「え?」
「いろいろ……疲れたでしょ、今日は」
「あー、うん。そうだね。じゃあちょっとだけ休憩しようかな。俺も食べるよ」

 青司くんはそう言ってもう一人分の紅茶とケーキを用意して、わたしの隣に座った。
 うわ……近い。
 わたしから誘ったくせに、隣に座られただけですごくドキドキしてしまった。なんだか首から上が熱い。このままだとのぼせちゃう、なんて思ってあわてて首のマフラーを取る。

「ふう……」

 パタパタと手で顔を軽く仰いでいると、青司くんは不思議なものでも見るようにこちらに顔を向けていた。

「どうしたの、真白」
「え? あ、いや、なんでもないよっ!」
「ふーん。あ、俺はもう味見してるからさ、真白はどんどん食べて」
「えっ?」
「ケーキ。早く感想聞かせてほしいな」
「え、あっ、ケーキね、ケーキ。はいはい……」
「久しぶりに作ったから、ちゃんと美味しいかどうか自信なくってさ。真白だったらちゃんと、正直に言ってくれるだろ?」
「あ、う……そんな重要な役目……ああ、そんなこっちをじっと見ないで! 緊張する!」
「ははっ、ごめんごめん。じゃああっち向いてるよ」

 そう言って、青司くんがわたしと反対方向を向く。
 はあ……もう心臓が持たない。十年ぶりに会った「初恋の人」というのは本当に体に悪い。すごい破壊力だ。

 緊張しすぎて、ちゃんと味を感じられるかどうか不安になってくる。わたしは青司くんが見ていないうちにすばやくフォークを差し、ケーキの先端を口に入れた。

「……っ!」

 舌の上に、砕かれたビスケットの土台となめらかなクリームチーズが乗る。それらはすぐに口の中でほどけ、濃厚なチーズと爽やかなレモンの香りが広がった。
 わたしはそれらを幸せいっぱいな気持ちで味わう。

「うわー、美味しい! これとっても美味しいよ、青司くん」
「良かった。あ、でもちょっと待って。それって母さんと同じ味になってる?」
「え? うーん。どうだろ。もうずいぶん前のことだから正確な味ははっきり思い出せないんだけど……でも、たぶん同じ味、のような気がする。だってとても美味しいし、とっても幸せな気分になれたから!」
「そうか……。なら、OKか。ありがとう、真白」

 そう言うと、青司くんも自分の目の前にあるケーキを食べはじめた。
 二人ともケーキの内角は九十度だった。これはホールケーキの四等分にあたり、わりと大きな扇形である。
 もしかして、わたしが今日ここに来なかったら……青司くんはこれをひとりで食べきるつもりだったんだろうか。
 全部のケーキをひとりで食べる彼の姿を想像すると、すごく微笑ましくなった。

「ふっ……ふふふっ」
「どうした?」
「ううん。なんでもない。ねえ青司くん、さっきの返事……だけどさ」

 楽しい気分でいられてるうちに、さっきの返事をしよう。
 お誘いは……突然ですごくびっくりしたけど、でもちゃんと答えなきゃいけないと思った。だって青司くんは、覚悟を決めてここに帰ってきたんだから。
 わたしや、みんなから非難されるかもしれないってことも考えてきたはずだから。

「わたしにお店を一緒に手伝ってほしい、ってやつ。もう一度訊くけど、あれ本気、なんだよね?」

 青司くんは真剣な瞳でこちらを見ている。

「うん、そうだよ」
「じゃあ……。ぜひ、やりたいって思う」
「本当に?」
「うん。でも、わたし今、ファミレスでバイトしてて。すぐには、その……」
「あー、そういえばそんなこと真白のお母さんが言ってたね。忘れてた」
「……そう。だから、ちょっとだけ待っててもらえる?」
「うん。ああでも、真白にそう言ってもらえて良かった」
「えっ?」

 わたしはレアチーズケーキを食べていた手を止めた。

「ここに戻ってきたら、真っ先に真白に『手伝ってほしい』って言おうと思ってたんだ。だから、今すぐでなくてもいい返事がもらえて嬉しい」
「……え」

 なにそれ。

「真白が、別の所に引っ越していたり、嫌われたままでいたら、こんな風にお願いすることもできなかった。そうなったら、違う人を雇わなきゃいけなかった。だから……本当に嬉しいよ」

 そんな……。
 そんなこと言われたら、すっごく嬉しくなっちゃうよ。
 わたしは、連絡を絶たれたことにずっと怒っていた。それなのにこんな風に言われたら……一気に許してしまいそうになる。まったく自分でも現金だと思う。好きな人にちょっと甘い言葉をかけられただけで、すぐにこうなってしまうんだから。

 ――ねえ、騙されてるんじゃない?

 そんな声がどこかから聞こえる。

 ――ずっと忘れられて放っておかれたのに、ちょっと都合が良すぎるんじゃない? 十年の間に、青司くんはもしかしたら人がすっかり変わってしまったかもしれないよ? それなのになんで、そんな風にすぐ信じられるの? また急にいなくなるかもしれないのに。

 わたしは、頭の中の声を無視して、チーズケーキを食べきることにした。
 何かに集中してないとどうにかなりそうだった。
 この空間ではまともに考えられない。そう判断したわたしは、これ以上の話は一旦保留にしようと決めた。よし、なら一時撤退だ。

「ご馳走様でした! それじゃ!」
「え? もう帰るの?」
「うん。明日も仕事あるし。で……そう言っておいてなんだけど、明日もまた来ていいかな、青司くん」

 空になったお皿をシンクの近くに寄せながら、そう訊いてみた。
 今はこれ以上一緒にいられない。でも本当はもっと一緒にいたい。明日なら大丈夫、明日なら会いたい。そう思ったから訊いてみた。
 断られたらどうしよう。
 わたしも一緒にお店をやりたいとは言ったけれど、すぐにはできないことにガッカリされてないだろうか……。そういう真白はいらないって、言われないだろうか……。

「うん、ぜひ。オープンまでいろいろやることがあるから、相談だけでも乗ってくれると助かるよ。お客さんに出そうとしているメニューの考案とか、試食とか……一人じゃ心もとなくってさ。頼むよ」
「……! わ、わたしにできることがあったら何でもやるから。遠慮なく言って!」

 どうやら心配は杞憂だったらしい。わりと好意的に受け取ってもらえていたようなので、ホッと安心する。

 メニューの試食、か。
 他にどんなケーキやドリンクを出す予定なんだろう。わたしは思わずいろいろ想像してしまった。
 きっとそのどれもがみんな、かつて桃花先生が作ってくれたような美味しいおやつなんだろうな。
 そう思うとかなり楽しみになってきた。

「えっと、そういえばオープンって……いつ頃の予定なの? 青司くん」
「んー、さっきいつでも開けられるなんて言っちゃったけど、やはり準備ができ次第……かな。大目に見積もって半月後――今は三月中旬だから、四月頭までには始めたい感じ」
「そっか。じゃあなるべく早くバイト先に退職の件、相談しておくよ。あ、明日来る時間だけど、バイト前の午前中かバイト後の夕方以降になるけどいい?」
「うん、構わないよ」
「じゃあまたその時に」

 わたしは足の高い椅子から降りると、マフラーを巻きなおした。

「あ、真白、気を付けてね。もうだいぶ暗くなってきたから……」
「……う、うん」

 窓の外を見るとたしかに暗くなっていた。
 けれど、わたしの家は目と鼻の先だ。すごく近くなのに、そんな風に言ってくれるなんて。
 こういう一言一言に、いちいちドキッとさせられる自分が嫌だ。くすぐったいような、逃げ出したくなるような、ひどく落ち着かない気分にさせられる。もう……青司くんはいろいろとズルい。こんなふうに振り回されたくなんてなかったのに。今日だけで信じられないことが山のように起きた。気持ちが全然追い付かない。

 失っていたものがまた目の前に現れるなんて。
 こんな奇跡、十年前にはまったく想像できないことだった。
 でも、青司くんは帰ってきた。この加輪辺町に。

 このことを知っているのは、まだわたしだけなんだろうか?
 他のみんなはまだ知らないのだとしたら、わたしはすぐにでもこのことをみんなに伝えなきゃいけない。でも……どうなんだろう。青司くんはまだみんなに知られたくないかな? それとも、早くみんなに知ってもらいたい?

 わからない。
 目の前にいるから訊けばいいのに、なぜか訊けない。

 ――どうして?

 それは……わたしがまだ彼を独占したいと思ってるからだ。まだわたしだけの青司くんでいてほしい。だから……みんなに黙っていようとしてる。

「……」

 薄暗い部屋の中、キッチンのまわりにだけ間接照明が点いていた。
 今までは気付かなかったけれど、いつのまにか青司くんが点けてくれていたようだ。
 わたしは小さい自分を恥じながら、玄関へと向かった。
 そしてドアに近づいた瞬間、一枚の絵を見つけた。

「あっ……これ」

 それは、水彩絵の具で描かれた桃花先生の肖像画だった。
 玄関の横の壁にひっそりと額入りで飾られている。

「桃花、先生……」

 絵の中の先生は時を止めていた。それは十年前の姿のまんまだった。
 写真かと見まごうほどによく似ている。
 全体的に淡いピンクの色調。

「この絵も……青司くんが描いたの?」
「うん、そうだよ」

 わたしはその絵に近づくと、そっと額縁に触れた。
 柔らかな髪を胸元に垂らして、椅子に腰かけている先生。周囲には何もなく、彼女が画家であるという要素はどこにもない。

 この絵も、きっと青司くんが描いた絵だ。
 なら青司くんは彼女を「水彩画家の先生」としてではなく……あくまでも「母親」として描いたのだ。
 いつ描かれたのかよくわからないけれど、でも、とてもあたたかな絵だと思った。

「……おかえり」

 自然と、わたしの口からはそんな言葉があふれていた。
 そう言っていいのかわからなかったけれど、でも今、すごくそれを言いたいと思った。

「おかえり、青司くん」

 振り返り、あらためて言う。
 青司くんはとても驚いた顔をしていた。でも、しばらくするとまたにっこりと優しく微笑んでくれる。

「うん、ただいま。真白」
「青司くんにまた会えて嬉しいよ。帰ってきてくれて、ありがとう」
「……うん」
「今日はご馳走様。じゃあまた明日ね!」
「あ……待って、これ持っていってよ。おばさんたちに」

 青司くんは一旦キッチンに戻ると残っていたケーキをラップで包み、適当な袋に入れてわたしに持たせてくれた。

 ギイ、と勢いよく扉を開ける。
 外に出ると青司くんも後ろから一緒に出てきて、戸口で見送ってくれた。
 なんだか恥ずかしい。青司くんの視線が後ろにずっとあるなんて、とてもドキドキする。

 見上げると、もうすっかり空が夜の色に覆われていた。
 川沿いの桜や洋館の周囲の木々は、黒い影になっている。
 川のせせらぎの音を聞きながら橋を渡り終えると、わたしの幼馴染はまだ洋館の前に立っていた。

 もう二度と見ることはないと思っていた人が――そこにいる。

「ああ……」

 わたしは感極まって、あわてて家の中へ駆けこんだ。
 奇跡だ。奇跡が、起きている。

 二度とあの人を失いたくはない。

 わたしは自宅の玄関でじっと泣くのをこらえた。
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