恋し、挑みし、闘へ乙女

米原湖子

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第二章 ひとときの家出

1.

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 四月十一日、午前四時。辺りはまだ薄暗い。
 洗面を終えた乙女は窓を開け、明け方の真新しい空気を深く吸い込んだ。

「よし!」

 大きく頷くと窓を閉め、クローゼットから、準備していた小豆あずき色の着物と葡萄染えびぞめ色のはかまを取り出す。そして、それを素早く身に付け、髪をハーフアップに結い、後頭部に袴と同色の大きなリボンを留めた。

「靴は……やっぱり動きやすい方がいいかなぁ?」

 独り言ちると草履を横目に黒の編み上げブーツを履く。
 ここまでにかかった時間は約十分。計画どおりだった。

 家人……と言っても、今日は勘の鋭い萬月も家出を阻むミミもいない。
 在宅なのは一葉と、運転手兼執事の足立菊衛門あだちきくえもんと、シェフ兼メイド頭の駒江駒子こまえこまこだけ。三人の起床は午前五時と決まっている。六時に乙女を起こしに来るまで二時間ある。それだけあれば遠くに逃げおおせる――と乙女は目論んでいた。

 身支度を整えた乙女は早々にトランクを抱え、忍び足で屋敷を抜け出した。
 万が一のことを考えて表門は使わない。昔、兄たちと見つけた秘密の抜け穴(塀の壊れたところ)に向かう。場所は事前に確認済みだ。
 乙女はそこまで来るとぺたんと座り込み、雑草に覆われた塀の下部を手で掻き分ける。すぐに歪な形の穴が現われた。穴の向こうは燐家との間にできた狭い路地。滅多に人は通らないが、乙女はまず穴から外を覗き見る。

「右良し! 左良し!」

 誰もいないのを確認すると、乙女は「よいしょ」とトランクを押し出した。そして、もう一度左右を見てから、今度は自分が這い出す。

「脱出成功!」

 路地を抜け、公道に出た瞬間、乙女は『やったー』と叫びそうになった――が、『落ち着け』と自分に言い聞かせると何食わぬ顔で歩き出した。

「まずはポストへゴー!」

 書き上げた原稿を〝蒼い炎〟に送るためだ。
 手持ちのお金は少ないが、財布にはクレジットカードが入っている。

「原稿料を貰ったら、一週間ぐらいの家出なんて楽勝だわ」

 乙女は浮かれていた。だから気付かなかった。物陰からじっと見られていることを。

「そう言えば、うらら橋の脇に新しい甘味処ができたと、昨日のチラシに載っていたわね」

 甘味処巡りは、お金に細かい乙女の唯一贅沢な趣味だった。

「投函したら食べに行こうかしら?」

 我が身に危機が迫っているとも知らず、乙女は呑気にそんなことを考えていた。

「でも、こんなに早くお店が開いているかしら?」

 懐から丸い懐中時計を取り出すと、乙女はわずかに顔を曇らせた。
 桜小路家からうらら橋まで徒歩約三十分。船着き場近くなので往来が激しく賑やかな場所だが、流石に早朝すぎると思ったのだ。

「モーニングがあったらいいのだけど……。そうだわ、そのまま船に乗って隣町に行こうかしら? 桜の名所と言われている桜花おうかの桃源郷、あそこの薄紅桜うすべにさくらが見頃のはず」

 美しい薄桃色の風景を思い浮かべ、頬を緩めたその時――。

「なぁ、べっぴんさんのお嬢ちゃんよぉ」

 背中の方からダミ声が聞こえ、誰かが肩を掴んだ。
 予期せぬ出来事に対して瞬時に次の行動が取れなくなるのは、動物の中で人間だけだろう。現にこの時の乙女がそうだった。何が起こったのか分からず制止ボタンを押されたように不動で立ち尽くしていた。

「面白しれえ。固まっちまった」

 肩に乗った手が、つんつんと乙女の頬を突っつく。
 ここにきてようやく乙女は、ゆるゆると肩越しからその手の主に視線を向けた。

「あ貴方、誰?」

 見たこともない男だった。
 オフホワイトの中折れ帽に同色のスーツ姿。一見、勤め人にも見えるが、そこはかとなく堅気には無い雰囲気が漂っていた。

「俺のことはどうだっていい。それより嬢ちゃん、あんた、桜小路の乙女さんだろ?」

 男が確認するように質問する。
 どうして知っているのだろう、と乙女は気持ち悪く思いながらも口を一文字に結ぶ。そんな乙女を見ながら男は、「まっ、訊かなくても分かってるんだけどな」と唇の端を厭らしく上げた。
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