恋し、挑みし、闘へ乙女

米原湖子

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第二章 ひとときの家出

2.

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「あんたさぁ、来週、見合いするんだってな」

 唐突に放たれた言葉は乙女を吃驚きっきょうさせるに十分な威力があった。
 双眸そうぼうを見開いた乙女は恐怖心と共に薄気味悪さを覚える。だが、元来、探究心旺盛な彼女は、お見合いのことまで知っているこの男は誰、とおそれよりも好奇心の方が勝ってしまったようだ。

「もしそうだとして、それが貴方に何か関係があるの?」

 そう言い返したのだ。
 男はおとなしそうな乙女がまさか反抗するとは思ってもいなかったようだ。口をぽかんと開け、ひと時茫然自失となった。しかし、それは本当に一瞬だけだった。次の瞬間、さも可笑しそうにゲラゲラ笑い出した。

「すっげえ面白れえ。お嬢ちゃん、意外に骨があるんだな。気に入った。俺の女にしてやるよ。俺ってけっこうモテるんだぜ」

 肩に置いた手を首に回し、乙女を引き寄せる。

「けっ穢らわしい。その汚い手をお退けなさい!」

 ぞぞっと肌が粟立つのを感じて乙女が叫ぶ。

「やだね! お前さんみたいな気の強い女、俺、好きなんだよなぁ」

 男は放すどころか、益々腕に力を入れる。

「貴方なんかに好かれても迷惑なだけです!」

 反抗する乙女の脳裏に反省の二文字が過ぎる。
 ――こんなことなら護身術の授業をサボらず真面目に受けておくんだったと。だが、後悔先に立たず。絶体絶命の状況だった。

 万事休す? 乙女は白々と明けてきた東の空を涙目で見つめながら、こうなったらこの経験を小説にしたためてみようかしら、とプロットを考え始めた。

「おやおや?」

 すると、現実逃避していた意識の向こうから、ダミ声では無い美声が聞こえた。
 希望的観測な幻聴だと思った乙女だが、違った。滑舌の良い張りのあるテノールボイスに、乙女を拘束していた手がビクッと震えたのだ。

「確か君は……元チンピラの荒立龍弥あらだてりゅうや君じゃないかい?」

 現実に引き戻された乙女の視線がゆっくり声の方を向く――と同時に龍弥と呼ばれた男が、「うわっ!」と叫び、乙女を突き放した。

「うっ梅大路綾鷹うめおうじあやたか!」

 焦点の合った乙女の瞳に映し出されたのは、しらんできた空をバックに佇む一人の男性だった。

「その制服……」

 それは和之国の者なら誰もが知っている国家親衛隊のものだった。
 オフホワイトの制服に身を包んだ男性は、背が高く、凜々しいという言葉がぴったりな風貌をしていた。

「あれっ?」

 だが、よく見るとその顔に見覚えがあった――が、それは一方的に、という意味でだ。

「こんな早朝から逢い引かい? 私はやっと仕事が終わったというのに、羨ましいねぇ」

 軽口をたたいているが、その眼は全く笑っていない。

「あっ……はぁ……はい?」

 その眼に圧され龍弥は意味不明の言葉を返す。それを横目に、今がチャンスとばかりに乙女は声を張り上げて綾鷹の背に逃げ込んだ。

「後生ですから助けて下さい!」
「ふーん、助けてねぇ。逢い引きじゃないんだ」

 龍弥に視線を置いたまま、綾鷹の眉尻が片方上がる。

「ちっ違います。誤解っす。旦那、見逃して下さい。俺、今度キップを切られたら牢屋送りっす」

「そうなんだ。それはご愁傷様だね」と綾鷹がニッコリ笑う。しかし、それは明らかに作り笑いだった。

「仏の顔も三度まで、ということわざがあるけど……私に二度目は無いって知っているよね?」
「ちっ違います! 本当に誤解っす」

 龍弥が思いきり頭を振り、言い訳を始める。

「仕事なんです!」
「仕事?」
「そうっす。俺、今、探偵の助手をしていて、頼まれたんです」
「このお嬢さんをかどわかせ、とでも?」
「見張っておけって、で、様子を知らせろって」
「なのにどうして接触したんだい?」

「えっと、それは……」と、しどろもどろになりながら、龍弥が頬を赤く染める。

「突然、変なとこから出て来たかと思ったら、妙にウキウキしてて、目が離せなくなったっす。で、話し掛けちゃって」

 その時点で探偵失格だな、と乙女は思う。

「そしたら、意外にも向こうっ気が強くて、俺の胸がズキュンと」
「ほう、惚れたとでも言うのかい?」
「そっ、そうっす! 一目惚れっす」
「まぁ、嘘か真かは追求しないでおいてやろう。だが、無理矢理というのは頂けないね。君を拐かしの現行犯で捕らえることもできるんだよ」
「本当にすみません。ごめんなさい。勘弁して下さい」

 龍弥は壊れた首振り人形のように何度も頭を下げる。
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