妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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障害編

54話【off duty】戸野倉 凛太郎:「引き受けてくれませんか」(藍原編)

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 その夜、いつものように病院を出て駅へ向かおうとすると、敷地の出口あたりに、見知ったシルエットが見えた。長身で、頭の小さい細身の人影。

「凛太郎くん」

 声をかけると、凛太郎くんはパッと顔をあげて、ほっとしたような笑顔を浮かべた。

「香織さん。会えてよかった」
「どうしたの? 林さん、具合悪いの?」

 凛太郎くんがわざわざあたしに会いに来るなんて、林さんの件に決まってる。外来受診日はまだ先だけど、何か悪い知らせかしら……。
 凛太郎くんは、どこか思いつめたような顔をして、ためらいがちにいった。

「あの……ちょっと、お時間いただけますか? どこかで、食事でもしながら……」

 深刻な相談事かしら。あたしは二つ返事で了解して、近くの和食屋に入った。半個室みたいになった静かなお店だから、凛太郎くんも話しやすいだろう。

「どうぞ、好きなもの選んで。飲み物は? ビール?」
「あ……僕、未成年なんで……」

 そうだった!

「でも……ビール、お願いします」

 え。それはちょっと、どうなのかしら……と思いつつ、凛太郎くんの表情を見ていると、なんだかいたたまれなくなって、あたしはビールを2つ頼んだ。……アルコールが入らないと話せないような相談なのかしら。それとも、そもそも、飲まずにいられないような状態……?
 また以前よりちょっとだけ痩せたような凛太郎くんを見て、心配になる。料理が出てお箸を進めたところで、凛太郎くんが訥々と話しだした。

「先生は……いまだに、スランプに陥ってらっしゃいます」

 スランプ。そういえばこの前、死を意識したことで気持ちの変化が生じて、絵に悪影響が出ているといってたな……。

「今は……モデルは、凛太郎くんが?」

 凛太郎くんは静かに首を横に振った。

「膵臓のことがあってから、しばらくは僕がしていたんですが……いい作品にならないようで、今は、モデルも雇わずに、ひたすらキャンバスに独りで向かっておられます」
「それで、人物画が描けるものなの?」

 絵のことはよくわからなくて、尋ねてみた。すると凛太郎くんは、しばらくの沈黙の後、口を開いた。

「……林先生は、真っ白なキャンバスの横に……いつか描いた、香織さんの肖像画を並べて……作業を、しておられます」

 一瞬、意味がわからなかった。でも、凛太郎くんの苦し気なまなざしがまっすぐあたしに向けられていて、それであたしは、胸を掴まれるような痛みとともに、悟った。

「それは、つまり……」
「……林先生はいまだに、香織さんこそが、究極の美を秘めた人物だと考えていらっしゃいます。死を目前にして、最高傑作を残すには、香織さんしかおられない。ですが、ご本人をモデルにすることができないので、いつか描いた、あの、聖母のような香織さん……あの肖像画を見ながら、あなたの内なるエロスを思い起こそうと、苦しんでおられるのです」
「そんな……」

 凛太郎くんの切ない気持ちが伝わってくる。それと同時に、胸苦しさと、妙な罪悪感と、驚きと、いろんな感情がせめぎあって、凛太郎くんになんといえばいいのか、わからなくなった。

「いつか病室で香織さんが見せた姿。あれはまさに、官能の入り口でした。まだ入り口でしかないのに、林先生はあなたに、潜在的なエロスの確かな可能性を見出した。僕は今でも、忘れられません。いまだかつて、先生がモデルのことを、あんなに熱い目で見つめたことはありません。林先生は、痛みや死の恐怖と戦っている今でさえ、あの先の香織さんの姿を追い求めて苦しんでおられるのです……」

 息苦しい沈黙が流れる。凛太郎くんのいっていることはわかった。でも……それをあたしに相談されても、どうしようもない。あたしにできることなんて――

「香織さん。……やはり、引き受けてはくれませんか?」
「え……」

 引き受けるって、その――

「……も、モデルのことよね……? ただ立っているだけのモデルならまだしも、凛太郎くんがいっているのは、その……」

 言葉を濁すあたしを見て、凛太郎くんがうなずいた。

「香織さんの、官能の果て。あなたが病室での出来事以上に、感じ、恥じらい、身悶えたとき、そこにどんな美が生まれるのか。……死期の近い林先生のために、協力していただけませんか」

 とんでもない相談なのに、凛太郎くんの目はいたって真剣だ。愛する林さんのためにできることは何か考えて、彼なりに至った結論なんだとは思う。でも……さすがに、その頼みは……。

「……ごめんなさい。それは、どうしても……」

 ものすごい罪悪感を感じながら、お断りする。いくらドエロのあたしでも、そこまでは、無理だわ。他人に見られながら、その絵を描かれるとわかっていながら、感じたり喘いだりするなんて。

「そうですか……」

 凛太郎くんが、そのまま影になって消えてしまうかと思うくらいがっくりと落ち込んでいるのがわかった。見ていられなくて、視線を泳がせながらぬるくなったビールを飲む。

「凛太郎くん。林さんを想う気持ちはわかるけど、あたし、あなたが心配だわ。そんなに入れ込んだら、その……林さんがいなくなったときに、あなた、どうなってしまうのか……。辛いとは思うけど、現実を受け入れて、心の準備をしておくことも大切よ?」

 余計なお世話だとは思うけど、これ以上、林さんに引きずられてほしくない。人の命は、消えたらそれでおしまいだけど、遺された人たちは……残りの人生を、生きていかなきゃいけない。だから、ひとつの命が消えようとするとき、あたしたち医療者は、その命と、それを取り巻く人たちの人生を、一緒に考える必要がある。大切な人がいなくなる恐怖や喪失感は、言葉にできないほどの重みがあるんだ。
 凛太郎くんが、はかなげに笑った。

「心の準備、ですか……。僕は僕なりに、考えているつもりですよ、香織さん……」

 苦しそうな、決意を秘めたような目で、凛太郎くんがあたしを見つめた。その視線に鬼気迫るものを感じて、妙な胸騒ぎを覚えた。でも、そのことを聞こうとしたとき、ふいに、視界がぼやけてめまいがしてきた。

「香織さん……どうしても、あなたの協力が必要なんです……」

 強い意志を持った凛太郎くんの声が、耳に入る。そしてその声が急激に遠ざかっていって、瞼が鉛のように重くなる。

「凛……太郎、くん……?」

 何かおかしいと思ったときには、もう話すのも難しくなっていた。じっとして動かない凛太郎くんの前で、あたしは意識を失った。
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