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九尾の狐~千里~(6-1)
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千里が寝床から起き出したのは、日付が変わる真夜中だった。襖の向こうからは、衛人の静かな寝息が聞こえている。呼吸を聞く限り、眠りは深そうだ。
千里は音を立てないように、浴衣に裸足のまま、抜き足、差し足、忍び足で、玄関を出る。靴を履かずに、そうっと玄関のカギを開け、扉を開け、外に出た。
「あ――……」
外灯のない、真夜中の庭に出て気付いた。今夜は新月だろうか。夜空には満天の星空が広がっているものの、月がない。足下は暗く、ひどく視界が悪かった。千里の目は母譲りで、暗がりでもよく見える猫目だったが、それであっても今夜は暗い。千里は目を凝らして、周辺を見回した。
新月だなんて……、ツイてないな。
だが、そんなことでおろおろしてはいられない。千里は意を決して、颯爽と駆け出し、敷地を出ると、九尾狐神社を目指して山道へ入っていった。
山道といっても、そこはほとんど獣道のようなもので、周囲には背の高さまでクマザサが生い茂っている。登山道よりも、さらに狭いこの道を通るのは獣と妖以外にはまず、いないだろう。普通の人間なら、夜間、この道を通るなんて、まさに死を覚悟するようなものだ。
この辺りの山にはクマが出るし、これだけ足下が暗いと、わずかでも足を踏み外せば、急な崖へ転がり落ちてしまう危険もある。だが、千里の目と足があれば、この程度の山道はわけなく登れた。見た目にはほとんど人間と変わりなくても、やはり千里は半妖。身体能力は特に、人間のレベルを大きく超えている。それに、この時間に出歩くのには、山道のほうが俄然、都合がいいのだ。
千里は一気に山を駆け上がり、軽々と崖を登り、沢を越えていく。舗装された道路を走っていってもいいのだが、夜間、このスピードで移動していると、車の事故に遭いやすい。もっとも、千里は母のように猫の姿にはなれないわけだが、それでも、自分の走るスピードが人間離れしていることは確かだと自覚がある。加えて、山道はカーブが多いので余計だ。母が事故死したこともあり、千里は夜間に移動するときには、なるべく舗装された道路を避けていた。
父さん。母さん……。ずっと情けない息子でごめんね……。でも、これから僕はもっと強くなります。衛人さんのために――。
九尾の狐だろうと、妖狐だろうと、千里は今夜、立ち向かわなければならない。そうして、認めてもらわなければ、衛人の家にはじきに棲めなくなるだろう。衛人が許しても、九尾の狐はきっと、自分の縄張りを侵す、よそ者を許さないはずだ。
だから、今夜だけ。どうかお守りください……!
***
父を亡くしてからというもの、千里は母とふたり、必死に支え合って生きてきた。母は、父と出会って恋をしてから、すぐに千里を身籠ったというが、三人で過ごした幸せな時間はほんの数年。父は千里がやっと物心がついた頃、重い病に罹り、若くして亡くなってしまった。
母は未亡人となり、女手一つで千里を育ててくれたが、その暮らしは楽ではなかった。父は元々、立派な家柄の生まれだったようだが、母との結婚を許されず、生家から勘当されていたので、遺産はほとんどなく、結婚してからコツコツと貯めていてくれたお金が、それなりに手元にあるだけだったのだ。
母は父の遺してくれた少ない遺産を持ち、一緒に暮らした思い出の借家を出て、幼い千里を連れ、東京郊外を目指した。そうして、人けの少ない、山間の住み込みで働けるペンションを見つけて、そこで世話になりながら、千里を育ててくれた。やがて、千里が働ける年齢になると、千里も母と一緒にそのペンションで働くようになったのだが、千里は妖力のコントロールができず、問題をよく起こすので、できる仕事はとても少なかった。
千里の仕事といえば、みんなが寝静まった夜のうちにやらなければならない仕込みや掃除。施設の点検。そんなもので、収入はとても少なかった。友だちもできず、当然、学校にも行けないばかりか、母以外の人間とは、長時間接してもいられない。
それでも、千里はその暮らしが気に入っていた。友だちがいなくても、ペンションの周りには自然が溢れていたし、動物たちに出会うこともよくあって、寂しさはさほど感じなかった。晴れた日には広い庭を散歩し、雨の日には、間借りしている部屋の中で、庭の植物や、虫や鳥、ときどき現れる野生の動物たちを絵に描いて過ごした。
決して裕福ではない暮らし。それでも、楽しかった。ただ、自分が社会から置いてきぼりにされているはみ出し者で、厄介な存在だという感覚は少なからずあって、本来なら、年老いていく母を自分が支えなければならないと思うのに、いつまでも頼りにするばかりで、千里はそんな自分をいつも責めながら、罪悪感を抱えてもいた。
僕はずっと……、なんの役にも立たなくて……、ずっと母さんに頼ってばかりの、情けない存在だった。
しかし、数年前。頼りにしていた母も亡くなった。猫の姿で夜間、外へ出た際に、途中で車にはねられたのだろう。母はペンション付近の道路脇の茂みで、猫の姿のまま倒れ、息絶えていたのだ。
妖である母の亡骸は、ひと晩で跡形もなく消えてしまい、ペンションのオーナーやスタッフは、誰もが忽然と姿を消した母の身を案じていた。だが、その事情を、千里が彼らに話せるはずもない。やがて、千里は居場所を失い、一番動きやすい浴衣を着て、数枚の下着を入れた風呂敷包みを持ち、長く暮らしたペンションを去った。
それからは、なんとかひとりで生きる術を探した。役立たずで、無能な半妖でも、幸いなことに職さえ選ばなければ、仕事はあった。ひどく生きづらい人間社会にも、はみ出し者を許容しようとする優しい受け皿は存在していたわけだ。しかし、誰に拾われても、妖力が影響して、すぐにうまくいかなくなる。やがては騒動を起こしてしまい、千里は結局、どこへ行っても居場所が見つからず、転々と住まいを移りながら、その日暮らしをするしかなかった。
そんな矢先。もう、この世の中にも、自分自身にも嫌気が差し始めていたときに、千里はあの家を見つけた。そして、衛人と出会ったのだった。
千里は音を立てないように、浴衣に裸足のまま、抜き足、差し足、忍び足で、玄関を出る。靴を履かずに、そうっと玄関のカギを開け、扉を開け、外に出た。
「あ――……」
外灯のない、真夜中の庭に出て気付いた。今夜は新月だろうか。夜空には満天の星空が広がっているものの、月がない。足下は暗く、ひどく視界が悪かった。千里の目は母譲りで、暗がりでもよく見える猫目だったが、それであっても今夜は暗い。千里は目を凝らして、周辺を見回した。
新月だなんて……、ツイてないな。
だが、そんなことでおろおろしてはいられない。千里は意を決して、颯爽と駆け出し、敷地を出ると、九尾狐神社を目指して山道へ入っていった。
山道といっても、そこはほとんど獣道のようなもので、周囲には背の高さまでクマザサが生い茂っている。登山道よりも、さらに狭いこの道を通るのは獣と妖以外にはまず、いないだろう。普通の人間なら、夜間、この道を通るなんて、まさに死を覚悟するようなものだ。
この辺りの山にはクマが出るし、これだけ足下が暗いと、わずかでも足を踏み外せば、急な崖へ転がり落ちてしまう危険もある。だが、千里の目と足があれば、この程度の山道はわけなく登れた。見た目にはほとんど人間と変わりなくても、やはり千里は半妖。身体能力は特に、人間のレベルを大きく超えている。それに、この時間に出歩くのには、山道のほうが俄然、都合がいいのだ。
千里は一気に山を駆け上がり、軽々と崖を登り、沢を越えていく。舗装された道路を走っていってもいいのだが、夜間、このスピードで移動していると、車の事故に遭いやすい。もっとも、千里は母のように猫の姿にはなれないわけだが、それでも、自分の走るスピードが人間離れしていることは確かだと自覚がある。加えて、山道はカーブが多いので余計だ。母が事故死したこともあり、千里は夜間に移動するときには、なるべく舗装された道路を避けていた。
父さん。母さん……。ずっと情けない息子でごめんね……。でも、これから僕はもっと強くなります。衛人さんのために――。
九尾の狐だろうと、妖狐だろうと、千里は今夜、立ち向かわなければならない。そうして、認めてもらわなければ、衛人の家にはじきに棲めなくなるだろう。衛人が許しても、九尾の狐はきっと、自分の縄張りを侵す、よそ者を許さないはずだ。
だから、今夜だけ。どうかお守りください……!
***
父を亡くしてからというもの、千里は母とふたり、必死に支え合って生きてきた。母は、父と出会って恋をしてから、すぐに千里を身籠ったというが、三人で過ごした幸せな時間はほんの数年。父は千里がやっと物心がついた頃、重い病に罹り、若くして亡くなってしまった。
母は未亡人となり、女手一つで千里を育ててくれたが、その暮らしは楽ではなかった。父は元々、立派な家柄の生まれだったようだが、母との結婚を許されず、生家から勘当されていたので、遺産はほとんどなく、結婚してからコツコツと貯めていてくれたお金が、それなりに手元にあるだけだったのだ。
母は父の遺してくれた少ない遺産を持ち、一緒に暮らした思い出の借家を出て、幼い千里を連れ、東京郊外を目指した。そうして、人けの少ない、山間の住み込みで働けるペンションを見つけて、そこで世話になりながら、千里を育ててくれた。やがて、千里が働ける年齢になると、千里も母と一緒にそのペンションで働くようになったのだが、千里は妖力のコントロールができず、問題をよく起こすので、できる仕事はとても少なかった。
千里の仕事といえば、みんなが寝静まった夜のうちにやらなければならない仕込みや掃除。施設の点検。そんなもので、収入はとても少なかった。友だちもできず、当然、学校にも行けないばかりか、母以外の人間とは、長時間接してもいられない。
それでも、千里はその暮らしが気に入っていた。友だちがいなくても、ペンションの周りには自然が溢れていたし、動物たちに出会うこともよくあって、寂しさはさほど感じなかった。晴れた日には広い庭を散歩し、雨の日には、間借りしている部屋の中で、庭の植物や、虫や鳥、ときどき現れる野生の動物たちを絵に描いて過ごした。
決して裕福ではない暮らし。それでも、楽しかった。ただ、自分が社会から置いてきぼりにされているはみ出し者で、厄介な存在だという感覚は少なからずあって、本来なら、年老いていく母を自分が支えなければならないと思うのに、いつまでも頼りにするばかりで、千里はそんな自分をいつも責めながら、罪悪感を抱えてもいた。
僕はずっと……、なんの役にも立たなくて……、ずっと母さんに頼ってばかりの、情けない存在だった。
しかし、数年前。頼りにしていた母も亡くなった。猫の姿で夜間、外へ出た際に、途中で車にはねられたのだろう。母はペンション付近の道路脇の茂みで、猫の姿のまま倒れ、息絶えていたのだ。
妖である母の亡骸は、ひと晩で跡形もなく消えてしまい、ペンションのオーナーやスタッフは、誰もが忽然と姿を消した母の身を案じていた。だが、その事情を、千里が彼らに話せるはずもない。やがて、千里は居場所を失い、一番動きやすい浴衣を着て、数枚の下着を入れた風呂敷包みを持ち、長く暮らしたペンションを去った。
それからは、なんとかひとりで生きる術を探した。役立たずで、無能な半妖でも、幸いなことに職さえ選ばなければ、仕事はあった。ひどく生きづらい人間社会にも、はみ出し者を許容しようとする優しい受け皿は存在していたわけだ。しかし、誰に拾われても、妖力が影響して、すぐにうまくいかなくなる。やがては騒動を起こしてしまい、千里は結局、どこへ行っても居場所が見つからず、転々と住まいを移りながら、その日暮らしをするしかなかった。
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