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2章・チト
友だちのために・3
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「でも、モエくんは剣道の話するとき、悲しそうな顔するし、あんまり話したくなさそうですけど……」
事実だが、これは少し嫌味に聞こえるかもしれない。そう危ぶみながらも言い返すと、吉川は穏やかな表情のまま、かぶりを振った。どうやら吉川には、絶対的な確信と余裕があるようだった。
「剣道を避けてるってことが、もう答えだよ。それだけあいつが苦しんで思い詰めてるってことはさ、アイツにとって剣道はまだ終わった話じゃないってことじゃないかな。それだけまだ大事だってことだと思う」
「そうなんでしょうか……」
たしかに、吉川の言うことも一理あるかもしれない。だが、チトにはそうは思えなかった。モエの中で、剣道への情熱はもう消えてしまっている。そんな気がしてならない。単純にショックだったから目を向けられなくなっているとか、つらいものから逃げているとか、そういうことではなく、完全に糸が切れてしまっているように思うのだ。
――でも、もう無理だったんだよ。気力がないっつーか、剣道のこと考えるとつらくて、潰れちゃいそうだったから。
気力がない。モエはそう話していた。チトはアキレス腱のケガのことを話すモエの表情を思い出し、改めて思う。外部がなにを言って説得しても、きっとモエはそれに影響されることはない。もし、彼がもう一度剣道をやりたいと思うことがあれば、それはきっと自分から再び、剣道に興味を持ったときだ。
モエくんは剣道を辞めるって決めるまで、すごく苦しかったんだ。だから、もう……。
誰かに言われて戻るようなら、とうに戻っている。そう思った時、鐘が鳴った。六時限目を報せる鐘だ。
「チト、そういうわけだから。モエのヤツはたぶん、ひよってるだけだからさ。背中、押してやって」
「で、でも……」
「頼む! じゃあな」
そう言って、チトの肩を叩き、吉川は去っていってしまった。チトは吉川のたくましい背中を見送りながら、ため息を吐き、席へ戻る。胸の奥では、ズキズキとした痛みがあった。
――チトはまだモエと会ったばっかりだから、わかんないと思うけど。
「わかることだって、あるし……」
そう言い返すように、ひとり言を呟く。しかし、チトとモエは、吉川の言う通り。まだ出会ってひと月ほどで、関係は浅い。おそらく互いに、まだよく知らないことも多いだろう。特にチトは、モエが剣道部に所属していたときのことは、まったくと言っていいほど知らなかった。モエが毎日部活ノートをつけていたなんてことはおろか、それとはべつに剣道ノートを作って、自主的に分析や研究を続けていたことも知らなかった。
先月、チトが植物日記の提案をしたとき、彼は「毎日書くのが苦手だ」と言っていたはずだが、あれも嘘だったのだろうか。まだ心は剣道にあるのに、植物の日記を書くのなんて面倒くさい、とでも思っていたのだろうか。チトはぎゅっと拳を握る。
わからない……。モエくんが、本当はなにを思ってたかなんて、僕にはわからない……。でも、モエくんはいつだって、嘘なんか吐いてなかった気がする。
不思議と、チトにはその自信だけはあるのだ。モエは嘘を言わない。たぶん、チトを欺くようなことはしない。彼の言葉に裏はない。そうチトは信じている。
だが、吉川が言ったように、チトはまだモエと知り合って間もないこともまた事実だ。吉川のほうが、モエと長くつるんでいる分、彼を理解していることもあるのかもしれない。そして、万が一。剣道への情熱が、モエにまだあるのだとして、今、園芸や植物に逃げているだけなのだとしたら。チトは吉川の言う通り、彼の目を覚ませてやらなければならないかもしれない。
あとで話してみよう……。
モエは今、植物の世界に興味を持ってくれている。それは逃げなんかじゃない。そう心の中で、もうひとりの自分が必死に訴えている。けれど、モエの気持ちを改めて確かめたいとも思った。モエが、本当はまだ剣道にわずかでも未練があるのなら、チトは友だちとして、彼の背中を押すべきなのかもしれない、と。ただし――。
モエくんが九州遠征に行っちゃったら……、おじさんちには、一緒に行けないな……。
***
その日の放課後。チトはいつも通り、モエを中庭で待った。長袖のTシャツとジャージに着替え、校舎のほうにちらちらと目をやる。両手の手指を何度も握り合わせ、小さくため息を吐く。今日は木陰にいても汗ばむほどの気候なのに、やけに緊張していた。
「チトくん、お待たせ!」
モエは息を切らして駆けてきて、中庭のベンチに荷物を置くと、そこでジャージとTシャツに着替えた。毎日恒例の、モエの生着替えシーンにはまだ慣れなくて、チトはパッと目を背ける。
「き、今日は……、すみれの種取りをしようと思うんだ」
「へぇ。ここ、すみれなんて生えてたんだ?」
「もう、葉っぱだけになっちゃってるけど……。えっと、5種類くらい、あるかな……」
「5種類? すげえ、すみれってそんな種類あるの?」
「うん……。自生種だと、60種類くらいある」
「すげえ、そんなにあんの……!」
モエはいつもと同じように、陽気な声で、チトの話に感心するように、言葉を返してくれる。この時間がチトは大好きで、とても大切だった。毎日、毎日。モエとふたりで過ごす、この時間を楽しみに学校へ来ているようなものだった。だが、ここで剣道の話題に出して、さらに「剣道部に戻れば?」なんて言ったら、すべて壊れてしまう気がする。
事実だが、これは少し嫌味に聞こえるかもしれない。そう危ぶみながらも言い返すと、吉川は穏やかな表情のまま、かぶりを振った。どうやら吉川には、絶対的な確信と余裕があるようだった。
「剣道を避けてるってことが、もう答えだよ。それだけあいつが苦しんで思い詰めてるってことはさ、アイツにとって剣道はまだ終わった話じゃないってことじゃないかな。それだけまだ大事だってことだと思う」
「そうなんでしょうか……」
たしかに、吉川の言うことも一理あるかもしれない。だが、チトにはそうは思えなかった。モエの中で、剣道への情熱はもう消えてしまっている。そんな気がしてならない。単純にショックだったから目を向けられなくなっているとか、つらいものから逃げているとか、そういうことではなく、完全に糸が切れてしまっているように思うのだ。
――でも、もう無理だったんだよ。気力がないっつーか、剣道のこと考えるとつらくて、潰れちゃいそうだったから。
気力がない。モエはそう話していた。チトはアキレス腱のケガのことを話すモエの表情を思い出し、改めて思う。外部がなにを言って説得しても、きっとモエはそれに影響されることはない。もし、彼がもう一度剣道をやりたいと思うことがあれば、それはきっと自分から再び、剣道に興味を持ったときだ。
モエくんは剣道を辞めるって決めるまで、すごく苦しかったんだ。だから、もう……。
誰かに言われて戻るようなら、とうに戻っている。そう思った時、鐘が鳴った。六時限目を報せる鐘だ。
「チト、そういうわけだから。モエのヤツはたぶん、ひよってるだけだからさ。背中、押してやって」
「で、でも……」
「頼む! じゃあな」
そう言って、チトの肩を叩き、吉川は去っていってしまった。チトは吉川のたくましい背中を見送りながら、ため息を吐き、席へ戻る。胸の奥では、ズキズキとした痛みがあった。
――チトはまだモエと会ったばっかりだから、わかんないと思うけど。
「わかることだって、あるし……」
そう言い返すように、ひとり言を呟く。しかし、チトとモエは、吉川の言う通り。まだ出会ってひと月ほどで、関係は浅い。おそらく互いに、まだよく知らないことも多いだろう。特にチトは、モエが剣道部に所属していたときのことは、まったくと言っていいほど知らなかった。モエが毎日部活ノートをつけていたなんてことはおろか、それとはべつに剣道ノートを作って、自主的に分析や研究を続けていたことも知らなかった。
先月、チトが植物日記の提案をしたとき、彼は「毎日書くのが苦手だ」と言っていたはずだが、あれも嘘だったのだろうか。まだ心は剣道にあるのに、植物の日記を書くのなんて面倒くさい、とでも思っていたのだろうか。チトはぎゅっと拳を握る。
わからない……。モエくんが、本当はなにを思ってたかなんて、僕にはわからない……。でも、モエくんはいつだって、嘘なんか吐いてなかった気がする。
不思議と、チトにはその自信だけはあるのだ。モエは嘘を言わない。たぶん、チトを欺くようなことはしない。彼の言葉に裏はない。そうチトは信じている。
だが、吉川が言ったように、チトはまだモエと知り合って間もないこともまた事実だ。吉川のほうが、モエと長くつるんでいる分、彼を理解していることもあるのかもしれない。そして、万が一。剣道への情熱が、モエにまだあるのだとして、今、園芸や植物に逃げているだけなのだとしたら。チトは吉川の言う通り、彼の目を覚ませてやらなければならないかもしれない。
あとで話してみよう……。
モエは今、植物の世界に興味を持ってくれている。それは逃げなんかじゃない。そう心の中で、もうひとりの自分が必死に訴えている。けれど、モエの気持ちを改めて確かめたいとも思った。モエが、本当はまだ剣道にわずかでも未練があるのなら、チトは友だちとして、彼の背中を押すべきなのかもしれない、と。ただし――。
モエくんが九州遠征に行っちゃったら……、おじさんちには、一緒に行けないな……。
***
その日の放課後。チトはいつも通り、モエを中庭で待った。長袖のTシャツとジャージに着替え、校舎のほうにちらちらと目をやる。両手の手指を何度も握り合わせ、小さくため息を吐く。今日は木陰にいても汗ばむほどの気候なのに、やけに緊張していた。
「チトくん、お待たせ!」
モエは息を切らして駆けてきて、中庭のベンチに荷物を置くと、そこでジャージとTシャツに着替えた。毎日恒例の、モエの生着替えシーンにはまだ慣れなくて、チトはパッと目を背ける。
「き、今日は……、すみれの種取りをしようと思うんだ」
「へぇ。ここ、すみれなんて生えてたんだ?」
「もう、葉っぱだけになっちゃってるけど……。えっと、5種類くらい、あるかな……」
「5種類? すげえ、すみれってそんな種類あるの?」
「うん……。自生種だと、60種類くらいある」
「すげえ、そんなにあんの……!」
モエはいつもと同じように、陽気な声で、チトの話に感心するように、言葉を返してくれる。この時間がチトは大好きで、とても大切だった。毎日、毎日。モエとふたりで過ごす、この時間を楽しみに学校へ来ているようなものだった。だが、ここで剣道の話題に出して、さらに「剣道部に戻れば?」なんて言ったら、すべて壊れてしまう気がする。
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