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3章・恋するモエ
チトへの想い・3
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「おーい、モエ!」
吉川の声が、外灯の乏しい中庭に響いたのは、それから30分ほど経った頃のことだ。モエはチトと出会うきっかけになった、例のベンチに座り、背もたれにぐったりと体を預けていたが、吉川の声がした途端に苛立ちを覚え、スイッチが入ったかのように立ち上がった。
「モエ、お待たせ。なんだよ、どうした?」
「なんだよ、じゃないんだよ。吉川……、お前、チトくんに変なこと吹き込んだだろ」
モエはそう言って吉川を睨んだが、吉川は「なんのことやら」とでも言うように、きょとんとした顔で小首を傾げている。だが、すでにネタは上がっているのだ。
「しらばっくれんなよ。チトくんに剣道のノートのこととか、勝手にしゃべったんだろ」
「あぁ、うん……。そのことか。すごいな、チト。もうモエに話してくれたんだ!」
吉川があまりに能天気な口調で返すので、モエは呆れ、眉を上げた。同時に、やはりチトがあんなことを突然言い出したのは、吉川が関係していたのだとわかり、余計に苛立った。
「あのさ、吉川。俺はもう剣道部を辞めたんだよ。今さらになって戻るとかないし、そんな覚悟で辞めてないから」
モエがそう言うと、吉川は何度か頷いた。その反応はまるで、モエの心情はすでにわかっているとでも言うかのようだ。
「まぁ……、そうだよな。お前はきっとそう言うと思ってたけどさ。オレにとっても、これは最後の悪あがきだったんだ。お前を取り戻せる最後のチャンスだったから」
「はあ……?」
「それに、チトに言われたら、お前のガンコ頭もどうにかなるんじゃないかと思ってさ」
吉川がにっと歯を見せる。まったくいい迷惑だ。吉川の下手な策のせいで、モエは危うくチトとケンカしかけたというのに。
「チトくんを巻き込むなよ。チトくん、俺がまだ剣道に未練あるんじゃないかって、変な勘違いしてんだぞ。俺はそんなこと、ひと言も言ってないのに」
「悪い。それはオレが言った」
悪いと言いつつ、絶対に悪いとは思っていなさそうな吉川は、にこやかな笑顔で頭を掻いている。もっとも予想通りではあった。モエはうんざりして、吉川を睨みつける。
「お前さぁ、ほんとカンベンしてよ……」
「オレだって悔しかったんだよ。あんなに剣道バカだったお前が、辞めてほんのひと月でチトと仲良くなって、毎日毎日、楽しそうに花いじってんの見かけてたらさ。そんなに簡単に心変わりしちゃうのかよって……。あんなに悩んでたのに、もう剣道のことも、オレらのことも忘れちゃったのかよって……」
「心変わりって……。まぁ、そうか……。心変わりといえば、そうだな」
言われて、モエは納得する。チトに出会うまで、モエは無気力でありながら、それでもまだ、剣道のことが心の奥に引っかかっていた。剣道部の稽古中の声を聞くのも、校内で剣道部員の吉川や結城と鉢合わせるのも嫌で、避けていた。学校へ行くのが億劫だったのも、ほとんど剣道のせいだった。しかし、今は違う。モエは変わった。剣道部員たちと顔を合わせるのも抵抗がなくなったし、なにより、学校へ来るのが楽しくなったのだ。しかし吉川は、そんなモエが戻ってくるのを密かに期待し、待ち続けてくれていたようだった。
「モエ、剣道部に帰ってこいよ。これで本当に最後になるんだぞ。もう、二度と一緒に戦えないんだぞ」
「いや、わかってるけど……」
「本当にこれでいいのかよ、お前は」
それまでにこやかだった吉川の表情が変わる。彼の目は真剣そのものだ。暗い中庭の、心許ない外灯の下でも、彼の眼差しが真っすぐ、こちらに向けられているのがわかる。モエは頷いた。
「そうだよな、ごめん……。ほんとなら、俺はこの前のインハイ予選だって、応援しに行ったってよかったんだよな……。俺、ダサくってさ。そういうの、できなかった」
「そんなのどうだっていいんだよ。オレは、お前に応援に来てほしくなんかない。一緒に、もう一度戦いたいんだ」
吉川の思いが胸に深く突き刺さってくるようで、モエは思わず拳をぎゅっと握る。彼の言葉が、ものすごく嬉しかった。もう以前のような技を出せず、パッとしない結果しか残せなくなったというのに、剣道部の主将がもう一度自分と一緒に戦いたいと言ってくれるなんて、あまりに光栄なことだ。
「ありがとう。すげえ嬉しい……」
そう返した瞬間。吉川の瞳が、外灯の下でわずかに煌めいた。だが、モエは戻れない。モエの心はもう、違う方を向いているからだ。
「だけど、ごめん。申し訳ないけど、やっぱり俺はもう剣道部には戻れない。剣道の情熱みたいなもんが、もう俺にはないんだよ。長いこと必死に悩んで悩んで……、疲弊して、自分ができる限界までやりきっちゃったんだ。お前がいつも話を聞いてくれたおかげで決断できたことだよ。未練もない」
モエの言葉に、たった今、きらめいたばかりの吉川の瞳が、ひどく悲しげに伏せられた。彼の表情には申し訳なさも感じてしまうが、そうはいっても、モエはその期待には応えられそうもない。
「本気か……? じゃあ……、チトと一緒に園芸部でもやるのか。もう3年なのに」
「うーん……。そうだなぁ。それもちょっと考えてるけど……」
「お前が花にハマるなんて……。オレはまだ信じられないよ」
吉川がため息混じりに言う。さすが、長年一緒にいただけあって、彼はモエのことをよくわかっている。彼の勘は間違ってはいない。ただ、完璧に当たっている――というわけでもないが。
「俺がハマってんのは、そっちじゃないんだよ」
「そっちじゃない……って、どういう意味……?」
モエの言葉に、吉川が眉をしかめる。彼になら、話してもいいかもしれない。今、モエが一番大切にしているもの。モエの心の中を一番多く占めている気持ち。ちょっとイレギュラーなそれを話しても、彼なら受け入れてくれるような気がして、モエは心の内を吉川に打ち明けることにした。もちろん、他言厳禁、という制約付きで。
「嘘だろ……。お前が……?」
チトへの想い。それを話せば、吉川が目をまん丸くする。驚かれるのは想定内だ。モエは頷く。そうして「言いふらすなよ」と釘を刺すと、吉川はすぐに「……言わないよ」と返したあと、モエの背中を思いっきり叩いた。
吉川の声が、外灯の乏しい中庭に響いたのは、それから30分ほど経った頃のことだ。モエはチトと出会うきっかけになった、例のベンチに座り、背もたれにぐったりと体を預けていたが、吉川の声がした途端に苛立ちを覚え、スイッチが入ったかのように立ち上がった。
「モエ、お待たせ。なんだよ、どうした?」
「なんだよ、じゃないんだよ。吉川……、お前、チトくんに変なこと吹き込んだだろ」
モエはそう言って吉川を睨んだが、吉川は「なんのことやら」とでも言うように、きょとんとした顔で小首を傾げている。だが、すでにネタは上がっているのだ。
「しらばっくれんなよ。チトくんに剣道のノートのこととか、勝手にしゃべったんだろ」
「あぁ、うん……。そのことか。すごいな、チト。もうモエに話してくれたんだ!」
吉川があまりに能天気な口調で返すので、モエは呆れ、眉を上げた。同時に、やはりチトがあんなことを突然言い出したのは、吉川が関係していたのだとわかり、余計に苛立った。
「あのさ、吉川。俺はもう剣道部を辞めたんだよ。今さらになって戻るとかないし、そんな覚悟で辞めてないから」
モエがそう言うと、吉川は何度か頷いた。その反応はまるで、モエの心情はすでにわかっているとでも言うかのようだ。
「まぁ……、そうだよな。お前はきっとそう言うと思ってたけどさ。オレにとっても、これは最後の悪あがきだったんだ。お前を取り戻せる最後のチャンスだったから」
「はあ……?」
「それに、チトに言われたら、お前のガンコ頭もどうにかなるんじゃないかと思ってさ」
吉川がにっと歯を見せる。まったくいい迷惑だ。吉川の下手な策のせいで、モエは危うくチトとケンカしかけたというのに。
「チトくんを巻き込むなよ。チトくん、俺がまだ剣道に未練あるんじゃないかって、変な勘違いしてんだぞ。俺はそんなこと、ひと言も言ってないのに」
「悪い。それはオレが言った」
悪いと言いつつ、絶対に悪いとは思っていなさそうな吉川は、にこやかな笑顔で頭を掻いている。もっとも予想通りではあった。モエはうんざりして、吉川を睨みつける。
「お前さぁ、ほんとカンベンしてよ……」
「オレだって悔しかったんだよ。あんなに剣道バカだったお前が、辞めてほんのひと月でチトと仲良くなって、毎日毎日、楽しそうに花いじってんの見かけてたらさ。そんなに簡単に心変わりしちゃうのかよって……。あんなに悩んでたのに、もう剣道のことも、オレらのことも忘れちゃったのかよって……」
「心変わりって……。まぁ、そうか……。心変わりといえば、そうだな」
言われて、モエは納得する。チトに出会うまで、モエは無気力でありながら、それでもまだ、剣道のことが心の奥に引っかかっていた。剣道部の稽古中の声を聞くのも、校内で剣道部員の吉川や結城と鉢合わせるのも嫌で、避けていた。学校へ行くのが億劫だったのも、ほとんど剣道のせいだった。しかし、今は違う。モエは変わった。剣道部員たちと顔を合わせるのも抵抗がなくなったし、なにより、学校へ来るのが楽しくなったのだ。しかし吉川は、そんなモエが戻ってくるのを密かに期待し、待ち続けてくれていたようだった。
「モエ、剣道部に帰ってこいよ。これで本当に最後になるんだぞ。もう、二度と一緒に戦えないんだぞ」
「いや、わかってるけど……」
「本当にこれでいいのかよ、お前は」
それまでにこやかだった吉川の表情が変わる。彼の目は真剣そのものだ。暗い中庭の、心許ない外灯の下でも、彼の眼差しが真っすぐ、こちらに向けられているのがわかる。モエは頷いた。
「そうだよな、ごめん……。ほんとなら、俺はこの前のインハイ予選だって、応援しに行ったってよかったんだよな……。俺、ダサくってさ。そういうの、できなかった」
「そんなのどうだっていいんだよ。オレは、お前に応援に来てほしくなんかない。一緒に、もう一度戦いたいんだ」
吉川の思いが胸に深く突き刺さってくるようで、モエは思わず拳をぎゅっと握る。彼の言葉が、ものすごく嬉しかった。もう以前のような技を出せず、パッとしない結果しか残せなくなったというのに、剣道部の主将がもう一度自分と一緒に戦いたいと言ってくれるなんて、あまりに光栄なことだ。
「ありがとう。すげえ嬉しい……」
そう返した瞬間。吉川の瞳が、外灯の下でわずかに煌めいた。だが、モエは戻れない。モエの心はもう、違う方を向いているからだ。
「だけど、ごめん。申し訳ないけど、やっぱり俺はもう剣道部には戻れない。剣道の情熱みたいなもんが、もう俺にはないんだよ。長いこと必死に悩んで悩んで……、疲弊して、自分ができる限界までやりきっちゃったんだ。お前がいつも話を聞いてくれたおかげで決断できたことだよ。未練もない」
モエの言葉に、たった今、きらめいたばかりの吉川の瞳が、ひどく悲しげに伏せられた。彼の表情には申し訳なさも感じてしまうが、そうはいっても、モエはその期待には応えられそうもない。
「本気か……? じゃあ……、チトと一緒に園芸部でもやるのか。もう3年なのに」
「うーん……。そうだなぁ。それもちょっと考えてるけど……」
「お前が花にハマるなんて……。オレはまだ信じられないよ」
吉川がため息混じりに言う。さすが、長年一緒にいただけあって、彼はモエのことをよくわかっている。彼の勘は間違ってはいない。ただ、完璧に当たっている――というわけでもないが。
「俺がハマってんのは、そっちじゃないんだよ」
「そっちじゃない……って、どういう意味……?」
モエの言葉に、吉川が眉をしかめる。彼になら、話してもいいかもしれない。今、モエが一番大切にしているもの。モエの心の中を一番多く占めている気持ち。ちょっとイレギュラーなそれを話しても、彼なら受け入れてくれるような気がして、モエは心の内を吉川に打ち明けることにした。もちろん、他言厳禁、という制約付きで。
「嘘だろ……。お前が……?」
チトへの想い。それを話せば、吉川が目をまん丸くする。驚かれるのは想定内だ。モエは頷く。そうして「言いふらすなよ」と釘を刺すと、吉川はすぐに「……言わないよ」と返したあと、モエの背中を思いっきり叩いた。
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