【完結】君と風のリズム

いなば海羽丸

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従順な暴れ馬(4-6)

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 どうしよう、どうしよう……。なんにも思い出せない……。

 頭の中は真っ白だ。だが、ここで大失敗をするわけにはいかない。ライルさんとハーヴィーからの信頼を失ってしまわないために、どうにか上手くやらなければ。その重圧と不安が襲いかかり、体中からは冷や汗が噴き出していた。

「オリバー、どうした? きゃくを入れて。馬を出すんだ」

 きゃく……。

 ライルさんの声がかすかに聞こえる。だが、足が動かない。まるで、体と心がそれぞれ別人のものになってしまったかのようだった。

『人間の緊張状態は、馬に自然と伝わるものだ。乗るときはリラックスして、王様になったような気持ちで乗ること。でないと、馬まで緊張して、突然走り出したりするからね』

 かつて、乗馬の体験授業で習ったときの記憶だろうか。もう顔もほとんど覚えていない講師の教えが、不意に脳内に浮かんだ。僕は焦りを感じながら、グッと目をつぶる。こんなにも緊張した状態で馬に乗っていることが、本来ならどれほど危険か。そんなことばかり考えてしまう。しかし、その時だった。

 ――オリバー、大丈夫だよ。

 不意に、ハーヴィーの声が聞こえた。柔らかな口調と声に、僕はハッとした。

「ハーヴィー……」

 思わず、彼の本当の名前を呼んだ。するとまた、頭の中にハーヴィーの声が響く。

 ――絶対に大丈夫。ぼくを信じて。なにもかも、うまくいくから。

「でも……、僕……」

 ――大丈夫。目をつぶって。

 言われるまま、僕は目をつぶる。

 ――そのまま、ぼくの体にさわって。

 やはり言われるまま、僕は手綱たづなを握っていた右手を放し、そっとハーヴィーの首にれた。手の平から彼の体温が伝わってくる。その温かさには、どこか硬直していた体や心臓がほぐれていくような感覚を覚えた。

 あぁ、あったかい……。

 冷や汗で、指の先まで冷たくなっていたというのに、手の平はどんどん温まっていく。その熱が体中に届いて、やがて胸の奥までじんわりと熱くなった。呼吸が落ち着いてきて、そのリズムは次第にハーヴィーの呼吸の音と重なった。

 ――目を開けて。

 また、ハーヴィーの声がした。彼にいざなわれるように、僕はぱち、と目を開ける。とても不思議だった。自分でも驚くほど、今、僕は落ち着きを取り戻している。さっきまで感じていた不安定さは微塵みじんにもない。ただし、馬術についての記憶や知識を思い出せたわけではなく、かといって前に馬に乗ったときの感覚を思い出したわけでもない。それでも、確信があった。ハーヴィーとなら、僕は心を通わせることができる。ひとつになれる。大丈夫だ――と。

 そうだ……。ただ、指示をするとか、動かすってだけじゃない。僕は今、ハーヴィーと、ひとつなんだから。

 ――オリバー、僕を信じて。

「オリバー……! きゃく!」

 しびれを切らしたライルさんの声が響く。僕はその声を合図に、ハーヴィーにささやいた。

「よし、行こう……!」

 その瞬間。ハーヴィーは常歩なみあしで歩き出す。非常に安定した歩様ほようで、速すぎず、遅すぎず。理想的なスピードだ。

「おっ、いい感じだ。もう少し、そのまま!」

 ライルさんの指示が聞こえる。僕は手綱たづなを握り、ハーヴィーの呼吸に集中した。

 すごい……。昔、体験授業で乗ったときと大違いだ……。

 信じられなかった。僕は今、ハーヴィーに乗って歩くことで、異常なまでの一体感を感じていたのだ。さっきまたがったときは、ちゃんとくらがあるにもかかわらず、とても不安定な場所にただ乗っかっているだけのような、ひどく心許こころもとない感覚があったのに。それなのに、今は違う。なにか、とても強いもので繋がれているように、僕はハーヴィーとひとつになっている。

速歩はやあしを出せるか!」

 ライルさんの指示が再び聞こえる。僕はそのイメージを頭の中にしっかりと浮かべ、静かにハーヴィーの名を呼んだ。

 ハーヴィー、速歩はやあしだ。いいかい、少し速く、リズムよく歩くんだよ。

 すると、ハーヴィーは軽快に速歩はやあしを出す。

「よし……! よし、いいぞ、オリバー! 今度は自分の指示で、スノーケルピーを動かしてごらん」
「自分の指示……」
「怖くなったらひじを引いて。体重を少し後ろに倒せば、馬は止まる。困ったら止めて、動くときはきゃくだ。彼は君に従うはずだよ」

 ライルさんが声をはずませて言う。過去、数回体験した授業では、馬に指示を与える際にはきゃくを使えと教えられた。それはつまり、あぶみめている足を、軽く蹴るような感覚で、馬の体に当てるというものである。だが、僕はそれをしなかった。そんなことは必要ないと理解したからだ。

 ハーヴィーと僕の意識は今、ひとつになっていて、互いの体温や呼吸と一緒に、思考までも深く感じることができる。だから、イメージをしたら、あとは声をかけるだけでよかった。ハーヴィーにはそれだけで、僕の意思が通じるのだから。

 そのあと、僕はしばらくの間、ハーヴィーと絶えず心を交換するように、意思の疎通そつうを繰り返し、常歩なみあし速歩はやあしを繰り返しおこない、馬場の中を歩き続けた。ライルさんが「ストップ!」と声をかけるまで、どれくらいの時間がっていたのかはわからない。だが、気が付けば、いつの間にか周囲にはギャラリーが集まっていて、馬場の外から身を乗り出し、僕とハーヴィーを見守っていた。
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