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5.好きな人
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その額に張り付いた赤髪を震える指先でそっと避けただけで、グレンさんが獣のように喉を鳴らして肩を跳ねさせる。
「! は、ッやめろミミ、何を……クソ、……ぁ、さわ、るな……ッ」
酷く重たげに腕を持ち上げ、緩慢な動きで私の指を払いのけた彼の手は、火傷してしまいそうなくらいに熱を帯びていて。それが飛び火したように、緊張に冷えていた指先に血が通い始める。
「……ごめんなさい、グレンさん。でももう、時間がないの……どうか少しの間だけ、耐えてください」
「……! ミミッ」
ソファに半ば身体を横たえた彼に、覆いかぶさるように乗り上げれば、ギシ、と生々しい音が響く。まるで現実のこととは思えなかった。私の影が落ちた眼下のグレンさんは、こちらの本気を悟ったのか息を呑み、夜行性の獣のように爛々と輝く瞳を見開いている。
ギリ、と歯を食いしばる音が聞こえて、薬に侵されていても理性を保とうとするその姿が労しく思えた。……彼にこの上ない苦痛を与えているのは私なのに、なんて身勝手なんだろう。
「防音の魔法を張りましたから、誰も来ません。……どうか諦めて、できるだけすぐ終わらせますから」
言葉尻が震えてしまったのは、そんな風に言い切れる技量も経験も本当はあるはずがないからだ。
彼の精神的苦痛を思えば、私が準備不足でどれほど辛い思いをしようと大した問題ではないけれど、少なくともすぐにと言えるほど上手く進められる自信はない。
けれどそれを悟られたくはなくて、私は誤魔化すように汗が伝い落ちる彼の首筋をつつ、と指先で撫でた。途端に彼の肌がぞわりと粟立って、触れたところから熱が広がっていくのがこちらにも分かるほどで。大袈裟なほどに彼の身体が跳ねて、押し出されるように掠れた声が漏れる。
「ぅ、……っは、ッやめ、ろ、……!」
咄嗟に逸らされた彼の瞳が屈辱と羞恥の色を宿して、グチャグチャな感情の煮詰まった澱が胸の奥から溢れ出るような感覚がした。
愛しくて、大好きな人。私のことが嫌いなくせに、大嫌いなくせに、最後の最後まで優しくしようとしてくれた、憎い人。
せめて彼にとって苦痛な時間を短くしてあげたいのも嘘じゃないのに、……これきりのことなのだから、ずっとずっと忘れられないくらい、彼に私を刻みつけてやりたいのも本心だった。
残念ながら薬を使ってさえ、よくしてあげられるような手管はないけれど──例えば、とびきり痛がってみせたのなら。身勝手にも泣き叫んでみせたのなら、優しい優しい彼の心に、深い傷として私を刻んでくれるだろうか。
逸る思いのまま、まるで子が親の袖を引くような拙い手つきで、私は彼のシャツのボタンに手を掛けた。我ながら色のない仕草だけれど、同意がない時点でそんなのは詮無いことだ。
そうしてゆっくりと露わになっていく鍛え上げられた筋肉質な身体は汗ばんでいて、彼の匂いがいつもよりずっと強くて、くらりと思考が鈍る。
導かれるようにそっと彼の胸に掌を乗せれば、しっとりと吸い付いた肌は比喩ではなく火傷してしまいそうなほどに熱を持っていて、場違いにも心配になってしまった。
同時に酷く早い心音が伝わってきて、確かめるようにそっと掌で撫で下ろせば、硬い腹筋がぎくぎくと波打つと同時、獣のような呻き声が耳に届く。
それに驚いて手を浮かせるのと、彼が耐えかねたように身を捩ったのは同時のことだった。
「~~~ッッ ふーッ、ふーッ、は、あ、ッ」
視線を少し上向ければ、顔を背けた彼の美しい紅玉の瞳は硬く閉ざされ、余程身体に力を入れているのか額には血管が浮き出ていた。
耳の先まで赤く染まり、玉のような汗をその肌に浮かべながら肩で荒く呼吸をする彼の常では考えられない様相にばくばくと鼓動が逸ると同時、シエラの腕は絶対だと知っていながら、薬が効きすぎたのかと身勝手にも不安になってしまう。……止めるわけにはいかないけれど、水を飲ませた方がいいかもしれない。
水差しを取ろうと身体を浮かせ掛けたとき、噛み締められた彼の唇に血が滲んでいるのに気がついて、私は慌てて手の行き先を変えた。私の指なら噛まれてどれほど血が出たって構わないけれど、彼の身体に傷が付くのは許容できない。咎めるように触れれば、震える唇が開かれて、赤い舌が隙間から覗く。
痛みを覚悟してそこに指を差し入れれば、予想に反して火傷しそうに熱い舌が甘えるように絡みついてきて、想定外の感覚に思わず指を引っ込めて身体を跳ねさせた。
「ひ、ゃ……っ」
おまけに上擦った妙な声まで漏れてしまって、私は咄嗟に反対の手で口を塞いだ。羞恥に顔に熱が上って、思わず心の中で自分を罵る。きっとたまたま舌が絡れただけだ。薬を盛って無理やり襲ってきた、大嫌いな女の妙な声なんて、彼も聞きたくはないだろうに。
さぞかし嫌悪に塗れた顔をしているに違いないとそろりと彼の顔を窺って、……思わず息を呑んだ。
「……、は……ミミ、」
どろり、と。ぐずぐずに煮詰めた砂糖みたいな声で、彼は私のことを呼んで、ギラギラと肉食獣みたいに輝く瞳孔が開いた目で、こちらを射抜いていて。その視線の奥に燻る何かに、ぞわりと背筋が粟立った。
無理矢理こんなことをしているのは私の方のはずなのに、彼は薬でまともに動くことさえできないのに──今にも頭から食べられてしまいそうだなんて、どうしてそんな馬鹿なことを考えてしまうのだろう。
本能的な恐怖の成り損ないのようなその感覚は、けれど何故だか背筋が痺れるような昂りを齎して、私はふらりと彼の熱を帯びた肌に唇を寄せた。
「グレンさん……」
微かに震えた、頼りない声で彼を呼んで、ちゅ、と子供みたいな音を立てながら彼の首筋に口付ければ、がくりと大袈裟な程に彼の身体が跳ねる。
表情は伺えないけれど、ギリ、ときつく歯を食いしばる音が聞こえて、反応があることが嬉しかった私は必死になってそれを繰り返した。
「ッ……うぁ、はッ、──クソッ、ミミ、」
獣のような低い唸り声を漏らして身体を震わせながらも、彼は私の名前を呼んで、やめろ、離れろ、と譫言のように繰り返す。最初に私の手を弱々しく振り払ったきり、彼の大きな手は縋るようにソファの背もたれや自身のシャツを掴んでいて、それが私の心に影を落とした。
薬で力が入らないのもそうなのだろうけれど、何よりもきっと、咄嗟に大嫌いな私の身体に縋ったり、触れたりすることが嫌なのだろう。理性を飛ばしてしまった方が楽だろうと強い薬を選んだのに、彼はこんな時にも辛抱強くて、……そんなところまで、やっぱり好きで。
どうしようもなくむしゃくしゃした思いが湧き上がって、私は押し当てるだけだった唇を開くと、彼の汗ばむ首筋に甘く歯を立てた。
「────……ッ!?」
一際大きく跳ねた身体を半ば縋りつくようにして押し留めて、ちゅう、と吸い付いて、好き勝手にまた歯を立てる。その度震える彼の身体にも構わず柔く、強くとそれを繰り返していたら、小さな歯型が残ってしまって、私は慰撫するようにその痕に舌を這わせた。
熱くて塩辛い、とぼんやり思うのと同時に、がしりと肩が大きな手に掴まれて、ぐわんと勢いよく動いた視界が残像を描いて揺れる。
「ッ、グレン、さ、」
ソファの上、お互い半身だけを起こして向かい合っている体勢になって、そうなれば随分上に来てしまう彼の顔を瞬きながら見上げて──私は思わず目を見開いた。
大きな、獣がいると思った。
普段は丁寧に整えられた赤髪は乱れ、肩で荒い息を繰り返すその逞しい身体は熱を持って汗ばみ、歯型の残る首筋やシャツから覗く隆起した腹筋に、つ、と汗が伝っていく。乱れた前髪の隙間から覗く、普段よりも色濃い紅は、……瞳孔が開いているばかりか、焦点さえもがぶれていて。
噛み締められて微かに血の滲んだ唇から、フー、という荒々しい呼吸音が漏れ出していて、私は思わず息を詰めた。彼は薬や毒への耐性が高いのは知っていたけれど、本調子とは程遠いとはいえ、まさかこんなに早く動けるようになってしまうだなんて。
……けれどこの様子なら、まだ間違いなく薬もよく効いているはず。このまま理性を飛ばして、相手が誰かも分からなくなったグレンさんがことを進めてくれるというのなら、そんなにありがたいこともない。
どれだけ痛くたって乱暴に扱われたって、彼から触れてくれたのなら、それはどれ程に幸せだろう。
けれど私の願いに反して、私の肩を鷲掴む彼の手はそれ以上動くことはなく、ただ堪えるように震えるばかりで。これほどに薬が効いていて、その瞳に浮かぶ欲を隠すことすらもできなくなっているはずなのに。
もどかしい想いが募り、何か促すような言葉を口にしようとして──けれど実際に私の口から零れ落ちたのは、短い悲鳴だった。
「熱っ……!」
「……!!」
その声に目を見開いた彼の手が、弾かれたように離れていく。未だヒリヒリとする肩に驚いて目を向ければ、そこには微かに焦げ跡が残っていた。……そして、グレンさんの火炎の魔力の痕跡も。一先ず癒しの魔法を巡らせながら、そろりとグレンさんの様子を伺う。力が入らないからと、魔法で抵抗した……訳では、きっとないのだろう。
グレンさんの火炎の魔法は攻撃特化で、戦闘時にはとても頼りになるけれど、人を傷付けないような応用は苦手なのだと話してくれたのは旅の中でのことだ。最初から抵抗しようと思えばそれこそ私を黒焦げにできただろうけれど、優しい彼にそんなことはできないだろうと知っていて、私はこの作戦を決行したのだから。
薬で気が昂って、制御しきれない魔力が漏れてしまったんだとしたら、彼の理性を押し崩すまでもう一押しかもしれない。丸焦げにされてしまっては困るけれど、多少の火傷くらいなら何てことない。
この機に乗じようと、促すように彼の手を取ろうとして──けれど、彼がくしゃりと顔を歪めたことで、浮かせかけた手は止まってしまった。
……それはずっと彼のことを目で追い続けていた私でも、見たことがない表情で。まるで、何よりも大切に仕舞い込んでいた宝物に、自分で傷を付けてしまったような──
彼は荒い呼吸を繰り返し、血の滲んだ唇を再び噛みしめて。それでも欲に流されることなく顔を背けたその声は、弱々しく、まるで祈るようだった。
「ックソ、頼むから、離れてくれ……ミミ、俺は、──……俺は、あんたを、傷付けたくないんだ……!」
「──……」
その悲痛な響きに、喉の奥で息が詰まるような感覚がした。……グレンさんがずっと、頑なに私に触れないようにしていたのは、大嫌いな私に縋りたくないからだと、思っていた。だから、薬に侵食された理性さえ押し崩してしまえばいいと。
けれど──まさか彼は屈辱を受けている間も、ずっと、こんなことを仕出かした最低な私のことを、心配してくれていたのだろうか。抑えきれない魔力で傷付けてしまうことがないように、その手を理性で押さえつけて、ただ耐え忍んでいたのだろうか。
嫌いなくせに。私のことなんて大嫌いなくせに、……こんなことをされてまで。
けれど思い返せば、旅の中でもその後でも、彼はずっと自分のことなんて二の次で、私のことを気遣ってくれていた。
最初からとっくに落ちていたのに、彼がそんな風に甘やかすから、私はぐずぐずに溺れて、困ったら真っ先に彼の元へ行くようなどうしようもない人間になってしまって。
挙句にこんなことを仕出かすまでに堕ちてしまったのに、……どうやったって彼だけが、ずっと綺麗なまま。横に並び立つことを夢見ていたはずだったのに、ただ私の醜さが、彼の隣に相応しくないという事実だけが、もがけばもがくほど浮き彫りになるばかりで。
本当に、グレンさんのことが好きで、……愛していて、側にいたくて。それだけのはずだったのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。
「……あ、」
「……ミミ?」
紅玉のような瞳が、ゆっくりと見開かれる。ほろ、と一粒頬を伝った雫は、一度決壊してしまえばもう止まらなかった。ぼろぼろと溢れる涙に、慌てて乱暴に腕で拭っても、上擦った嗚咽が漏れ出すばかりで全然止まってはくれない。
薬を盛って襲った挙句に泣き出して、最初から地に落ちている彼の中での印象は一体どこまで底抜けているのか、もう想像もしたくなかった。……それなのに彼は突き飛ばすでもなく、やっぱり酷く熱い指先で、戸惑ったように涙を拭ってくれるから。
私は結局、彼に甘え縋ることを止められないでいるのだ。
涙を拭ってくれていた手を取ってそっと擦り寄れば、驚いたようにその手が震える。構わずに、私は目を閉じると嗚咽混じりに懇願した。
「……ひ、っく、……ねえグレンさん、おねがい、このまま……私がんばりますから、っだから、……あなたしかいないの、」
愚図るような私の声に、彼は一層強く歯を食いしばって、苦悶の表情を浮かべて。それでも手を伸ばすことはしない代わりに、まるで血を吐くような声で呻いた。
「──……ッ、クソ、頭がおかしくなりそうだ……何であんたは、そこまで……ッ」
ここ数日で泣き過ぎて酸素が行き渡っていないのか、靄が掛かったようにぼんやりし始めた頭で独り言のような彼の言葉の意味を咀嚼する。何でって、そんなの──……
ぼやけた視界の中でも、その炎のように鮮烈な色だけが鮮明に映る。美しいそれを見つめていたら、自然と言葉が溢れ出していた。
「……好きな、ひとが、いるから」
「! は、ッやめろミミ、何を……クソ、……ぁ、さわ、るな……ッ」
酷く重たげに腕を持ち上げ、緩慢な動きで私の指を払いのけた彼の手は、火傷してしまいそうなくらいに熱を帯びていて。それが飛び火したように、緊張に冷えていた指先に血が通い始める。
「……ごめんなさい、グレンさん。でももう、時間がないの……どうか少しの間だけ、耐えてください」
「……! ミミッ」
ソファに半ば身体を横たえた彼に、覆いかぶさるように乗り上げれば、ギシ、と生々しい音が響く。まるで現実のこととは思えなかった。私の影が落ちた眼下のグレンさんは、こちらの本気を悟ったのか息を呑み、夜行性の獣のように爛々と輝く瞳を見開いている。
ギリ、と歯を食いしばる音が聞こえて、薬に侵されていても理性を保とうとするその姿が労しく思えた。……彼にこの上ない苦痛を与えているのは私なのに、なんて身勝手なんだろう。
「防音の魔法を張りましたから、誰も来ません。……どうか諦めて、できるだけすぐ終わらせますから」
言葉尻が震えてしまったのは、そんな風に言い切れる技量も経験も本当はあるはずがないからだ。
彼の精神的苦痛を思えば、私が準備不足でどれほど辛い思いをしようと大した問題ではないけれど、少なくともすぐにと言えるほど上手く進められる自信はない。
けれどそれを悟られたくはなくて、私は誤魔化すように汗が伝い落ちる彼の首筋をつつ、と指先で撫でた。途端に彼の肌がぞわりと粟立って、触れたところから熱が広がっていくのがこちらにも分かるほどで。大袈裟なほどに彼の身体が跳ねて、押し出されるように掠れた声が漏れる。
「ぅ、……っは、ッやめ、ろ、……!」
咄嗟に逸らされた彼の瞳が屈辱と羞恥の色を宿して、グチャグチャな感情の煮詰まった澱が胸の奥から溢れ出るような感覚がした。
愛しくて、大好きな人。私のことが嫌いなくせに、大嫌いなくせに、最後の最後まで優しくしようとしてくれた、憎い人。
せめて彼にとって苦痛な時間を短くしてあげたいのも嘘じゃないのに、……これきりのことなのだから、ずっとずっと忘れられないくらい、彼に私を刻みつけてやりたいのも本心だった。
残念ながら薬を使ってさえ、よくしてあげられるような手管はないけれど──例えば、とびきり痛がってみせたのなら。身勝手にも泣き叫んでみせたのなら、優しい優しい彼の心に、深い傷として私を刻んでくれるだろうか。
逸る思いのまま、まるで子が親の袖を引くような拙い手つきで、私は彼のシャツのボタンに手を掛けた。我ながら色のない仕草だけれど、同意がない時点でそんなのは詮無いことだ。
そうしてゆっくりと露わになっていく鍛え上げられた筋肉質な身体は汗ばんでいて、彼の匂いがいつもよりずっと強くて、くらりと思考が鈍る。
導かれるようにそっと彼の胸に掌を乗せれば、しっとりと吸い付いた肌は比喩ではなく火傷してしまいそうなほどに熱を持っていて、場違いにも心配になってしまった。
同時に酷く早い心音が伝わってきて、確かめるようにそっと掌で撫で下ろせば、硬い腹筋がぎくぎくと波打つと同時、獣のような呻き声が耳に届く。
それに驚いて手を浮かせるのと、彼が耐えかねたように身を捩ったのは同時のことだった。
「~~~ッッ ふーッ、ふーッ、は、あ、ッ」
視線を少し上向ければ、顔を背けた彼の美しい紅玉の瞳は硬く閉ざされ、余程身体に力を入れているのか額には血管が浮き出ていた。
耳の先まで赤く染まり、玉のような汗をその肌に浮かべながら肩で荒く呼吸をする彼の常では考えられない様相にばくばくと鼓動が逸ると同時、シエラの腕は絶対だと知っていながら、薬が効きすぎたのかと身勝手にも不安になってしまう。……止めるわけにはいかないけれど、水を飲ませた方がいいかもしれない。
水差しを取ろうと身体を浮かせ掛けたとき、噛み締められた彼の唇に血が滲んでいるのに気がついて、私は慌てて手の行き先を変えた。私の指なら噛まれてどれほど血が出たって構わないけれど、彼の身体に傷が付くのは許容できない。咎めるように触れれば、震える唇が開かれて、赤い舌が隙間から覗く。
痛みを覚悟してそこに指を差し入れれば、予想に反して火傷しそうに熱い舌が甘えるように絡みついてきて、想定外の感覚に思わず指を引っ込めて身体を跳ねさせた。
「ひ、ゃ……っ」
おまけに上擦った妙な声まで漏れてしまって、私は咄嗟に反対の手で口を塞いだ。羞恥に顔に熱が上って、思わず心の中で自分を罵る。きっとたまたま舌が絡れただけだ。薬を盛って無理やり襲ってきた、大嫌いな女の妙な声なんて、彼も聞きたくはないだろうに。
さぞかし嫌悪に塗れた顔をしているに違いないとそろりと彼の顔を窺って、……思わず息を呑んだ。
「……、は……ミミ、」
どろり、と。ぐずぐずに煮詰めた砂糖みたいな声で、彼は私のことを呼んで、ギラギラと肉食獣みたいに輝く瞳孔が開いた目で、こちらを射抜いていて。その視線の奥に燻る何かに、ぞわりと背筋が粟立った。
無理矢理こんなことをしているのは私の方のはずなのに、彼は薬でまともに動くことさえできないのに──今にも頭から食べられてしまいそうだなんて、どうしてそんな馬鹿なことを考えてしまうのだろう。
本能的な恐怖の成り損ないのようなその感覚は、けれど何故だか背筋が痺れるような昂りを齎して、私はふらりと彼の熱を帯びた肌に唇を寄せた。
「グレンさん……」
微かに震えた、頼りない声で彼を呼んで、ちゅ、と子供みたいな音を立てながら彼の首筋に口付ければ、がくりと大袈裟な程に彼の身体が跳ねる。
表情は伺えないけれど、ギリ、ときつく歯を食いしばる音が聞こえて、反応があることが嬉しかった私は必死になってそれを繰り返した。
「ッ……うぁ、はッ、──クソッ、ミミ、」
獣のような低い唸り声を漏らして身体を震わせながらも、彼は私の名前を呼んで、やめろ、離れろ、と譫言のように繰り返す。最初に私の手を弱々しく振り払ったきり、彼の大きな手は縋るようにソファの背もたれや自身のシャツを掴んでいて、それが私の心に影を落とした。
薬で力が入らないのもそうなのだろうけれど、何よりもきっと、咄嗟に大嫌いな私の身体に縋ったり、触れたりすることが嫌なのだろう。理性を飛ばしてしまった方が楽だろうと強い薬を選んだのに、彼はこんな時にも辛抱強くて、……そんなところまで、やっぱり好きで。
どうしようもなくむしゃくしゃした思いが湧き上がって、私は押し当てるだけだった唇を開くと、彼の汗ばむ首筋に甘く歯を立てた。
「────……ッ!?」
一際大きく跳ねた身体を半ば縋りつくようにして押し留めて、ちゅう、と吸い付いて、好き勝手にまた歯を立てる。その度震える彼の身体にも構わず柔く、強くとそれを繰り返していたら、小さな歯型が残ってしまって、私は慰撫するようにその痕に舌を這わせた。
熱くて塩辛い、とぼんやり思うのと同時に、がしりと肩が大きな手に掴まれて、ぐわんと勢いよく動いた視界が残像を描いて揺れる。
「ッ、グレン、さ、」
ソファの上、お互い半身だけを起こして向かい合っている体勢になって、そうなれば随分上に来てしまう彼の顔を瞬きながら見上げて──私は思わず目を見開いた。
大きな、獣がいると思った。
普段は丁寧に整えられた赤髪は乱れ、肩で荒い息を繰り返すその逞しい身体は熱を持って汗ばみ、歯型の残る首筋やシャツから覗く隆起した腹筋に、つ、と汗が伝っていく。乱れた前髪の隙間から覗く、普段よりも色濃い紅は、……瞳孔が開いているばかりか、焦点さえもがぶれていて。
噛み締められて微かに血の滲んだ唇から、フー、という荒々しい呼吸音が漏れ出していて、私は思わず息を詰めた。彼は薬や毒への耐性が高いのは知っていたけれど、本調子とは程遠いとはいえ、まさかこんなに早く動けるようになってしまうだなんて。
……けれどこの様子なら、まだ間違いなく薬もよく効いているはず。このまま理性を飛ばして、相手が誰かも分からなくなったグレンさんがことを進めてくれるというのなら、そんなにありがたいこともない。
どれだけ痛くたって乱暴に扱われたって、彼から触れてくれたのなら、それはどれ程に幸せだろう。
けれど私の願いに反して、私の肩を鷲掴む彼の手はそれ以上動くことはなく、ただ堪えるように震えるばかりで。これほどに薬が効いていて、その瞳に浮かぶ欲を隠すことすらもできなくなっているはずなのに。
もどかしい想いが募り、何か促すような言葉を口にしようとして──けれど実際に私の口から零れ落ちたのは、短い悲鳴だった。
「熱っ……!」
「……!!」
その声に目を見開いた彼の手が、弾かれたように離れていく。未だヒリヒリとする肩に驚いて目を向ければ、そこには微かに焦げ跡が残っていた。……そして、グレンさんの火炎の魔力の痕跡も。一先ず癒しの魔法を巡らせながら、そろりとグレンさんの様子を伺う。力が入らないからと、魔法で抵抗した……訳では、きっとないのだろう。
グレンさんの火炎の魔法は攻撃特化で、戦闘時にはとても頼りになるけれど、人を傷付けないような応用は苦手なのだと話してくれたのは旅の中でのことだ。最初から抵抗しようと思えばそれこそ私を黒焦げにできただろうけれど、優しい彼にそんなことはできないだろうと知っていて、私はこの作戦を決行したのだから。
薬で気が昂って、制御しきれない魔力が漏れてしまったんだとしたら、彼の理性を押し崩すまでもう一押しかもしれない。丸焦げにされてしまっては困るけれど、多少の火傷くらいなら何てことない。
この機に乗じようと、促すように彼の手を取ろうとして──けれど、彼がくしゃりと顔を歪めたことで、浮かせかけた手は止まってしまった。
……それはずっと彼のことを目で追い続けていた私でも、見たことがない表情で。まるで、何よりも大切に仕舞い込んでいた宝物に、自分で傷を付けてしまったような──
彼は荒い呼吸を繰り返し、血の滲んだ唇を再び噛みしめて。それでも欲に流されることなく顔を背けたその声は、弱々しく、まるで祈るようだった。
「ックソ、頼むから、離れてくれ……ミミ、俺は、──……俺は、あんたを、傷付けたくないんだ……!」
「──……」
その悲痛な響きに、喉の奥で息が詰まるような感覚がした。……グレンさんがずっと、頑なに私に触れないようにしていたのは、大嫌いな私に縋りたくないからだと、思っていた。だから、薬に侵食された理性さえ押し崩してしまえばいいと。
けれど──まさか彼は屈辱を受けている間も、ずっと、こんなことを仕出かした最低な私のことを、心配してくれていたのだろうか。抑えきれない魔力で傷付けてしまうことがないように、その手を理性で押さえつけて、ただ耐え忍んでいたのだろうか。
嫌いなくせに。私のことなんて大嫌いなくせに、……こんなことをされてまで。
けれど思い返せば、旅の中でもその後でも、彼はずっと自分のことなんて二の次で、私のことを気遣ってくれていた。
最初からとっくに落ちていたのに、彼がそんな風に甘やかすから、私はぐずぐずに溺れて、困ったら真っ先に彼の元へ行くようなどうしようもない人間になってしまって。
挙句にこんなことを仕出かすまでに堕ちてしまったのに、……どうやったって彼だけが、ずっと綺麗なまま。横に並び立つことを夢見ていたはずだったのに、ただ私の醜さが、彼の隣に相応しくないという事実だけが、もがけばもがくほど浮き彫りになるばかりで。
本当に、グレンさんのことが好きで、……愛していて、側にいたくて。それだけのはずだったのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。
「……あ、」
「……ミミ?」
紅玉のような瞳が、ゆっくりと見開かれる。ほろ、と一粒頬を伝った雫は、一度決壊してしまえばもう止まらなかった。ぼろぼろと溢れる涙に、慌てて乱暴に腕で拭っても、上擦った嗚咽が漏れ出すばかりで全然止まってはくれない。
薬を盛って襲った挙句に泣き出して、最初から地に落ちている彼の中での印象は一体どこまで底抜けているのか、もう想像もしたくなかった。……それなのに彼は突き飛ばすでもなく、やっぱり酷く熱い指先で、戸惑ったように涙を拭ってくれるから。
私は結局、彼に甘え縋ることを止められないでいるのだ。
涙を拭ってくれていた手を取ってそっと擦り寄れば、驚いたようにその手が震える。構わずに、私は目を閉じると嗚咽混じりに懇願した。
「……ひ、っく、……ねえグレンさん、おねがい、このまま……私がんばりますから、っだから、……あなたしかいないの、」
愚図るような私の声に、彼は一層強く歯を食いしばって、苦悶の表情を浮かべて。それでも手を伸ばすことはしない代わりに、まるで血を吐くような声で呻いた。
「──……ッ、クソ、頭がおかしくなりそうだ……何であんたは、そこまで……ッ」
ここ数日で泣き過ぎて酸素が行き渡っていないのか、靄が掛かったようにぼんやりし始めた頭で独り言のような彼の言葉の意味を咀嚼する。何でって、そんなの──……
ぼやけた視界の中でも、その炎のように鮮烈な色だけが鮮明に映る。美しいそれを見つめていたら、自然と言葉が溢れ出していた。
「……好きな、ひとが、いるから」
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※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
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