闇恋~悪魔たちの祝祭日~

オオカミ

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久遠への追憶

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 ………………それは、まだ私が無垢な人間だった頃の話だ。
 
 ――――――――――― 
 ――――――――
 ――――――      
 ――――
 ――
 ―
 
 ゆらり、ゆらり。
 夜の闇の中、微かに見える波影が、静かに、音を立てながら揺蕩たゆたっている。その音はとても魅惑的で、早くおいでと、私を誘っているかのようだ。
 思わず、裸になった足を波の上に乗せる。冷たくも暖かい感触が心地よい。それから、一歩、二歩、三歩。まるで引き寄せられるかのように、更なる深みへと足を踏み入れる。母なる海が私を包み、心も身体も、痛みから解き放たれてゆく……。
 
 この深淵が、いつだって私の心を癒してくれた。苦しいときも悲しい時も、この母なる海があるから、私は生きてゆくことができたのだ。そして今、私はこの暖かさと一つになる。
 いよいよ足もつかなくなり、喉元を息苦しさが襲う。でも、こんなものは大したことじゃない。生きてゆくことの苦しみや悲しみと比べれば、少しも。
 意識が薄れ、終わりの時がやってくる。
 
 ああ、これでようやく………………。

 死の喜びを噛みしめながら、母なる海へと還って消えた。

 
     *  *  *


「…………げほっ! かはっ、かはっ…………はっ、はっ、はっ……はっはっ…………」

 海水を口から吐き出しながら、最悪な呼吸と共に私は瞳を開いた。

「…………ふむ、目を覚ましたか…………」

 隣から、若しとも老いたりとも言えるような、矛盾した性質の声が聞こえてくる。

 …………どうして…………あの時……私は死ねたはずなのに…………。

 横たわっている私の身体は、重い湿りを纏っていて、背中には、黒色の外套がいとうと、柔らかい砂のベッドが敷かれていた。

「…………キミは、なぜ、あのようなことをしたのだい?」

 起き上がった私に、彼が訊ねる。私を諭そうとしていると言うよりは、”還ろう”としたことを、本当に疑問に思っている、そんな様子の声色だった。

「なぜって…………そんなの、死にたいからに決まっているでしょう?」

 私は、至極当たり前であるかのように答える。

「なぜだ? 本当にわからない。人間という、わずかな間しか生きることができない存在として生まれながら、なぜ、キミは、若くしてその命を絶とうとするのか」

 暗闇の中、彼は顔に手を添え黙り込む。

「…………生きるのが、辛いからよ。…………私は、誰からも必要とされず……いえ、それどころか、誰からも憎まれて生きてきた。私は、ただ人を助けたかっただけなのに…………。世の中の連中は、自分より弱いと思ったモノをしいたげて、歪んだ自己愛を満たそうとする。私は、その捌け口として、生け贄として、傷つけられ続けたのよ。………………人間なんて大嫌い。他の生き物たちの方がずっと賢いわ。ニンゲンは、言葉を使えるようになったからって、自分たちが一番偉いんだって勘違いしてる。でも、そんなの、ただの勘違いよ。……みんな、この世界の物質には、それぞれの役割がある。水も土も、花も蝶も、みんなそれぞれの智恵を持っているわ。誰にも真似できない、その子だけの智恵を…………。だから、私は還りたいの。そんな素晴らしい智恵を育んでくれる、この母なる世界うみへと…………」

 私は、彼に、自らの思いの丈を、精一杯に吐き出してしまっていた。吸い込まれそうなほど深く、独特なその声音が、私の心の内側を、引っ張り出してくれたのかもしれない。
 彼は私の話に対し、強い頷きを返してくれた。

「ふむ……そうか、そうか。…………いや、キミの言っていることは最もだよ。ニンゲンは、浅ましい姿をよくもまあ見せてくれるからな。私も、死ねるのなら、今すぐにでも死んでみたい、という気持ちになったぐらいだ」
「否定、しないの? 私の言葉を…………」

 彼の言葉を聞き、私の胸は驚きの鼓動に包まれる。なんと彼は、私の話を真剣に聞き、その内容に共感をも示してくれたのだ。

「否定? なぜ私が君の言葉を否定するのだ? 君の言っていることには、何ら間違っているところはないぞ? …………実のところ、私は君の心意気に感心したぐらいだ。まあ、そんな考え方じゃあ、人間たちに異端視されるのも無理ないとは思うが」

 うっ、痛いところを突かれた………………。

「わ、悪かったね。異端な思想を抱いている自覚ぐらいはあるわよ…………今は」
 
 少し彼を睨んだ後、目をらし、頬を膨らませて不満の意を示す。
 もっとも、ほとんど光のない、この闇景色の中では、私の表情など分かりはしないだろうが。

「む…………そう気を悪くするなよ。その異端がいいのだ。少なくとも、この私にとってはな」

 気が利くのか、彼は私の不機嫌にすぐ気づき、なだめるように言葉を送ってきた。

「………………それで、君はこれからどうする?」

 彼が私に問いかける。

「どうするも何も、あなたが立ち去った後に、同じことをするだけよ」

 そう、私の意志は変わらない。結局何があろうとも、この世界の人間が、退屈で陰惨であるという事実に、変わりはないのだから。

「ふむ、それは困ったなあ。そうなると、私は、君が諦めるまで、ここにいなければならなくなる」

 やはり、彼は私に自殺して欲しくないようだ。一度助けた以上、当然ではあるのだが。

「そんなことをしても無駄よ。…………だから諦めなさい。……私は、何があってもこの海に還る…………そう決めているから」

 静かに、それでいて力強く言葉を紡ぐ。もうこれ以上、彼が余計な同情を挟まないように。

「そうか、そうか。…………君の意志は尊重しよう。私には、君の決意を覆すことはできなさそうだ」

 意外にも、彼は食い下がることをせず、私の言葉を受け入れてくれた。

「そう、だったら早く――――――

 彼が言葉を遮り、さっきの私と同じぐらい強い口調で声を発した。

「だが、だが…………生憎あいにく、私も君と同じか、それ以上に強情な性質でね…………、一度助けた相手が、すぐさまその命を捨てるなどというのは、そう簡単に、と言うことはできないようなのだ」

 それは、先程までの鷹揚おうような態度とは打って変わったもので、驚きと同時に、少しだけ恐怖を感じもした。

「なによ。…………それじゃあ、私をどうしようっていうの?」

 揺れる心を悟られないよう、少し強気で言葉を返す。

「何って…………別にどうもしないさ。言った通り、君の意志は尊重するつもりだからな。…………しかし、まあ…………」

 彼は、少しの間言葉を詰まらせる。どう表現すればよいのか分からず、悩んでいるように見えた。

「まあ…………そうだな。…………どうだろうか? しばしの間、私にその命を預けるというのは」

 軽い調子で彼は問いかける。

「…………命を預けるって……どういうこと?」

 疑問を、全面に押し出して問い返す。

「うーむ…………」

 彼はまた言葉に詰まる。

「……………………つまりだな…………しばしの間、私と共に行動してみないかという……ことなのだ」

 渋りながらも、彼は最後まで言い切ってみせた。

「へ? ………………それって…………つまり告白?」

 そう答えると、彼はびっくりして背中け反らせた。

「ち、違うわい! ………………ま、まったく…………これだから小娘というものは………………」

 急におじさん? あるいはおじいさん? くさい口調になった。

「よ、良いかい? 今わたしが言ったことには、特に深い意味など込められていない。そのままの意味なんだ」

 今度は、子供を宥めるおじさんの口調になった。

「それで? なんで私が、あなたと行動を共にしなくちゃいけないのよ」

 また強気に問う。

「ぐむむむ、やはり強情だなあ…………。だがよし、理由を説明しよう」
「どうぞ」

 適当な音調で合いの手を入れる。

「うむ。…………実はなあ、私は、つい最近、ここらに越して来たばかりなのだ。ゆえに、当然独り身でな。他者との関わりというものをな、私は求めているのだ」
「ふーん。そのせいで、今日死にそびれてしまったわけね。ついてなかったわ」

 悪態は付ける。

「その通り! 今日わたしはついていた!」

 会話にはなっていない。

「それでどうだ? どうせ捨てる命なら、私の孤独を癒すために使ってみないか?」

 ずうずうしい。

「嫌よ。あなたの欲求を満たすために生きるなんて」

 裏切られた私が、いまさら誰かのために生きるなんて………………。

「そうだな。他者の欲望を満たすために生きるなんて、君としては嫌かもしれない。…………だが、だが…………これだけは約束しよう」

 左の胸がざわついている。こんなのおかしいのに………………。私はもう、この命を還すつもりでいたのに………………。

「私は、君が嫌がるようなことをしないし、仮にしてしまったとしたら、次からはそれをしないようにするつもりだ。……私は、君を、この世界に生まれたかけがえのない存在として、尊重し、対等に接する。………………だから、私と共に来てくれ。…………百年のお願いだ…………」

 彼が、私に向かって右手を差し出す。
 同時に、昇り始めた日の光が、彼の横顔を照らし、白くて美しい肌と、燃えるような赤い瞳が姿を現す。

「本当に、私のことを大切にしてくれるの…………?」

 彼は真っ直ぐに私を見つめ、強く首を振っててみせた。

「ああ、もちろんだ。それと、もう一つ約束しておきたいことがある」
「………………なに?」
「……私は、君を絶対に退屈させはしない。…………私と同伴している間、君には、愉しく時間を過ごしてほしいからな」

 彼は、にこりと無邪気な笑みを見せる。

「……………………そうね。確かに……あなたとなら、つまらない日常なんておさらばできるかもしれないわ」
 
 少しだけ口角を上げ、差し出された手の上に私の右手を重ねる。

「だってあなた、とっても変なんだもの。私がいなきゃ、すぐに死んでしまいそう」

 彼は、重ねた手を、優しく、それでいてしっかりとした力で握り込み、暖かい微笑みを返してくれた。

「ああ、私は変なのだ。だからそばにいて欲しい」

 銀色の長い髪が風に揺れ、妖しいほど美しいその姿に、胸が強く締め付けられる。

「ええ、あなたと共に…………。……少しの間だけどね」

 答えを告げて、彼の手をそっと握り返す。

「さあ、共に行こう。哀しみのない、鮮血ゆかいな世界へ」
 

 赤と藍の瞳が見つめあい、血と欲望にまみれた運命劇の幕が、この時、開かれたのであった。

 ―
 ――
 ――――
 ――――――
 ――――――――
 ――――――――――――

 夜が訪れ、光が閉ざされた棺の中、目を覚ます。
 とおい、とおい、過去の夢を見ていた。あの人が、私を救ってくれた時の思い出を。

 あの御方は、今頃どうなされているのだろうか……?

 私にはもう、彼が死んでいるのか、生きているのかすらも分からない。それでも、彼と過ごした甘い日々は、永遠に私の中で生き続けている。

「…………あの子にも、分けて与えてあげましょう。私達が育んできた、血と愛の快楽を………………」

 ベッドから出て、ふかふかのソファーに腰を下ろす。

「………………でも、でも、そのまえにぃ…………」

 恍惚に頬を緩ませ、机の上に置いてあった、空っぽのグラスをいじりながら呟く。

「あの子の…………あのこの血を~、…………ひとくちで、ひとくちでいいからぁ………………あぁ……、のんで、みたいわぁ………………」 
 

 時が満ち、闇に魅いられし者達の宴が、再び始まる。
 



 …………二人で、踊りましょう?
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