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第八章 ファランクス(ルーカス/ミランダルート)

85.バージンマーク

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「……アゲロス……様?」


 その女は、めくるめく快楽の末、楽園と言うには余りにも全てが白く、何もかもが消失した世界から、今、ようやく意識を取り戻したばかりの様だ。


「……っはぁ、はぁ、はぁ」


 どうやら呼吸すらも忘れていたのだろう。その意識はプロピュライアをくぐり、天界へと召されていたのかもしれない。

 彼女の若い肉体は、突然の意識の回復と共に、大量の酸素を欲しがって憚らない。


 ――コトッ ……ゴクッ


 アゲロスはベッド脇に置かれた水差しから、コップへと水を注ぎ入れた後、一気にそれを飲み干し、そして、再びテーブルへと置いた。


「なっ……何か……、お飲み物をお持ち致しましょうか?」


 いまだ、肩で息をしているヴァンナは、本来の自分の仕事を思い出した様に、アゲロスへと尋ねてみる。


「あぁ、良い良い……そのまま、横になっておれ」

「……酒はこのぐらいにしておこう。明日も議会へ赴かねばならん」


 ベッド脇に座るアゲロスの背中。

 それは、中年特有のぶ厚い脂肪に包まれてはいるものの、日々の生活には全くっもって、不必要とも受け取れるだけの巨大な筋肉が隠されていた。

 そんなアゲロスの背中を、そっと指でなぞるヴァンナ。


「……アゲロス様」


「ん? なんじゃ」


 アゲロスは、もう一度水を飲もうとしたのだろうか。丁度、水差しを持ち上げた所でヴァンナの方へと振り返る。


「いえっ……なんでもありません……あぁ、お水も残り少のうございますね」


 ヴァンナはそう言うと、そっとアゲロスの右手から水差しを受け取ろうとする。


「今、新しいお水をお持ち致します……少々シーツをお借りしても?」

「……あぁ、良い」


 ヴァンナはそう言うと、ベッドからシーツを「スッ……」と引くと、自身の豊満な裸体へと器用に巻き付けた。

 その姿は月明かりに照らされ、まさに美の女神であるテオフィリアが、降臨したかの様に、この寝室を幻想的な空間へと作り変えてくれる。

 そんなヴァンナの姿を、愛しそうに眺めるアゲロス。


「……うふふっ」


 アゲロスのそんな表情を見たヴァンナは、思わず小さく笑い声を上げた。


 ……しばらく見つめ合う二人。


 ヴァンナは名残惜し気にアゲロスの頬に触れると、巻き取ったばかりのシーツを自らの胸の前で器用にクロスさせ、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、残されたアゲロスの方は、何気なく視線を向けたベッドの上に、いくつかの赤いシミを見付ける事となる。


「んっ? ……血か……」


 アゲロスはその赤いシミを指でそっとなぞってみる。


「はぁっ……お見苦しい所をっ……」


 今、まさに水差しを持って部屋から出ようとしてしていたヴァンナは、アゲロスのそんな様子に気付き、慌ててベッドへと駆けよると、たった今自分の体に巻き付けていたシーツで、その赤い印を覆い隠そうとするのだ。


「んんっ……良い良い。初物と言うのは何にせよ良いものじゃ……美しいバージンマークじゃのぉ」


「……アゲロス様」


 余りの事に、頬を赤く染めて俯くヴァンナ。


「あんっ!」


 そんなヴァンナの体をシーツごと抱き寄せると、彼女の左手首をそっと握る。


「そちの美しい体に、傷を付けてしもうたのぉ」


 アゲロスは、少し申し訳無さそうに眉根を寄せると、胸元でシーツを抑えている彼女の左腕を、半ば強引に引き離そうとする。


「あぁっ……お戯れを」


 三度めの愛撫を意識し、自らの身をアゲロスへと預けようとするヴァンナ。


 ――その時。


「ピィィィーーーー、ピィィィーーーー」


「……」

「……警笛の様じゃのぉ」


 アゲロスの表情が突然曇る。


「誰か。誰か居らぬか?」


 アゲロスのその静かな呼び声では、とても扉の外にいるメイドには聞こえそうも無い。しかし、彼のその呼び声に反応して、入り口のドアが静かに開いて行く。


「はい。お待たせ致しました」


 静かに開いた扉の前で、一人の女性が恭しくお辞儀をする。


「おぉ、イリニか。まだ起きておったのか」


「はい。ヴァンナに何ぞ粗相がございません様、こちらで控えておりました」


 家政婦長であるイリニは、深々とお辞儀をしたままの姿で返事を返して来る。それは、ベッドの上での情事を、あまりジロジロと見ない様に、との配慮の表れなのかもしれない。


「うむ。そうか」

「……ではイリニ、先ほどの警笛、何があったのか、急ぎ確認に行かせよ」

「恐らく、泥棒ネコでも迷い込んだのであろうがのぉ」


 アゲロスは、いまだ下を向いたままの家政婦長へと指示を下す。


「畏まりまして、ございます」


 家政婦長は、命令承諾の証として、カーテシーの様に、己がストラをつまむと、一度だけ軽く腰を落とした。


「それから、そこの壁に掛けてある宝剣をわが手に」


 アゲロスは壁際に飾られている片手剣ショートソードを、己が顎で指し示す。


「はい。畏まりました……こちらでよろしいでしょうか?」


 俯いたままで指示を受けたイリニ。しかし、迷う事無く、壁に飾られている片手剣ショートソードを取り外すと、そっとアゲロスの元へと差し出して来る。


「うむ」


 アゲロスは、やおら宝剣の柄を掴むと、鞘をイリニに持たせたままの状態で、一気に抜き放った。


 ――スラッッ!


 中庭から差し込む青白い月明かり。それに呼応するかの様に、妖しく輝く宝剣。


「うぅぅむっ。……美しいのぉ」


 アゲロスは、そう一言唸ると、隣に抱きかかえられた状態のヴァンナへ、これ見よがしに剣を振りかざしてみせる。


「これは、私が初陣の時、今は無き父より贈られた物だ……」

「神の刀匠と呼ばれた、トゥリンドベリ晩年の作じゃ」

「ワシはこの剣とともに、いったいどれだけの戦場に赴いたのかのぉ……」


 諸刃で設えられた宝剣。

 その刃を丹念に眺めつつ、薄っすらと不気味な笑顔を見せるアゲロス。


「なんじゃ、ヴァンナ。震えておるのか? この剣が怖いとでも?」


 アゲロスは見せびらかす様にヴァンナの前へと、その諸刃を近づける。


「いえ。そう言う訳ではございません。何やら賊がいるとかいないとか。ヴァンナはアゲロス様の身を案じております」


 健気けなげにもアゲロスの身の心配をするヴァンナ。しかし、その身はかすかに震えている様だ。


「ほっほっほ。い事を申す」

「何も心配する事は無いぞ。例え恐ろしい魔獣がこの場に現れようとも、この剣で一刀両断にしてくれようぞ。ほっほっほっ」


「……」

「……なぜに。なぜに、その様な恐ろしい魔獣をお抱えに?」


 アゲロスに左腕を掴まれ、その身をアゲロスの胸に抱かれた状態のヴァンナ。彼女は“ふっ”と思いついた、その疑問を口にする。


「ふむ。そうじゃのぉ……」


 虚空を見つめる様に、遠い目をしたまま押し黙るアゲロス。

 しばらくしてから、独り言でも呟く様に、ゆっくりと語り始めた。


「……魔獣ヤツは嘘を付かぬ」

魔獣ヤツは常に己が本能に忠実じゃ。誰が“主”で、誰が“従”かを十分に弁えておる。……しかし、人はのぉぉ……困った事に、己が分を超えた野望を抱く……」

「それは美しくもあり……醜くもあり……」


 再び虚空を見つめ、物思いにふけるアゲロス。


「……だから、魔獣をお飼いに?」


 急に黙り込むアゲロス。彼の次の言葉を待ちきれなくなったヴァンナは、自分からその想いを告げてみる。


「……まぁな」


 アゲロスは、ほんの少しだけ不機嫌そうに、そう答えた。


「アゲロス様……痛いっ」


 そんな言葉のやり取りをしている間に、思わず彼女の手首を握る手にも力がこもったのであろう。手首の痛みに顔を歪めるヴァンナ。


「おぉ、これは悪い事をした。ついつい、力強く握ってしもうた」

「……何しろ、強く握っておかねば、に無くしては困るからのぉ」


 なおも力強く彼女の手を握ったままのアゲロス。


「……?」


 自分の左手首の痛みに、眉根を寄せつつも、思わず聞き返すヴァンナ。


 ――スラッ……フッ……


 アゲロスの右手に握られた宝剣が、音も無く宙を舞う。


 ……バシュゥゥゥ……


「はぁぁぁぁっ! ……ぐぅっつつっっんんんんっ!」


 余りにも突然の事に、驚きを隠せないヴァンナ。しかし気丈にも痛みに耐えようと、己が下唇を噛みしめる。

 そして、彼女の胸元に寄せられたシーツは、みるみるうちに、彼女の鮮血により赤く染まって行くのだ。


「ほほぉ。泣き叫ばんとはなぁ。これは気丈な娘よぉ」


 アゲロスは、たった今切断した彼女の左手をそっと持ち上げると、ランプの前へと翳してみる。


「まぁ、そう睨むな……」


 アゲロスの背後。己が失った左手首を庇うかの様に、切断面をシーツで抑え込むヴァンナ。その半ば殺意の混じった視線は、もちろんアゲロスへと向けられている。


「先も申した通り、ワシは嘘が嫌いじゃ」

「ほれ、ヌシの中指。なぜにこの様に噛んだ痕がある?」


 ランプに照らし出された左手の中指には、自らの意思で噛んだと思われる傷口が残されていた。


「……そっそれは……くっ……アゲロス様が、……余りにも激しく……」


 ヴァンナは今なお言い訳を探す。しかし、アゲロスはそんな言い訳など聞く耳を持たない。


「だから言うたであろう。ワシは嘘が嫌いじゃ……と」


「……」

「最後の機会じゃ。……申してみよ」


 ヴァンナは両目一杯に涙を溜めながらも、アゲロスを睨み付ける。

 しかし、ついに観念した彼女は、訥々と語り始めた。


「……はっ、始めてでは、ござい……ません……でした」


 そこまでの言葉を絞り出すと、己が左腕を抱きかかえたまま、シーツの中に顔を埋め、声にならない声で泣き始めたのだ。


「ほっほっほっ。そうであろう? ワシを謀るのはした方が良いのぉ」


 大量の血液で真っ赤にそまったシーツ。そこに顔を埋めた為だろう。ヴァンナの顔は、己が血液と涙と鼻水で、惨憺たる状態だ。


「アッ、アゲロス様っ……私めに治療をっ……お慈悲を……」


 しかも、この期に及んで、命乞いを始めるヴァンナ。


「さて、どうしたものかのぉ……」

「アッ、アゲロス様っ……ぐぅっっっっっ!」


 あまりの痛みに顔を歪めるヴァンナ。それを、とぼけた表情で眺めるアゲロス。


「……」

「イリニ。……神官を呼んでやれ」


「畏まりましてございます」


 一部始終を横で見ていたイリニは、表情一つ変える事無く、アゲロスの指示に従う。


「それから、ヴァンナには、ワシの事を名前で呼ぶ事を許した。心せよ」


「承知いたしました」

「それではヴァンナ、どうぞこちらへお越しくださいませ」


 イリニは、了承を示す為、更に深々とお辞儀をした後、ベッドの上で泣き崩れているヴァンナの方へと歩み寄ろうする。


「うむ。それから、イリニ。今日は久しぶりに本館に戻るとしよう。準備が整うまで、中庭で月でも眺めておるわ」


「畏まりました。それでは後ほど、中庭の方へ冷たいお飲み物をお持ちいたしましょう」


「うむ。任せる」


 それだけを言い残し、アゲロスはテラスから中庭の方へと歩み出して行く。ただ、その手に握られた宝剣からは、鮮やかなヴァンナの血が、いまだ滴り落ちていた。
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