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第十二章 ヴァンナの思惑(ルーカス/ミランダルート)

119.平手打ち

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「ふふっ!」


 妾専用館、その庭園の外周を大きく取り囲むように作られた遊歩道には、林の中を散策する貴人達が、時折休憩するための小さな『あずまや』が建てられている。

 ここはその一つ。館から最も近い場所にある建物で、その外観は、太陽神殿を模したものとなっていた。

 『あずまや』の中には、大理石で作られた大きなテーブルが据え付けられていて、更にその上には、手持ち無沙汰な様子の少年が『ふて寝』を決め込んでいたのだ。

 そんな『あずまや』の様子をうかがう、一人の少女。

 彼女は『ふて寝』中の少年にそっと近づくと、ストラの裾を大きく広げてから、少年の顔の上にストンと腰を下ろしてしまった。


ぁれだ?」


「うっぷ! ……もがっ、もがっ……」


 急に視界を奪われたばかりか、呼吸すら叶わなくなってしまった少年。

 慌てて手足をバタつかせるけど、いくら少女とは言え、全体重が乗った状態では、抜け出す事すら出来やしない。


「もぅ! ぁぁれだ?」


 彼女は、なかなか返事をしない少年に少しご立腹の様子。もう一度、被せる様に質問を投げ掛けて来る。


「もがっ、もぐっ、もがっ!……もごっ! ……もっ! も……」

「……」


 最初こそ、割りと元気よくバタバタとしていた少年だったが、やがて足の動きが止まり、終いには、彼の手の動きも止まってしまう。


「もぉ、私がぁれだっ? って言ったら、ちゃんと当ててくれなきゃあ」


 そんな彼の様子は全くお構い無し。次第に無反応になりつつある少年に対して、きっちりダメ出しをする彼女。


「ん?」


 しかし、そんな『天然少女』も、さすがに少年の様子がおかしい事に気付いた様だ。


「……」


「んんっ?」


「……」


「……ねぇ?」


 少女はもう一度問いかけるのだが、残念ながら、少年は微動だにしない。


「……」


「……ルーカスゥ?」


 ちょっぴり可愛く問いかけてみる。


「……」


「ねぇ、ルーカス! 大丈夫っ!」


 ようやくここに来て事の重大さに気付いた彼女は、弾けるように彼の顔の上から飛び退くと、心配そうに、彼の顔を覗き込んだ。


「……っぷはぁぁ! はぁぁ、はぁぁぁ、はぁ、はぁっ!」


 ようやく念願の『呼吸』を少女から取り戻した少年。荒い息使いで、不足した酸素を懸命に取り込もうとする。


「もぉぉ、ルーカス! 心配したじゃない!」


「そっ、それはこっちのセリフだよ! もう二度と息できないんじゃないかって思ったよぉ!」


 少女のお門違いな突っ込みに、思わず真顔で反論してしまう少年。


「って言うか、ちょっとっ! あのぉ、ダメだよ! これは、色々な意味で、……やっ、やっぱり、ダメだよぉ!」


 少年は顔を真っ赤にして少女へダメ出しをするのだが、その顔の赤さは、窒息しそうになっていた事だけが原因では無さそうだ。


「えぇぇダメなのぉ?」


 少年からの突然のダメ出しに、何が問題なのかさっぱり分からない彼女。ちょっぴり頬を膨らませて不満顔。

 そんな彼女の様子を見た少年は、急に押しが弱くなる。


「いや、ダメって言うかぁ……、そのぉ、ダメじゃ無いんだけど、って言うか、全然OKなんだけどぉ、でも、女の子がそんな事しちゃだめって言うか、……そのぉ、マジでプロピュライア見えたって言うか……、えぇぇっとぉ、色んな意味でとにかくぅ、とにかくダメなんだよ!」


「えぇぇ。もう、やっぱり全然分かんない! ルーカスの意地悪ぅ」


 必死の説明も空しく、結局全否定の上に、愛しの彼女に嫌われてしまいそうになるルーカス少年。ただ、夢にまで見た彼女が今、自分の目の前にいると言う事だけで言葉が詰まりそうになる。


「いや、そう言うんじゃ無くて……うん……ミランダ……元気そうだね……」


 そうして出て来た言葉は、逆に彼女を気遣う言葉だけだった。


 そんな真面目な様子のルーカスを見つめるミランダ。彼女の方も真剣な眼差しで見つめ返して来る少年の視線に、多少どぎまぎしてしまう。


「えへへ。……うん、元気にしてるよっ」


 結局、気恥ずかしくなったミランダの方が視線を外して、そっと自分の手元を見つめてしまう。


「マロネイヤのヤツに、嫌な事されてない?」


「うん、大丈夫。あれから、ずぅぅっと、お部屋でのんびりしてるだけっ」


 なぜだか分からないけど、ルーカスからの質問に答えるのがとっても恥ずかしい事の様に思えて来た少女。意を決して、自分から話し掛けてみる事に。


「そっ、そんな事よりルーカス! 私、本当にびっくりしちゃった。あんな所から声がするなんて、思ってもみなかったから」


「うっ、うん、なんとか連絡しようと思ったんだけど、なかなかお屋敷の中には入れなくって……」


 ミランダの持ち出した突然の話題に、思わず顔を伏せるルーカス少年。

 どうしてもミランダと連絡を取りたいルーカス少年。思案に思案を重ねた結果、に自分を救ってくれた、汚れ役の頭領テオドロスに相談する事に。

 後で分かった事だが、実はあの日の夕方、親方デメトリオス と一緒にテルマリウムへ行った際に一度会っていたらしい。初めてのテルマリウムに舞い上がっていたルーカスは、頭領テオドロスの事を全く覚えていなかったのだが、頭領テオドロスの方が覚えていてくれたのだ。

 親方と頭領は昔からの親友で、兵士達に捕まったルーカスを一目みて、自分の手下だと言い張って、無理やりルーカスを引き取ってくれたらしい。

 もちろん、その後で親方や頭領から、死ぬほど叱られたのは言うまでも無い。


 結局、頭領テオドロスの口利きで、マロネイア家に出入りしている汚物商を紹介してもらい、毎日マロネイア家に出入りして、肥溜めに溜まった汚物を運ぶ仕事に従事する事に。

 そうして一週間。妾専用館の肥溜めの中でくみ出しをしていた丁度その時に、トイレの穴の外から、忘れもしないミランダの声が聞こえて来たと言う訳だ。


「でもルーカスは、ずーっとトイレの奥に入ってたの?」


 ミランダは小首をかしげて訪ねてくる。その純真な瞳がなぜか痛い。


「うっ、うん。妾専用館ここの肥溜めって結構大きくてさ、大人が入れるぐらい大きいんだよ。それに、あんまり溜まっちゃうとくみ出しが大変になるから、基本的に毎日くみ出ししないといけないんだよねぇ」


 あまり思い出したくない記憶ではあったが、ミランダに質問されては、答えない訳には行かない。


「えぇ、じゃあ一日中、ずぅぅっと中にいたの?」

「うん、できるだけ長い時間いられる様に、本当は二人か三人でやるんだけど、僕一人で頑張ってたんだ」


 ルーカスは自分の頑張り様を、ここぞとばかりにアピール。


「ふぅぅん……って事は、……見た?」

「……えっ?」


 ミランダの質問の意味が分からない。


「だから、ルーカス……見たの?」


 なぜだか、ミランダの声のトーンが低い。


「……見るって……何を?」


「だって、ルーカス、ずーっと中にいたんでしょ? お屋敷には沢山の女の子がいるんだよ? って事は、みんなおトイレに行くでしょ?」


 ミランダの眉間の皺が濃く深くなって行く。


「いっ、いや、ミランダ。ちょっと待って。俺っ。俺そんな事して無いよ!」


 慌てて言い訳を始めるルーカス少年。


「……そんな事って?」


 ミランダの追求は終わらない。


「いやぁ。そそっ、そんな事って、本当に一体何だろうねぇ……」


 ルーカスの全身から、冷や汗が滝の様に流れ始める。


「……見たんでしょ?」


「……」


「……見たよね」


「……」


「怒らないから、言ってごらん。……見たのね?」


「……」

「……はい」


 ついに、観念したルーカスは、素直に罪状を認める。


 ……スパーン!!!

 妾専用館、その庭園の外周にある、太陽神殿に模した『あずまや』。

 そこから発せられた、澄んだ音色の『平手打ち』の音は、近くの梢に止まる鳥たちを驚かすに十分な響きを保っていた。

 あえて言おう、この時、爪を立てなかった事こそが、彼女の愛情であり、温情であったと言う事を。
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