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櫻花荘に吹く風~103号室の恋~ (7)
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一日の仕事も無事に終わっての風呂上り。冷蔵庫から取り出した麦茶をコップへと注ぎ一気に飲み干す。
火照った体に染み渡る冷たさにホッとひと息吐いた春海は、灯りを落としたままの台所で一人昼間の出来事を思い返していた。
(今日のみっちゃん、何か変だったなぁ)
昔から一番近くにいた観月から、改まって告げられた「好きだ」という言葉に、自分も「好きだ」と、当たり前の言葉を返しただけだというのに。
妙にガックリと肩を落としていた観月を思い返しては、疑問符ばかりが湧いては消える。
玄関扉を開いた瞬間内側に立っていた出勤前の北斗に出くわして、妙に慌てていた観月の姿も春海にとってはまた不思議で。
「あっ、お風呂冷めないうちに声掛けておこうかな?」
櫻花荘の風呂は焚き直しの出来るタイプとは違い給湯式。一度湯が冷めてしまうと、再び浴槽の湯を熱くする為には、かなりのガス代と水道代が掛かってしまう。
シャワーだけで済ます事の多い夏場であればさほど掛からないガス代も、まだ夜は若干肌寒い今の季節、やはり湯にゆっくりと浸かりたいと思えば、それなりにお金も掛かるもので。
電気以外の公共料金は住人それぞれで折半となる為、店子達もその辺りは協力的だ。北斗も仕事が休みの日以外は、冬でもほぼシャワーだけで済ませてくれる。
「酔って湯に浸かると危ないでしょ? だからシャワーで十分」
なんて笑って言ってはいるけれど、きっと他の住人に遠慮しているのだろう。
今日は帰宅早々観月がシャワーを済ませてしまった為、残っているのは由野だけである。
日中は春海と一緒にいてくれた杉田も、このところ週の半分以上は櫻花荘を春海に任せて新生活準備へと出てしまっていて、今晩も帰っては来ない。
もうすぐ杉田もここを出て行ってしまうと思えば、寂しいと思う気持ちと、それ以上に櫻花荘を守っていかなければという重責に押し潰されそうになるけれど。
空になったグラスへ新たに注いだ麦茶と、もうひとつ。2つのグラスを手に、春海は由野の部屋へと向かう。
「由野さん? 由野さーん」
「……あ、春ちゃん、どうしたの?」
「まだお仕事中でした?」
「うん、まあ――」
両手が塞がっていたらノックが出来ない、と気付いたのは由野の部屋の前まで来てからだった。
一瞬迷いながらも遠慮がちに掛けた春海の声に、少しの間を挟んで、内側からゆっくりと扉が開く。扉の前に立つ春海をぼんやりと見つめた由野が、ぎこちなく視線を逸らしながら口元に笑みを浮かべた。
夕飯の時よりもぼさぼさに乱れた由野の髪に内心驚きながら、春海は持っていたグラスの片方を差し出した。
「あ、これどうぞ、麦茶です」
「ああ、ありがとう、頂くよ……春ちゃんは、風呂上り?」
「はい。お風呂、今日は由野さんで最後なので、上がる時に栓抜いておいて下さいね」
「了解」
眼鏡の奥の瞳に疲れが浮かんでいるように見えて、春海の表情が僅かに曇る。
由野の身体の奥に見え隠れする部屋の中には、積み重ねられた本の山と赤い線の引かれた白い紙が散らばっていて。鈍く光るパソコンの灯りが、窓際に置かれた文机の上に見えていた。
仕事が上手く進んでいないのだろうか? 普段ならばきちんと目を見て話してくれる由野の逸らされた視線が、春海には何故か寂しく感じる。
「大丈夫ですか? 何だか疲れてるみたいですけど……」
「え? あ、うん、大丈夫。湯冷めするといけないから、早く布団に入った方が良いよ? お風呂、ついでに洗っておくから」
「そんなっ、いいですいいです! 栓だけ抜いておいて貰えればそれで。あ、じゃあお休みなさい! お仕事の邪魔しちゃってすみませんでした」
「邪魔だなんて。麦茶、ありがとう」
ぺこりと頭を下げた春海に、ようやく視線を合わせてくれた由野が穏やかな笑顔を見せてくれた。
「おやすみなさい」
最後にもう一度そう言ってぺこりと頭を下げた春海が階段を上がるのを見届けて、由野は静かに扉を閉めた。
「はぁ~~あ、焦った……」
春海から受け取ったグラスを両手で持ったまま、扉を背にして崩れるようにその場にしゃがみこむ。
「ヤバイだろ、俺――」
手の熱で既に温くなりかけた麦茶を半分ほど嚥下した由野が、項垂れながら溜息を吐き出す。既にぼさぼさになっている髪を更に掻き混ぜながら、由野は認めざるを得ない自身に芽生えた変化を感じ取っていた。
視線を上げた先に鈍く光を放つパソコンの画面が、まるで己を嘲笑っているかのように感じて居た堪れない。
タイミングが良いのか悪いのか。
苦労して書き上げた初稿に対する担当チェックが終わり、赤の入った添削原稿が昼間に届いたばかりだった。
櫻花荘は建物自体が古い為、各部屋ごとの電話回線は引かれていない。インターネットを行いたいのであれば、各自契約を結んだ上でのモバイル対応となる。
当然由野にはそんな贅沢をする余裕はなく、原稿のチェックも昔ながらの紙媒体。流石に最終稿に関しては、USBメモリに落として引き渡しているけれど。
昼に届いたチェック分の赤を、画面上の文字と照らし合わせながらの確認作業を行っていたところに聞こえてきたのが、春海の澄んだ声だった。
丁度その時パソコン画面に上がっていたページは、一番苦労した濡れ場のシーンで。
あたふたとしながらページを隠し、ひと呼吸置いて扉を開いた由野の前に現れたのは、にっこり微笑む春海の姿。
風呂上りの上気した肌は仄かに桜色に染まり、髪から滴る雫が肩を覆うように首から下げていたバスタオルを濡らしていた。胸元がV字になるタイプの、淡いアイボリーのパジャマ姿。漂って来るシャンプーとボディソープの香り。
相手は春海だと、自分と同じ男だと分かっていながら、その姿を直視出来ない自分がそこにいた。
(何だよこれ……おかしいだろ、自分?)
気のせいだと思い込もうとしても、どうしても春海と視線を合わせる事が出来なくて。頭の中で絡みを演じている高木と三好のせいだと言い聞かせても、その言葉に効果は無くて。
追い立てるように春海を見送った時には、ホッとして全身の力が抜けてしまった。気を抜いたら反応を示してしまいそうな自分の下半身が、由野には信じられない。
「観月くんのせいだよな――うん、きっとそうだ……そうだよ、僕の恋愛対象は女性なんだから」
トクトクと普段よりも早い脈動を感じながらも、夕飯前に部屋を訪ねて来た観月の言葉を反芻する。
『由野さん、あんたさ、春海に気が無いなら、変に構い掛けたりしないでよ? あんた在宅仕事だから、春海とは一番接点あるだろうしさ……後からひょっこり出て来た奴に、掻っ攫われるなんてご免なんだよ』
『み、観月くん? え? 何言って――』
『春海は自分じゃ気付いてないけど……兎に角! その気が無いなら、春海と距離置いてくれよ。春海を守るのも、一番傍にいるのも、俺一人で十分なんだ』
『いや、だから、気があるとか気が無いとか、僕は男だし、春ちゃんも男だよ?』
『んな事あんたに言われなくても分かってるよ! 何だよ、男同士の何が悪いんだよ? 恋愛に男とか女とか、そんな小さい事関係ないだろ?』
じゃあ頼んだからなと言い置いて、さっさと背を向けた観月の後姿を、由野は呆然と見送る事しか出来なかった。
その後すぐに夕食となり、一旦頭から払い去ったそれらの遣り取り。けれど食事中に交わす何気無い春海との会話、おかわりの茶碗の受け渡し。その度に観月から向けられる視線は厳しくて。
思い返さないようにしようと思えば思うほど思い出してしまうという悪循環。
いつもは食後に少しゆっくりとお茶をする時間も、仕事が詰まっているからと半分言い訳のような言葉を置いた由野は、結局ダイニングルームから逃げるように自室へと戻った。
『春海に気が無いなら』
観月から言われた言葉を、由野は一人になった部屋の中で何度も何度も考えた。
(それって……観月くんは、春ちゃんの事が好きだって事か? そして春ちゃんが俺を? そして俺も? って、いや、それは無いだろ。だって俺も春ちゃんも男だし……いや、待って待って!)
浮かんで来た考えを頭の中から振り払おうと、赤の入った原稿に向き合ってみても、自ずと思考は同じ所へと戻って行ってしまう。
「……モデルになんて、しなきゃ良かった」
大きな溜息と共に吐き出した言葉は小さく、部屋の空気に溶けて消えて行く。
画面の中では春海をモデルにして作り上げたキャラクターの三好が、高木の手管に翻弄されてぐずぐずになっていた。
『ゃ、ッ、あっ、あっ、高木さ……」
『名前で呼べって…ほら、呼べるまでお預けだぞ?』
『ふぅん、ぁ、そんな、そんなの』
『修……言えるだろ?』
『あっぅ、んぅー…し、晋一、さ……』
「……はぁー」
何度目になるか分からない溜息。
観月の言葉がチラついて、三好の台詞の声が、春海の声として耳に聞こえてくるようで。そんな春海、ではなく三好を攻め立てている男の姿までもが、いつの間にか自分になっているような錯覚に陥る。
『譲さん』
春海にそう下の名前で呼ばれたら、自分はどんな気持ちになるのだろう。思った瞬間、覚えのある疼きに襲われて、愕然とした。
「う、嘘だろ? 何かの間違いだ、きっとそうだ――」
反応を示すとまではいかないものの、確かに感じたその感覚を必死で追い出す。
いくら自分がボーイズラブというジャンルでの仕事を請け負っているからと言っても、これまで恋愛をして来た相手は全て異性なのだ。
同性しか愛する事の出来ない、所謂マイノリティと呼ばれる人達がいる事は、勿論良く知っている。仕事柄そういった感情を否定する気も全く無い由野ではあったが、それが自分自身に降りかかって来るとなれば話は別だった。
気のせいだ、と必死に自分に言い聞かせていた時に、耳に届いた春海の声。パソコンを置いた座卓の前、由野はビクリと、それこそ話の中でしか知らなかったような反応で飛び上がった。
必死に心を落ち着けて扉を開いた由野の前に現れたのは、妄想では無く現実の春海で。目の前に存在する春海の姿に、明らかに戸惑う自分を実感した。
「何なんだよこれ……」
しゃがみ込んだ扉の前、先ほど過ぎった覚えのある疼きの感覚は、視覚的にも認めざるを得ないほどの形となって、由野の中心に表れていた。
「誰か、嘘だって言ってくれ」
すっかり温くなった麦茶の残りをひと息に飲み下した由野の呟きは、6畳一間の一人の部屋に、虚しく消えていくばかりだった。
火照った体に染み渡る冷たさにホッとひと息吐いた春海は、灯りを落としたままの台所で一人昼間の出来事を思い返していた。
(今日のみっちゃん、何か変だったなぁ)
昔から一番近くにいた観月から、改まって告げられた「好きだ」という言葉に、自分も「好きだ」と、当たり前の言葉を返しただけだというのに。
妙にガックリと肩を落としていた観月を思い返しては、疑問符ばかりが湧いては消える。
玄関扉を開いた瞬間内側に立っていた出勤前の北斗に出くわして、妙に慌てていた観月の姿も春海にとってはまた不思議で。
「あっ、お風呂冷めないうちに声掛けておこうかな?」
櫻花荘の風呂は焚き直しの出来るタイプとは違い給湯式。一度湯が冷めてしまうと、再び浴槽の湯を熱くする為には、かなりのガス代と水道代が掛かってしまう。
シャワーだけで済ます事の多い夏場であればさほど掛からないガス代も、まだ夜は若干肌寒い今の季節、やはり湯にゆっくりと浸かりたいと思えば、それなりにお金も掛かるもので。
電気以外の公共料金は住人それぞれで折半となる為、店子達もその辺りは協力的だ。北斗も仕事が休みの日以外は、冬でもほぼシャワーだけで済ませてくれる。
「酔って湯に浸かると危ないでしょ? だからシャワーで十分」
なんて笑って言ってはいるけれど、きっと他の住人に遠慮しているのだろう。
今日は帰宅早々観月がシャワーを済ませてしまった為、残っているのは由野だけである。
日中は春海と一緒にいてくれた杉田も、このところ週の半分以上は櫻花荘を春海に任せて新生活準備へと出てしまっていて、今晩も帰っては来ない。
もうすぐ杉田もここを出て行ってしまうと思えば、寂しいと思う気持ちと、それ以上に櫻花荘を守っていかなければという重責に押し潰されそうになるけれど。
空になったグラスへ新たに注いだ麦茶と、もうひとつ。2つのグラスを手に、春海は由野の部屋へと向かう。
「由野さん? 由野さーん」
「……あ、春ちゃん、どうしたの?」
「まだお仕事中でした?」
「うん、まあ――」
両手が塞がっていたらノックが出来ない、と気付いたのは由野の部屋の前まで来てからだった。
一瞬迷いながらも遠慮がちに掛けた春海の声に、少しの間を挟んで、内側からゆっくりと扉が開く。扉の前に立つ春海をぼんやりと見つめた由野が、ぎこちなく視線を逸らしながら口元に笑みを浮かべた。
夕飯の時よりもぼさぼさに乱れた由野の髪に内心驚きながら、春海は持っていたグラスの片方を差し出した。
「あ、これどうぞ、麦茶です」
「ああ、ありがとう、頂くよ……春ちゃんは、風呂上り?」
「はい。お風呂、今日は由野さんで最後なので、上がる時に栓抜いておいて下さいね」
「了解」
眼鏡の奥の瞳に疲れが浮かんでいるように見えて、春海の表情が僅かに曇る。
由野の身体の奥に見え隠れする部屋の中には、積み重ねられた本の山と赤い線の引かれた白い紙が散らばっていて。鈍く光るパソコンの灯りが、窓際に置かれた文机の上に見えていた。
仕事が上手く進んでいないのだろうか? 普段ならばきちんと目を見て話してくれる由野の逸らされた視線が、春海には何故か寂しく感じる。
「大丈夫ですか? 何だか疲れてるみたいですけど……」
「え? あ、うん、大丈夫。湯冷めするといけないから、早く布団に入った方が良いよ? お風呂、ついでに洗っておくから」
「そんなっ、いいですいいです! 栓だけ抜いておいて貰えればそれで。あ、じゃあお休みなさい! お仕事の邪魔しちゃってすみませんでした」
「邪魔だなんて。麦茶、ありがとう」
ぺこりと頭を下げた春海に、ようやく視線を合わせてくれた由野が穏やかな笑顔を見せてくれた。
「おやすみなさい」
最後にもう一度そう言ってぺこりと頭を下げた春海が階段を上がるのを見届けて、由野は静かに扉を閉めた。
「はぁ~~あ、焦った……」
春海から受け取ったグラスを両手で持ったまま、扉を背にして崩れるようにその場にしゃがみこむ。
「ヤバイだろ、俺――」
手の熱で既に温くなりかけた麦茶を半分ほど嚥下した由野が、項垂れながら溜息を吐き出す。既にぼさぼさになっている髪を更に掻き混ぜながら、由野は認めざるを得ない自身に芽生えた変化を感じ取っていた。
視線を上げた先に鈍く光を放つパソコンの画面が、まるで己を嘲笑っているかのように感じて居た堪れない。
タイミングが良いのか悪いのか。
苦労して書き上げた初稿に対する担当チェックが終わり、赤の入った添削原稿が昼間に届いたばかりだった。
櫻花荘は建物自体が古い為、各部屋ごとの電話回線は引かれていない。インターネットを行いたいのであれば、各自契約を結んだ上でのモバイル対応となる。
当然由野にはそんな贅沢をする余裕はなく、原稿のチェックも昔ながらの紙媒体。流石に最終稿に関しては、USBメモリに落として引き渡しているけれど。
昼に届いたチェック分の赤を、画面上の文字と照らし合わせながらの確認作業を行っていたところに聞こえてきたのが、春海の澄んだ声だった。
丁度その時パソコン画面に上がっていたページは、一番苦労した濡れ場のシーンで。
あたふたとしながらページを隠し、ひと呼吸置いて扉を開いた由野の前に現れたのは、にっこり微笑む春海の姿。
風呂上りの上気した肌は仄かに桜色に染まり、髪から滴る雫が肩を覆うように首から下げていたバスタオルを濡らしていた。胸元がV字になるタイプの、淡いアイボリーのパジャマ姿。漂って来るシャンプーとボディソープの香り。
相手は春海だと、自分と同じ男だと分かっていながら、その姿を直視出来ない自分がそこにいた。
(何だよこれ……おかしいだろ、自分?)
気のせいだと思い込もうとしても、どうしても春海と視線を合わせる事が出来なくて。頭の中で絡みを演じている高木と三好のせいだと言い聞かせても、その言葉に効果は無くて。
追い立てるように春海を見送った時には、ホッとして全身の力が抜けてしまった。気を抜いたら反応を示してしまいそうな自分の下半身が、由野には信じられない。
「観月くんのせいだよな――うん、きっとそうだ……そうだよ、僕の恋愛対象は女性なんだから」
トクトクと普段よりも早い脈動を感じながらも、夕飯前に部屋を訪ねて来た観月の言葉を反芻する。
『由野さん、あんたさ、春海に気が無いなら、変に構い掛けたりしないでよ? あんた在宅仕事だから、春海とは一番接点あるだろうしさ……後からひょっこり出て来た奴に、掻っ攫われるなんてご免なんだよ』
『み、観月くん? え? 何言って――』
『春海は自分じゃ気付いてないけど……兎に角! その気が無いなら、春海と距離置いてくれよ。春海を守るのも、一番傍にいるのも、俺一人で十分なんだ』
『いや、だから、気があるとか気が無いとか、僕は男だし、春ちゃんも男だよ?』
『んな事あんたに言われなくても分かってるよ! 何だよ、男同士の何が悪いんだよ? 恋愛に男とか女とか、そんな小さい事関係ないだろ?』
じゃあ頼んだからなと言い置いて、さっさと背を向けた観月の後姿を、由野は呆然と見送る事しか出来なかった。
その後すぐに夕食となり、一旦頭から払い去ったそれらの遣り取り。けれど食事中に交わす何気無い春海との会話、おかわりの茶碗の受け渡し。その度に観月から向けられる視線は厳しくて。
思い返さないようにしようと思えば思うほど思い出してしまうという悪循環。
いつもは食後に少しゆっくりとお茶をする時間も、仕事が詰まっているからと半分言い訳のような言葉を置いた由野は、結局ダイニングルームから逃げるように自室へと戻った。
『春海に気が無いなら』
観月から言われた言葉を、由野は一人になった部屋の中で何度も何度も考えた。
(それって……観月くんは、春ちゃんの事が好きだって事か? そして春ちゃんが俺を? そして俺も? って、いや、それは無いだろ。だって俺も春ちゃんも男だし……いや、待って待って!)
浮かんで来た考えを頭の中から振り払おうと、赤の入った原稿に向き合ってみても、自ずと思考は同じ所へと戻って行ってしまう。
「……モデルになんて、しなきゃ良かった」
大きな溜息と共に吐き出した言葉は小さく、部屋の空気に溶けて消えて行く。
画面の中では春海をモデルにして作り上げたキャラクターの三好が、高木の手管に翻弄されてぐずぐずになっていた。
『ゃ、ッ、あっ、あっ、高木さ……」
『名前で呼べって…ほら、呼べるまでお預けだぞ?』
『ふぅん、ぁ、そんな、そんなの』
『修……言えるだろ?』
『あっぅ、んぅー…し、晋一、さ……』
「……はぁー」
何度目になるか分からない溜息。
観月の言葉がチラついて、三好の台詞の声が、春海の声として耳に聞こえてくるようで。そんな春海、ではなく三好を攻め立てている男の姿までもが、いつの間にか自分になっているような錯覚に陥る。
『譲さん』
春海にそう下の名前で呼ばれたら、自分はどんな気持ちになるのだろう。思った瞬間、覚えのある疼きに襲われて、愕然とした。
「う、嘘だろ? 何かの間違いだ、きっとそうだ――」
反応を示すとまではいかないものの、確かに感じたその感覚を必死で追い出す。
いくら自分がボーイズラブというジャンルでの仕事を請け負っているからと言っても、これまで恋愛をして来た相手は全て異性なのだ。
同性しか愛する事の出来ない、所謂マイノリティと呼ばれる人達がいる事は、勿論良く知っている。仕事柄そういった感情を否定する気も全く無い由野ではあったが、それが自分自身に降りかかって来るとなれば話は別だった。
気のせいだ、と必死に自分に言い聞かせていた時に、耳に届いた春海の声。パソコンを置いた座卓の前、由野はビクリと、それこそ話の中でしか知らなかったような反応で飛び上がった。
必死に心を落ち着けて扉を開いた由野の前に現れたのは、妄想では無く現実の春海で。目の前に存在する春海の姿に、明らかに戸惑う自分を実感した。
「何なんだよこれ……」
しゃがみ込んだ扉の前、先ほど過ぎった覚えのある疼きの感覚は、視覚的にも認めざるを得ないほどの形となって、由野の中心に表れていた。
「誰か、嘘だって言ってくれ」
すっかり温くなった麦茶の残りをひと息に飲み下した由野の呟きは、6畳一間の一人の部屋に、虚しく消えていくばかりだった。
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