櫻花荘に吹く風~201号室の夢~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (2)

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 郷愁を誘うお味噌の香りと、耳に優しいまな板を叩くテンポの良いリズム。
 温かな空気を感じて、沈んでいた意識がゆっくりと浮上してくる。


「――――ん……」
「ぉ…目、覚めた? 春ちゃーん、起きたみたいだよー」
 明るい日差しの差し込む部屋の中、開いた視界に飛び込んできたのは、若そうな男のどアップの顔だった。
「……は? え? あれ?」
「大丈夫? どっか具合悪いとか無い?」
「え……と、あの…ぁ、桜――――」
 大きな声に驚いて身体を起こせば、次いで視界に映ったのは、あの桜の木。暗闇の中で見た、怖いほどの雰囲気はそこになく、春の穏やかな陽の下で、気持ち良さそうにその枝を揺らしていた。

「おーい、聞こえてる?」
「あっ、す、すみませんっ! えっと、ここは……あ……」
 青空と薄桃色の花とのコントラストに見惚れていると、目の前でひらひらと手を振られてはっとする。

 そうだった、何がどうして、こんなところで毛布に包まれて寝ていたのだろう?
 覚醒仕切れていないぼやけた頭で必死に記憶を辿りながら頭を下げれば、頭より先に目覚めたらしい腹の虫が、盛大に大きな声を上げ出した。
「ぶっ…あははっ」
 一瞬ぽかんと間の抜けた表情を浮かべた男が、次の瞬間、思い切り笑い出す。
 あぁもう、恥ずかしいったらありゃしない。鏡を見なくても赤くなっているのが分かるほど、羞恥と情けなさとで顔が急激に熱くなる。
「こら良くん、笑わないっ」
「だっ、だって、春ちゃ……グーって! すっげ、音…ひぃ、腹痛ぇ」
「ごめんなさいっ、昨日から大したもの食べてなくてっ」
 笑いを抑える事が出来ずに、その場に倒れ込んで肩を震わす男の頭を、春ちゃんと呼ばれた男性がペシリと叩いて、僕の前に膝を付いた。
「お腹が空くのは健康な証拠だから、気にしないで。それより、ご飯食べられそうですか?」
「え? あの、ご飯って……」
 今の僕にとっては有り難い誘いだけれど、良いのだろうか?
「丁度朝ご飯の時間だし、君も一緒に、ね?」
「詳しい話は食いながら聞くから」
 困惑に眉を寄せた僕に、二人の後ろから更に声が聞こえる。見れば、ダイニングテーブルと思しき大きなテーブルに肘を突いた姿勢で、椅子に座った男性が、胡乱気な眼差しで何かを見ている。
「西村…昌樹、か。ま、こっち来て座れ」
「何で僕の名前……あっ、財布」
「悪いと思ったけど、身元検めさせてもらったから。何処の誰かも分かんねえ奴を、中に入れる訳にはいかねえしな」
 よくよく目を凝らせば、彼が手にしていたのは、財布の中に入れていたはずの免許証だった。テーブルの上には財布、足元には唯一持って歩いていたボストンバックが、口を開けた状態で置いてあった。
「ちょっとみっちゃん、そんな言い方したらまーくんが怖がるじゃん」
「ま、まーくん?」
「そっ、昌樹だからまーくん! いい呼び名じゃね?」
 ようやく笑いを引っ込めたらしい男が、そう言って弾けるような笑顔を見せた。

 今ひとつ事態が飲み込めないまま、掛けて貰っていた毛布を畳み、着ていたままだったコートを脱いだ僕は、先ほど馬鹿笑いをした男に促されて食卓へと向う。
「うっわ……すご…美味しそう」
「でっしょー? 春ちゃんの飯めっちゃ美味いんだぜ!」
「良くん、そんなに褒めてもこれ以上品数は増えないからね?」
「良太は間違った事は言ってないけどな」
「んもう、みっちゃんまで……分かったよ、今日の夜はお肉にする」
 お肉という単語に顔を見合わせ、ハイタッチをする二人のほのぼのとした空気。ここは、なんて温かいのだろう。
(良太っていうのか……)
 ようやく分かった名前にちらりと視線を向ければ、彼が再び笑顔を浮かべた。
「ご飯足りなかったらお代わりもらえよ? ね、春ちゃん?」
「うん、遠慮しなくていいですからね」
「は……はい。あの、ありがとうございます、いただきます」
 ダイニングテーブルの上には、菜の花のお浸し、出汁巻き玉子、なめこおろし、そして焼き魚と、和風のメニューが並んでいた。決して豪華では無いけれど、どれもこれもが美味しそうで。
 湯気を立てる椀を運んで来た、ふわりと微笑む『春ちゃん』の優しい雰囲気が、そのまま現れているような朝餉だった。

 その美味しそうな食事が並ぶ光景を目にしただけで、口中に唾が湧き上がってくる。昨日から本当に、ろくに物を食べる事もせずに歩き続けた僕には、もう遠慮なんて出来るお腹の余裕はなかった。
「――美味しいっ」
 ほんのり甘い出汁巻きも、春の香りが漂うお浸しも、質素なのにどれもが美味しくて、泣きそうになりながら夢中で箸を動かした。
「で、西村君? 何であんなとこで寝てたんだ? 不法侵入で訴えられても仕方ねえ状況だぞ?」
 『みっちゃん』が、お味噌汁を口へと運びながら、ちらりと僕へ視線を投げて来る。
「みっちゃん、そんな言い方しなくても……」
「あのなあ、春海……管理人のお前がそんなんじゃ駄目だろ?」
「え? あ、そっか。僕がそういう話しなきゃいけないのか」
「いーじゃんいーじゃん、まーくん悪い人じゃないっぽいし?」
「そういう問題じゃねえっての!」
 そうだった、ご飯の美味しさにすっかり忘れるところだった。
 けれど、説明をしなきゃと思いながらも、この空気を壊してしまう事が惜しい気がして、気が咎める。一人が口を開けばぽんぽんと会話が続く温かな食卓に、何だかちょっと、涙が出そうになってしまう。
 こんな和やかな食事の時間なんて、久しぶり過ぎたから。

「あの、ご迷惑お掛けしてすみませんでした。おかげで凍死しないですみました」
「そうそう、俺ビックリしたんだから! 起きて来たらそこのカーテン掴んだまま、春ちゃん青い顔してるしさ。何かと思ったら桜の木の下にまーくん倒れてるし! 近寄ってみたら息してたからほっとしたけどねー」
「じゃあ、君が運んでくれたんだ? ありがとう」
 頭を下げて礼を述べた僕に、良太と呼ばれた男性が経緯を説明してくれる。どうやらかなり、驚かせてしまったようで心苦しい。
「えーっと……、昌樹くん? 差し支えなければ、話聞かせてもらえるかな?」
「荷物見た感じだと、家出か?」
「家出、とは違うんですけど……似たようなものっていうか……」
 三方から向けられる興味深げな眼差しに、僕は箸を置いて、これまでの経緯を語り始めた。



 高校を卒業し、親や教師に進められるまま受けた大学へと進学した僕は、なかなか新しい環境に馴染む事が出来ずにいた。

 人見知り、とまではいかないものの、どちらかというと内向的な性格の僕は、初対面の相手と馴染むまでに時間が掛かる。
 講義は真面目に受けていたけれど、予想以上に難しくて、思うようについていけない。誰かに尋ねようにも、気付けば周囲はもう既に、友達グループが数多く出来上がっていた。
 あとからその輪に加わる事も出来ずにいるうちに、月日はどんどん流れていく。
 寂しい気持ちはあったものの、慣れてしまえばそれが日常となり、まあいいやという心境にもなっていた。
 休みの日には、同じ地元からこちらへ出て来ていた友人と遊ぶ事もあったし、取り立てて楽しい出来事は無かったけれど、僕にはそれで十分だったのだ。

 大学とアパートの往復。顔を見れば挨拶を交わす程度には顔見知りも出来、時折同郷の友人と遊ぶ日々が、一年も続いただろうか。
 親からは仕送りも貰っていたし、頻繁に遊び歩くわけでもないから、アルバイトすらする必要もなく。単調な生活サイクルを過ごすだけ。
 不満なんて無かったはずなのに、輝きも何も無い毎日に、内心では何か変化を求めていたのかもしれない。ある日、僕は自分の人生を変えるほどの、運命の出会いをしたのだ。



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