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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (3)
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季節は春から夏へと変わろうとしていた。梅雨特有のじめじめと肌に張り付くような蒸し暑さに、少々げんなりとする。
その日も朝から、いつ雨が降り出してきてもおかしくないような、曇天の空が広がっていた。
「うわ……降ってきた。傘持って出て正解だったな」
レポートに使う資料を求めて、いつもは足を向ける事も余り無い街中の大きな本屋へ行った帰り道の事だった。
冷房の効いた店内から外に出れば、一層湿度が不快に感じる。
「お兄さん、お兄さん、今から暇じゃない?」
「……え? 僕?」
冷たいものでも飲んで帰ろうかと辺りを見回せば、目に付いたのはコーヒーのチェーン店。ビニール傘を開いて歩き出した僕の後ろから、笑顔を浮かべた男性が現れた。
キャッチセールスの類かと警戒を深めた僕に、その人は「違う、違う」と大袈裟なほど首を振って見せる。
「こういうの、興味無いかな? 今日が初日なんだけど、チケット余ってて当日券も出るからさ、良かったら見に来て頂戴」
そう言って僕の手にチラシを無理矢理持たせ、いらないですと返そうとした時にはもう、男は違う人に声を掛けていて。
断るタイミングを掴めずにいるうちに、いつもこうしてティッシュだなんだと押し付けられてしまうんだ。
小さな溜息をひとつ吐きつつ入った目当ての店で、アイスコーヒーを注文した。グラスを片手に窓辺の席へと腰を下ろし、先ほど無理矢理押し付けられたチラシへと視線を落とした。
「小劇団、犀【SAI】……演劇?」
ふと窓の外を見れば、先ほどの男性が時計と睨めっこをしながら、必死にチラシ配りをしていて。劇なんかお遊戯会しか知らない僕には、そんなものに熱心になる気持ちが分からなかった。
だから本当に、単なる暇潰しだったんだ。
レポートの提出も、別に間際に迫っているわけでもない。アパートへ戻っても、誰かが待っているわけでもない。
チケットの値段だって、CDが1枚買える程度の金額だったし、携帯で劇場の場所を確認すれば、今いる場所からそれほど離れてもいなかった。時間だけは幾らでもあった僕は、何の気無しに、劇場へと足を運んだ。
「――何だ…これ……」
生まれて初めて自分で金を払って見た演劇。
それは、予想以上の刺激と興奮を僕に与えた。
チケットが余っていると言っていた言葉に嘘は無く、席はお世辞にも埋まっているとは言い難い状況。けれど、客席から目と鼻の先にあるステージでは、皆が一生懸命で、輝いていた。
ストーリー自体はハチャメチャで、何が何だか良く分からないのに引き込まれた。スポットライトの光を浴びて、大声を張り上げて、躍動感たっぷりに動き回る役者達の姿から、目が離せなかった。客席と一体になって笑い、泣き、感動し……こんな世界があるのだと、衝撃を受けたのだ。
公演が終わって自宅アパートへと帰ってからも、あの小さな空間で受けた大きなパワーが、身体中に満ち溢れているような気がして。
これまで何の夢も目標も持たず、ただ毎日を過ごして来た僕が初めて見付けた煌きが、あの場所には詰め込まれていた。
「僕も……やってみたい……」
そんな風に思うまで、時間は掛からなかった。
内向的な性格だという自覚もあるのに、いや、だからこそ憧れの思いが育ったのかもしれない。
スポットライトに照らされたステージ上で、別人になりきって、その脚本の中の世界に入り込む。自分なのに自分じゃない存在が、その場所には生きている。
舞台を思い返すだけで、言葉に仕切れない高揚感に全身が包み込まれた。
その日から僕は、公演が終わるまでの数日間、劇場に通い詰めた。
そしてその僅かな期間の間に、僕の気持ちは決まっていたのだ。
チラシの隅に小さく載っていた 『 劇団員募集中 』 の文字だけを頼りに、千秋楽を終えて出て来る団員を出待ちして、頭を下げた。
自分にそんな真似が出来るなんて、僕自身が驚いたけれど、その時の僕は必死だった。大学なんて辞めても構わない、経験なんて無いけれど、それでも自分もやってみたいのだと、震える声を抑えながら訴えた。
けれど、団長からの答えは思っていた以上に厳しいもので。
「俺たちは、自分らが馬鹿が付くほど演劇が好きだっていう自覚がある。だからまあ、どれだけ大変でも、好きな事だからと頑張れる部分が、多かれ少なかれあるんだ。けど君は学生だろう? 俺達の芝居を気に入ってくれた事は有り難いと思うが、一時の気の迷いでは続けていけないよ」
やんわりと窘められ、事実上、断られたのだ。
持っていたチラシを握り締めて、俯き唇を噛み締めた僕に、団長は続けた。
「俺たちは弱小の劇団だからね……いつでも赤字公演ばかりで、バイトと稽古を掛け持ちする毎日なんだ。表に見えている輝かしい部分だけが、現実じゃないんだよ」
ほんの少し悲しそうに笑いながら告げる団長の後ろで、他の劇団員達も、頷きながら苦笑を浮かべていた。
「ご両親とも良く話し合って、もう一度良く考えて、それでも気が変わらなければ、そのチラシに書いてある稽古場の住所を訪ねて来るといい。その時は、僕達も喜んで君を仲間に受け入れるよ」
俯いたままの僕の頭をポンと叩いて去って行く彼らを、見送るしか出来ない自分。
団長の言葉に嘘が無い事は、通い詰めたからこそ良く分かる。いつも空席が目立つ客席、劇団員達の着古したような服装。
僕の為を思って言ってくれたのだということも、分かっていた。
それでも、諦められなかったんだ。
色の無い毎日の単調な生活の中で、初めて出会った色鮮やかな世界。何に対してもなあなあで過ごして来た自分が、初めて自らチャレンジしてみたいと思えた事を、簡単に諦めるなんて出来なかった。
大学には未練なんて少しも無かった。
何度も親と話し合いの場を持とうとして、その度に頭ごなしに叱り付けられた。思春期の頃ですら碌に反抗期など無かったような僕の、しつこいまでの訴えに狼狽え、心配してくれる親の気持ちが分からないほど子供じゃない。
申し訳無いと感じる気持ちはあったけれど、譲れなかった。
ここで折れて、また周囲に流されるまま生きて行く事はしたくないと、あの煌く世界で自分を試したいと、粘り続けた。
結局最後には、頑なに僕の話を聞こうとしない親に逆らい、退学届けを勝手に出してしまったけれど、後悔は無かった。寧ろ、縛り付けられていたものから解き放たれ、妙に清々しい気分ですらあった。
そんな僕にもちろん親は激怒して、アパートも勝手に解約の手続きを取られた。
ある朝突然やって来た引越し業者に仰天しながら電話を入れた僕に、馬鹿な考えは捨てて帰って来いと。大学は来年もう一度受けなおせば良いと、そんな風に言われる始末。それが嫌だというのなら、二度と実家の敷居を跨ぐなとさえ言われた。
親としては精一杯の妥協案だったのだろう。
現実的に考えても、あの劇団に所属させてもらえたとして、実入りがあるとは思えない。将来を考えるなら、諦めた方が良いのは、誰の目から見ても明らかで。
だけど僕は、実家に帰るという道を、捨てた。
捨てられずにいたチラシと、身の回りの品だけを詰め込んだバッグを手に稽古場を訪ねる頃には、季節は既に冬になっていて。
「また演劇馬鹿が一人増えちまったな」
住家も何も無くして現れた僕を、団員達は苦笑交じりに迎え入れてくれた。
帰る家の無い僕へ、家に来ればいいと手を差し伸べてくれたのは、あの日僕にチラシをくれた男性、池上成治 だった。
団長曰く、弱小劇団犀【SAI】のホープである彼は、他劇団の作品へのゲスト参加や、端役ながら映画やテレビなどへの出演経験もあるのだという。
団長は結婚していて、狭い家にはとても他人が泊まり込めるスペースはない。かといって、他の劇団員達も、狭いワンルーム暮らしには変わりなく、ルームシェアをして過ごしている人達も少なくはなかった。だからと言って、女性団員の家に転がり込む事なんてもちろん出来るはずもない。
稽古場の片隅にでも置いてくれないかと頭を下げた僕を見兼ねて、池上は声を掛けてくれたのだろう。
「家は古くて狭いけど、お前が自分で部屋借りれるようになるまでの間位は、置いてやるよ。その代わり家事は分担だからな?」
そう言って微笑む池上の爽やかな笑顔に、一瞬どきりとした。
僕があの舞台で、一番目を囚われた人物。舞台上で一番輝いていた人。これからよろしくな、と差し伸ばされた手を握り返した僕は、思っても見なかった。彼へ抱いた憧れの気持ちが、恋心へと変化する日が来るという事を。
こうして僕の生活は一変した。
日中は稽古場へ通い練習に明け暮れ、夕方からはアルバイトに励む。
池上のアパートから徒歩で行ける範囲にあったお弁当屋さんで、丁度アルバイトの募集があったのも、運が良かった。時給は決して高くは無かったけれど、時折売れ残ったおかずをもらえたりして。持って帰った時の池上の食い付きっぷりが凄くって。居候の身としてはそれがまた嬉しくもあった。
慣れない事の連続で、体力的にはもの凄く疲れはしたけれど、毎日が充実していた。
一番下っ端で、演劇の経験が全く無かった僕は、まずはひたすら体力作りと発声練習からのスタート。腹筋、背筋、柔軟と、他の団員達の倍の時間を掛けてやらされた。稽古場までの往復は、勿論これも体力作りを兼ねてランニング。
籍だけ置いておけば良かった中高時代の部活では、大した活動もしてこなかっただけに、やる気はあっても身体がついて行かない日々。
身体中が筋肉痛で悲鳴を上げる中、それでも楽しかったのだ。
「じゃあ発声入るぞー。まずはあめんぼから!」
『あーめぇーんーぼぉー、あーかーいーなぁー、あーいーうーえーおー。うーきぃーもぉーにぃー、こぉーえぇーびぃーもぉー、おーよぉーいーでぇーるぅー』
「語尾までちゃんと出して伸ばせ! 変なとこで息継ぎ入れてんじゃねえぞ! 昌樹っ、足は肩幅っ! 喉じゃなくて腹から声出せ! 喉潰すぞ!」
「はいっ!」
発声練習ひとつとっても種類は様々で驚いた。
肺活量を鍛える為に、出来るだけ一音を長く発するあめんぼが終われば、スタッカートを入れながら、腹式呼吸を意識する為の練習。
声を発せずに声を届ける為の、シとスを使った無声音での発声練習がまた、難しかった。声を出すなと言われるのに、音が聞こえないと怒られる。
「歯を食い縛る感じで、隙間から息を吐くんだよ。ここ、この辺りに力籠めてみな?」
戸惑う僕の面倒を見てくれるのは、いつだって池上だった。
腹式呼吸の仕方も、池上から教わった。横になった状態で呼吸法を学んだのが、確か一番最初だったと思う。胸と腹にそれぞれ手を当てられて、普通に呼吸する時には胸が上下に動く事、腹式を使った時には本当にお腹が膨らむ事。
宛がわれた手の平の熱さが、少しだけ恥ずかしかった。
その日も朝から、いつ雨が降り出してきてもおかしくないような、曇天の空が広がっていた。
「うわ……降ってきた。傘持って出て正解だったな」
レポートに使う資料を求めて、いつもは足を向ける事も余り無い街中の大きな本屋へ行った帰り道の事だった。
冷房の効いた店内から外に出れば、一層湿度が不快に感じる。
「お兄さん、お兄さん、今から暇じゃない?」
「……え? 僕?」
冷たいものでも飲んで帰ろうかと辺りを見回せば、目に付いたのはコーヒーのチェーン店。ビニール傘を開いて歩き出した僕の後ろから、笑顔を浮かべた男性が現れた。
キャッチセールスの類かと警戒を深めた僕に、その人は「違う、違う」と大袈裟なほど首を振って見せる。
「こういうの、興味無いかな? 今日が初日なんだけど、チケット余ってて当日券も出るからさ、良かったら見に来て頂戴」
そう言って僕の手にチラシを無理矢理持たせ、いらないですと返そうとした時にはもう、男は違う人に声を掛けていて。
断るタイミングを掴めずにいるうちに、いつもこうしてティッシュだなんだと押し付けられてしまうんだ。
小さな溜息をひとつ吐きつつ入った目当ての店で、アイスコーヒーを注文した。グラスを片手に窓辺の席へと腰を下ろし、先ほど無理矢理押し付けられたチラシへと視線を落とした。
「小劇団、犀【SAI】……演劇?」
ふと窓の外を見れば、先ほどの男性が時計と睨めっこをしながら、必死にチラシ配りをしていて。劇なんかお遊戯会しか知らない僕には、そんなものに熱心になる気持ちが分からなかった。
だから本当に、単なる暇潰しだったんだ。
レポートの提出も、別に間際に迫っているわけでもない。アパートへ戻っても、誰かが待っているわけでもない。
チケットの値段だって、CDが1枚買える程度の金額だったし、携帯で劇場の場所を確認すれば、今いる場所からそれほど離れてもいなかった。時間だけは幾らでもあった僕は、何の気無しに、劇場へと足を運んだ。
「――何だ…これ……」
生まれて初めて自分で金を払って見た演劇。
それは、予想以上の刺激と興奮を僕に与えた。
チケットが余っていると言っていた言葉に嘘は無く、席はお世辞にも埋まっているとは言い難い状況。けれど、客席から目と鼻の先にあるステージでは、皆が一生懸命で、輝いていた。
ストーリー自体はハチャメチャで、何が何だか良く分からないのに引き込まれた。スポットライトの光を浴びて、大声を張り上げて、躍動感たっぷりに動き回る役者達の姿から、目が離せなかった。客席と一体になって笑い、泣き、感動し……こんな世界があるのだと、衝撃を受けたのだ。
公演が終わって自宅アパートへと帰ってからも、あの小さな空間で受けた大きなパワーが、身体中に満ち溢れているような気がして。
これまで何の夢も目標も持たず、ただ毎日を過ごして来た僕が初めて見付けた煌きが、あの場所には詰め込まれていた。
「僕も……やってみたい……」
そんな風に思うまで、時間は掛からなかった。
内向的な性格だという自覚もあるのに、いや、だからこそ憧れの思いが育ったのかもしれない。
スポットライトに照らされたステージ上で、別人になりきって、その脚本の中の世界に入り込む。自分なのに自分じゃない存在が、その場所には生きている。
舞台を思い返すだけで、言葉に仕切れない高揚感に全身が包み込まれた。
その日から僕は、公演が終わるまでの数日間、劇場に通い詰めた。
そしてその僅かな期間の間に、僕の気持ちは決まっていたのだ。
チラシの隅に小さく載っていた 『 劇団員募集中 』 の文字だけを頼りに、千秋楽を終えて出て来る団員を出待ちして、頭を下げた。
自分にそんな真似が出来るなんて、僕自身が驚いたけれど、その時の僕は必死だった。大学なんて辞めても構わない、経験なんて無いけれど、それでも自分もやってみたいのだと、震える声を抑えながら訴えた。
けれど、団長からの答えは思っていた以上に厳しいもので。
「俺たちは、自分らが馬鹿が付くほど演劇が好きだっていう自覚がある。だからまあ、どれだけ大変でも、好きな事だからと頑張れる部分が、多かれ少なかれあるんだ。けど君は学生だろう? 俺達の芝居を気に入ってくれた事は有り難いと思うが、一時の気の迷いでは続けていけないよ」
やんわりと窘められ、事実上、断られたのだ。
持っていたチラシを握り締めて、俯き唇を噛み締めた僕に、団長は続けた。
「俺たちは弱小の劇団だからね……いつでも赤字公演ばかりで、バイトと稽古を掛け持ちする毎日なんだ。表に見えている輝かしい部分だけが、現実じゃないんだよ」
ほんの少し悲しそうに笑いながら告げる団長の後ろで、他の劇団員達も、頷きながら苦笑を浮かべていた。
「ご両親とも良く話し合って、もう一度良く考えて、それでも気が変わらなければ、そのチラシに書いてある稽古場の住所を訪ねて来るといい。その時は、僕達も喜んで君を仲間に受け入れるよ」
俯いたままの僕の頭をポンと叩いて去って行く彼らを、見送るしか出来ない自分。
団長の言葉に嘘が無い事は、通い詰めたからこそ良く分かる。いつも空席が目立つ客席、劇団員達の着古したような服装。
僕の為を思って言ってくれたのだということも、分かっていた。
それでも、諦められなかったんだ。
色の無い毎日の単調な生活の中で、初めて出会った色鮮やかな世界。何に対してもなあなあで過ごして来た自分が、初めて自らチャレンジしてみたいと思えた事を、簡単に諦めるなんて出来なかった。
大学には未練なんて少しも無かった。
何度も親と話し合いの場を持とうとして、その度に頭ごなしに叱り付けられた。思春期の頃ですら碌に反抗期など無かったような僕の、しつこいまでの訴えに狼狽え、心配してくれる親の気持ちが分からないほど子供じゃない。
申し訳無いと感じる気持ちはあったけれど、譲れなかった。
ここで折れて、また周囲に流されるまま生きて行く事はしたくないと、あの煌く世界で自分を試したいと、粘り続けた。
結局最後には、頑なに僕の話を聞こうとしない親に逆らい、退学届けを勝手に出してしまったけれど、後悔は無かった。寧ろ、縛り付けられていたものから解き放たれ、妙に清々しい気分ですらあった。
そんな僕にもちろん親は激怒して、アパートも勝手に解約の手続きを取られた。
ある朝突然やって来た引越し業者に仰天しながら電話を入れた僕に、馬鹿な考えは捨てて帰って来いと。大学は来年もう一度受けなおせば良いと、そんな風に言われる始末。それが嫌だというのなら、二度と実家の敷居を跨ぐなとさえ言われた。
親としては精一杯の妥協案だったのだろう。
現実的に考えても、あの劇団に所属させてもらえたとして、実入りがあるとは思えない。将来を考えるなら、諦めた方が良いのは、誰の目から見ても明らかで。
だけど僕は、実家に帰るという道を、捨てた。
捨てられずにいたチラシと、身の回りの品だけを詰め込んだバッグを手に稽古場を訪ねる頃には、季節は既に冬になっていて。
「また演劇馬鹿が一人増えちまったな」
住家も何も無くして現れた僕を、団員達は苦笑交じりに迎え入れてくれた。
帰る家の無い僕へ、家に来ればいいと手を差し伸べてくれたのは、あの日僕にチラシをくれた男性、池上成治 だった。
団長曰く、弱小劇団犀【SAI】のホープである彼は、他劇団の作品へのゲスト参加や、端役ながら映画やテレビなどへの出演経験もあるのだという。
団長は結婚していて、狭い家にはとても他人が泊まり込めるスペースはない。かといって、他の劇団員達も、狭いワンルーム暮らしには変わりなく、ルームシェアをして過ごしている人達も少なくはなかった。だからと言って、女性団員の家に転がり込む事なんてもちろん出来るはずもない。
稽古場の片隅にでも置いてくれないかと頭を下げた僕を見兼ねて、池上は声を掛けてくれたのだろう。
「家は古くて狭いけど、お前が自分で部屋借りれるようになるまでの間位は、置いてやるよ。その代わり家事は分担だからな?」
そう言って微笑む池上の爽やかな笑顔に、一瞬どきりとした。
僕があの舞台で、一番目を囚われた人物。舞台上で一番輝いていた人。これからよろしくな、と差し伸ばされた手を握り返した僕は、思っても見なかった。彼へ抱いた憧れの気持ちが、恋心へと変化する日が来るという事を。
こうして僕の生活は一変した。
日中は稽古場へ通い練習に明け暮れ、夕方からはアルバイトに励む。
池上のアパートから徒歩で行ける範囲にあったお弁当屋さんで、丁度アルバイトの募集があったのも、運が良かった。時給は決して高くは無かったけれど、時折売れ残ったおかずをもらえたりして。持って帰った時の池上の食い付きっぷりが凄くって。居候の身としてはそれがまた嬉しくもあった。
慣れない事の連続で、体力的にはもの凄く疲れはしたけれど、毎日が充実していた。
一番下っ端で、演劇の経験が全く無かった僕は、まずはひたすら体力作りと発声練習からのスタート。腹筋、背筋、柔軟と、他の団員達の倍の時間を掛けてやらされた。稽古場までの往復は、勿論これも体力作りを兼ねてランニング。
籍だけ置いておけば良かった中高時代の部活では、大した活動もしてこなかっただけに、やる気はあっても身体がついて行かない日々。
身体中が筋肉痛で悲鳴を上げる中、それでも楽しかったのだ。
「じゃあ発声入るぞー。まずはあめんぼから!」
『あーめぇーんーぼぉー、あーかーいーなぁー、あーいーうーえーおー。うーきぃーもぉーにぃー、こぉーえぇーびぃーもぉー、おーよぉーいーでぇーるぅー』
「語尾までちゃんと出して伸ばせ! 変なとこで息継ぎ入れてんじゃねえぞ! 昌樹っ、足は肩幅っ! 喉じゃなくて腹から声出せ! 喉潰すぞ!」
「はいっ!」
発声練習ひとつとっても種類は様々で驚いた。
肺活量を鍛える為に、出来るだけ一音を長く発するあめんぼが終われば、スタッカートを入れながら、腹式呼吸を意識する為の練習。
声を発せずに声を届ける為の、シとスを使った無声音での発声練習がまた、難しかった。声を出すなと言われるのに、音が聞こえないと怒られる。
「歯を食い縛る感じで、隙間から息を吐くんだよ。ここ、この辺りに力籠めてみな?」
戸惑う僕の面倒を見てくれるのは、いつだって池上だった。
腹式呼吸の仕方も、池上から教わった。横になった状態で呼吸法を学んだのが、確か一番最初だったと思う。胸と腹にそれぞれ手を当てられて、普通に呼吸する時には胸が上下に動く事、腹式を使った時には本当にお腹が膨らむ事。
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