櫻花荘に吹く風~201号室の夢~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (5)

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 稽古を終えて、池上にこれまでの礼を再度述べた僕は、重い足取りでバイト先の弁当屋へと向った。大した荷物も入っていないのに、手にしたボストンバッグが手に食い込むようで。
 どのみち叶う見込みなど無かった恋なのだから、後輩として、池上の幸せを願ってやらなければと。
 気持ちを切り替えて頑張っていかなければと、自分自身に気合を入れ直して、今日から暫く厄介になる仮の住居へ、来たはずだったのに。

「――え……嘘……だろ?」


『 永らくのご愛顧 誠に有難うございました
 昨日の営業を持ちまして、都合により閉店させて頂きます
                   ニコニコ弁当 店主』


 夢を見ているのだと思った。
 悪い夢なら早く覚めてくれと願った。

「あら、やっぱり潰れたのねえ」
「何でも赤字で借金が凄かったそうよ? 夜逃げでもしたんじゃないの?」
 シャッターの下りた店の前で、呆然と張り紙を見つめる僕の後ろから、通り掛かった近所の奥さん達の声がする。
 赤字……借金……頭の中でぐるぐると文字が回る。
 信じたくなくて裏口の扉を捻っても、扉が開く事は無かった。扉の前には大量の煙草の吸殻が落ちていて、扉には蹴られたのだろう、無数の大きな靴跡がそこかしこに残されていた。
 ドアノブを捻ってみても、キッチリと鍵が掛けられたまま。窺い窓から中を覗いてみても、真っ暗な厨房が目に入るだけだった。
「兄ちゃん、無駄だぜ」
「っ!」
「お前ここでバイトしてた野郎だよな? その様子じゃ、行き先なんかも知らねえか」
「し…知りませ……あのっ、あの、何処に行ったか分からな、い…ですか?」
「そりゃこっちが聞きたいぜ。ったく、兄貴に何て説明すりゃいいんだよ」
 ゴミ捨て用のポリバケツの陰から、何度か弁当を買いに来た覚えがある、派手なシャツを着た男がのっそりと姿を現した。彼の姿が見えると、ご主人はいつも僕に接客を任せて、裏に引っ込んでいた事を思い出す。
 普段なら係わり合いにならないように、目を逸らして歩くタイプの男を前に、僕は震える声で問い掛けた。
「そんな……何で、こんな、急に」
「うちも困ってんだよなー貸したものは返せって話じゃねえか? ま、お前に言ったところでどうしようもねえけどなあ」
「バイト代……明後日が、給料日だったのに……」
「はは、無理無理。逃げた奴がそんなもん律儀に払うわけねえだろ? 無駄だとは思うが、兄ちゃん、もし連絡があったら、ここに電話して寄越せよ? んじゃあな」
 銜えていた煙草を靴先で踏み潰しながら、男が名刺を一枚押し付けてくる。しきりに参ったとボヤキながら去って行く男の後姿を、僕は立ち尽くしたまま見送った。

「本当に、借金してたんだ……」
 バイト代も切実な問題だったけれど、それ以上に問題なのは、今夜寝る場所だった。既に日は暮れ始め、冷たい風が足元の吸殻を揺らして通りへ消えて行く。
 先の事を考えなくてはと、冷静な自分が囁き掛けるけれど、僕の足は地面に縫い付けられたかのように、動こうとしてくれなかった。


 裏口の前にしゃがみ込んだまま、どれ位の時間が流れたのだろう。
「……寒っ」
 身を震わす冷えた空気にようやく腰を上げ、行く当ても無いまま歩き出す。
 池上のアパートへ、今夜もう一晩だけでもと頼みに行こうか……一瞬過ぎった考えは、頭を振って打ち消した。同郷から出て来ている友人を頼ろうかとも思ったけれど、突然押しかけるなんて迷惑は掛けられない。
 とぼとぼと歩きながら、目に付いたハンバーガー屋に飛び込んだ。
 百円のハンバーガーと、自販機で買うよりも安い値段で買えるコーヒーを買う。温かいコーヒーが飲みたかったけれど、氷が入っている分嵩が増えるとアイスコーヒーを頼んだ自分に、思わず苦笑が漏れる。
 奥の方の空いていた席に腰を下ろして、パサ付いたバーガーを齧りながら、財布の中身を確認してみた。3回ほど数えたところで、何回数え直しても、中身が増えるはずはないと諦めた。
「こんなの一個じゃ、足りない……」
 バイトのある日は賄いが出るからと、今日もそのつもりで昼から何も食べていなかった。
 先の事を考えれば、無駄に追加注文も出来なくて。いつまでいるんだと問うような店員の視線を感じつつ、ちびちびとコーヒーを啜って時間を潰した。

 そろそろ桜も満開だと、昨夜のニュースでやっていたけれど、まだまだ外で夜を過ごすには厳しい季節。少しでも長く、温かい店の中にいたくて粘ったけれど、0時を過ぎた辺りで、さすがに罪悪感が沸いて店を出た。
 取り敢えず朝が来るまでは、凍えないように動き回ろうと決意する。
 夜が明けたら団長に連絡を入れて、とにかく住む場所を探そうと。この際家賃が高いだ安いだと言っていられない。敷金礼金の無い部屋を探して、ひと月でもふた月でもいいから、その間にちゃんと部屋を見付けようと。
 歩き回って、寒くてどうしようもなくなったら、コンビニを見付けて温まった。序でに住宅情報誌を立ち読みして、目ぼしい場所はないかと目を凝らしたけれど……働き口を失った自分に、果たして部屋が借りられるのかという疑問も湧いて来て。

 初めてもらえた役。僕の初舞台。それがもう間近に迫っているのに、実家へ頭を下げて戻るしかないのだろうか。
 折角見付けた煌く世界を、諦めなければいけないのだろうか。
 それだけは、嫌だ。
 悪い事が重なれば、自然と気持ちも滅入ってくる。どうしたら良いのか先が見えないまま、ただひたすら歩き続けていた僕が、何度目かの溜息を吐いた時、頭上から一片の花弁が降って来たのだった。



 手の平の上で淡い光を放った花弁に誘われて、僕はこの庭に辿り着いた。
『こちらへおいでなさいな』
 耳に届いた不思議な声は、寒さと空腹が齎した幻聴だったのかもしれないけれど。
 一晩中彷徨い歩いて、体力はもう限界で。精神的な疲れもあったのだろう。大きな桜の幹に身体を預け、薄桃色に光る頭上を見上げているうちに、記憶が途切れた。
 気付いた時にはこの場所で、温かな毛布に包まれていて。


「……ご迷惑お掛けしてすみませんでした」
 池上へ恋心を抱いていたという部分は省きながらも、大まかな経緯を説明し終えた僕は、静まり返ってしまった空気に居た堪れなさを感じて、顔を上げる事が出来なかった。
 住む場所や働き口を無くして彷徨う、位なら、僕以外にもそんな人間はいるだろうと思う。けれど桜に呼ばれただなんて……そんな話、信じてもらえるはずがない。
(言わなきゃ良かった……)
 話しているうちに、自分の余りの情けなさが身に染みてきた。こんなのだから、親にも考えが甘いと反対されたのだろう。足元を整えるまで待ち切れなかった自分の思慮の無さが、恥ずかしい。
「すっげえなあ。まーくん、桜と喋ったんだ?」
「……え? 信じてくれるんですか?」
「信じる信じる! いや俺もさ、あの桜は何かそういう力持ってるんじゃないかと思ってたんだよね!」
 俯き小さくなる僕の耳に届いたのは、予想外に明るい良太の声だった。
「お前はバカか? 桜が喋るわけねえだろ!」
「分かんねえよ? 俺たちに聞き取る力が無いだけかもしんねえじゃん?」
「うん、ボクも信じるよ。大変だったね、まーくん」
「春海? お前まで……」
 みっちゃんの反応が極一般的な反応だと、自分でも思う。それなのに、春海さんまで信じると言ってくれた。しかも、瞳に涙を浮かべて。
 話した僕だって信じ切れていないけれど、二人の態度に驚きながらも、信じてもらえた事が嬉しかった。

「ねえみっちゃん……」
「う……駄目っ! 駄目駄目駄目!」
「いいじゃん、部屋もひとつ余ってんだしさーケチケチすんなって」
「源じいだったら絶対良いって言ってくれたと思うよ! それにここの桜だって認めてくれてるんだから! お願いみっちゃん!」
「桜って――お前らなあ……」
 頭を押さえて天井を見上げたみっちゃんに、春海さんと良太が身を乗り出した。突然飛び交い始めた遣り取りの意味が分からず、僕はおろおろと三人を見守る事しか出来ない。
「そういう問題じゃねえだろ? 第一、慈善事業やってるんじゃねえんだ。身元引受人もいない、職も無いんじゃ何かあった時に困るだろ」
「みっちゃんとこ、大学生が卒業で学生バイトいなくなるって言ってたじゃんか。一石二鳥じゃね?」
「いやそれ、言葉の使い方間違ってるぞ、良太」
「みっちゃん、どうしても駄目? お願い! 袖振り合うも他生の縁って言うし……」
 話は良く見えないけれど、どうやら三人が僕の事で揉めているらしい雰囲気は伝わって来る。どうしたら良いのかと狼狽えながらも、口も挟めず。
 その時、大きな音を立てて、携帯が着信を告げた。
「あ……す、すみませんっ」
 見れば液晶に池上の名前が出ていた。稽古が始まる時間まではまだあるのに、何かあったのだろうか?
 電話を手に固まる僕に、出ていいぞとみっちゃんが促してくれる。その言葉に甘えて、頭をひとつ下げて席を立った。

「はい」
『昌樹? お前何処にいるんだ? ランニングに出たら弁当屋閉まってるからビックリして……』
 僕を心配して電話を掛けて来てくれたのか。池上の優しさが嬉しくて、切ない。
 池上には他意など何も無いのだ。ただ本当に、僕がいるはずだった弁当屋に貼られた張り紙を見て、心配してくれただけ。
 それが分かっているから、余計に頼れないと思った。言われるだろう言葉に備えて、言葉を探す。
『行くとこ困ってんなら、やっぱりもう少し家に……』
「それは駄目ですよ。折角邪魔者がいなくなったんですから、演劇以外はちゃんと彼女さんの事構って上げて下さい。ふられちゃいますよ?」
『でも昌樹』
「大丈夫です! 何とかしますから、ね? あ、申し訳無いんですけど、団長に今日はお休みしますって伝えて下さい。住むとこと仕事探さないと」
 本当に、どこまで僕を好きにさせる気なのだろう。
 諦めなきゃと分かっているのに、こんな風に優しくされるから、想いを吹っ切ることが出来ない。万に一つでも、僕に振り向いてもらえるチャンスがあるかもしれないなんて、馬鹿な夢を抱きそうになる。
『――金、あんのか? いや、俺も貸せるような金は無いけど……寝る場所が見付かるまでならさ……だから無理すんな、アイツだってそんな薄情な事言うよな女じゃ無いし』
「あー……はは、ありがとうございます。何とか、しますから。それじゃあ、済みません、今ちょっと取り込み中なので切りますね。団長には後でちゃんと、僕からも連絡入れるって言っておいて下さい」
 セリフがたったひと言の大根役者な僕だけど、ちゃんと演じられただろうか。
 努めて明るく言い放った僕に、電話越しの池上が一瞬黙り込んだ。
 どうにもならなかったら遠慮せずに頼れと、そう言って通話を切った彼に、ほんの少しだけ泣きたい気持ちになったのだけれど。
「どうにかするってどうするつもりなのー?」
「……え?」
 背後から聞こえて来た良太の声に驚いて振り返れば、三人がじっと僕を見ていた。


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