櫻花荘に吹く風~201号室の夢~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (19)

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 どうしたものかと視線を廻らせれば、いつの間にか食卓には由野さんの姿も見えて。
 春ちゃんの嬉しそうな表情と、そんな春ちゃんへ注がれる由野さんの柔らかな微笑みが、少しだけ羨ましく感じる。
「よしっ、……まーくん?」
 自分に気合を入れ直して、まーくんの真後ろへと立ってみる。
 気持ちを整えて再度呼び掛けてみるものの、自分の世界に入り込んでしまっているのか、まーくんからの反応は帰って来ない。
「はぁ」
 それまで桜の木へと向けられていたまーくんの視線が、手元へと落ちた。それと同時に聞こえて来た溜息の理由が気になりながらも、両手に大事そうに抱かれたマグカップを目にした途端、嬉しさの方が勝ってしまう。
 単純だって言われたって構うもんか。だってまーくんの視線の先にあったのは、あの日俺がプレゼントした、まーくんのイメージで選んだマグカップだったのだから。
「ご飯だよ!」
「うわっ!」
 前屈のような体勢で上から覗き込めば、こちらがビックリするほどの勢いで、まーくんの肩が跳ね上がった。
 これ以上無いというくらい目を見開いた驚きの表情が、妙にツボにはまる。
「ぶっ……はははっ、まーくん驚き過ぎだから!」
「良、くん――もう、びっくりさせないでよ……」
「ごめんごめん! だってまーくん何度呼んでも気付かないからさ」
 笑いを堪える事が出来ない俺を見て、まーくんがちょっぴり拗ねたように唇を尖らせる。そこには先ほどまで纏っていた憂いを含んだ様子も、儚げな印象も残っていない。
 錯覚だったのだろうかと思うほど違って見えるというのに、こんな表情もやっぱり俺には魅力的に見えてしまうんだ。
(参ったなあ、俺、思ったより重症っぽい?)
 内心ではそんな風に感じる気持ちもあるのに、まーくんがしっかりと握り締めたカップを見ている姿に、心の中が浮き立つ。
「落とさなくて良かった……」
 春の風に消されてしまうくらいの小さな声ではあったけれど、その言葉に嬉しさは増していく一方だった。
「味噌汁冷めるぜ? 早く行こう」
「あ、うん」
 目の端に浮かんだ涙を拭いながら片手を差し伸べれば、躊躇いがちにまーくんの手が伸ばされる。その手を掴んで立ち上がらせながら、前にも後ろにも身動きが取れない自分の感情を振り切るように、朝の食卓へと向かったのだった。



 彼に対する想いは、いつから自分の中に芽生えていたのか。
 このところずっと考えてはいるのだけれど、ちっともその『瞬間』が思い浮かばない。気付いた時には既に目はまーくんを探していたし、何かに付けて思い出すのはまーくんの事ばかり。
「んー……わっかんねえなあ」
「あん? 何処が分かんねえんだ?」
 自分の担当箇所である屋根のペンキを塗りながら、考えていたのはやっぱりまーくんの事で。頭の中で言ったつもりの言葉を、どうやら口にまで出してしまっていたらしい。
「あっ、違う違うホリさん! 何でもないっ」
「ボーっとしてっと屋根から落ちるぞ? 集中しろ、集中。ムラが出てるぞ」
 少し離れたところで同じように作業をしていた社長ことホリさんが、慌てて否定する俺の様子に首を捻っていた。
ヤバいヤバい、今は仕事中だっつうの。手元を見れば、確かに色ムラが出来ていて焦ってしまう。
「すんませんっ」
「ああっと、そろそろ10時か……休憩にすっか。続きは後でだ」
「俺飲み物買って来ますよ、何が良いっすか?」
 頭を下げてローラーを持ち直した俺に向けて、苦笑を浮かべたホリさんが、時計を見ながら腰を伸ばした。

 作業具を簡単にまとめて下に降りる。
 この仕事について1年が過ぎ、高いところでの作業にも大分慣れたけれど、やっぱり地面の上に両足を着けると落ち着く気がする。
「俺はコーヒーな、冷たいやつにしてくれ」
「ご馳走様でっす!」
 タバコに火を点けながら、ポケットから探り出したワンコインを投げて寄越すホリさんへ頭を下げ、近くの自販機へと向う。
 首から提げていたタオルで汗を拭いつつ、出てくるのは溜息だった。
「情けねえなあ、俺」
 ホリさんの分のコーヒーと、自分用のスポーツドリンクを購入して戻りながら、前に進む事も出来ず、かといってまーくんと出会う前の自分にも戻れず、うだうだとしている自分が本気で不甲斐無く感じた。

 ふと視線を上げれば、さっきまで自分が上がっていた民家の屋根が目に入る。
 今日の作業は、というよりも、このところの主な仕事は民家の屋根のペンキ塗りだ。梅雨入りが間近に迫るこの時期は、屋根の補修やペンキの塗り直しの依頼が多くなる。
 浮いたサビや剥がれたペンキのカスを削り取り、凹凸を削り取ってペンキを塗って綺麗に仕上げる。手間は掛かるけれど、やり終えた時の爽快さも感じる作業は嫌いじゃ無い。
「あんな風にすっきり出来りゃ良いのに」
 塗りの終わっていない部分の、色の剥げたボロボロのトタン。その一方では、新たに色を塗られて光り輝く屋根。
 自分の心の中も、ペンキを塗り替えるようにすっきりと、綺麗な色で塗り替えられればどんなに良いだろう。
「さっきから何ぶつぶつ言ってんだ?」
「あーいや……」
「釣りはとっとけ。15時の休憩分はそれから出せよ」
「へーい、て、大して残んねえじゃん」
 ホリさんの隣に腰を下ろしながらも、浮かない気分はそのままだった。
 いつもの自分を取り戻せずにいる俺を見兼ねたのか、ホリさんが大きく息を吐き出した。
「良太、お前が悩んでる姿ってのは、本当似合わねえな」
「うわっ、酷いホリさん」
「どした? 俺で良かったら話くらい聞くぞ?」
 二本目のタバコに火を点けながら、ホリさんがわざと茶化して訊ねてくれる。
 見た目は強面で近寄り難い印象を与えるホリさんだけど、本当は優しくて懐が深い人だって事は、この一年彼の下で働いていてすごく良く分かった。
 今だってきっと、俺の様子がおかしい事を気に掛けて、こうして少し早めの休憩にしてくれたのだろう。茶化しながらも、瞳の奥には俺を心配してくれている想いが見て取れる。

 俺が気を遣わなくて良いようにという心遣いは嬉しいけれど、流石に男相手に自分が悶々としてるだなんて、そこまでぶっちゃけることは出来なかった。だけど、ホリさんの気持ちが伝わって来るだけに、誤魔化す事も失礼な気がして。
 何より自分ひとりで考えていてもさっぱり答えなんて出てこない事柄に、元々考えるより行動に移すタイプの俺としては煮詰まっていたのも事実だった。
「ホリさんさあ……なんで今の奥さんと一緒になろうって思ったの?」
「あ? 何だ急に?」
「いやあ、誰かを好きなるって、どんな感じなのかなあって。そういう相手と出会って結婚するって、この人だっ! って、どうやったら分かるのかなあって」
 俺には両親という存在が無いから、分からない。
 仲良くしていた連中はいても、その親とは付き合いが無いから、夫婦というものがどういったものなのかが分からない。
 家族って存在がどういう意味を持つのかが、分からない。誰かを愛し、生涯を共に過ごすという事の意味が分からない。
 俺が今こうしてまーくんの事が気になるのが、恋愛という気持ちから来るものなのかも、自信が無い。
「お前も一丁前に色恋沙汰に現抜かしてるんだなあ」
「いや、そんなんじゃなくてさあ」
 眉を寄せて告げた俺を見て、ホリさんが面白そうに笑みを浮かべた。

 そう、決してそんなんじゃないのだ。俺にとってはそれ以前の問題なのだ。
 【 セックスしたい=相手の事が好き 】
 そんな単純な図式での計算で成り立っていた若い頃の自分。もちろん今だって、大なり小なり好きな気持ちが持てなけりゃ、セックスしたいとはそうそう思わない。
 そりゃあナイスバディな女の子だったり、セクシーポーズを決めるグラビアアイドルやAVを見れば、男の機能が首を擡げる。擡げるけれど……まあ自分の両手があれば事足りる。
 挿入時の気持ち良さには叶わなくても、熱を吐き出せば取り敢えず満たされるのであれば、それでいいかとも思ってしまう。


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