キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (1)

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 少しずつ春の気配が濃く感じられるようになって来た4月の初旬。
 今冬の寒さに遅れていた桜の開花も、数日の内には発表されるだろうと、目に入った自宅近所の小さな公園に植樹されている桜の木を横目で眺めつつ思う。夕暮れの中にあって、桜の枝先には丸々と膨らみ飛び出すタイミングを待ち構えている蕾が見て取れた。
 暖かな気候に着ていたコートを腕に掛け、カートの音を響かせながら橘川悦郎キッカワエツロウはマンションへと続く緩やかな上り坂を、ゆっくりとした歩調で歩いていた。春の軽やかな空気とは裏腹に、進める足の動きは重い。
「ったく、人遣いが荒いっつうの」
 マンションのエントラスが見えてきたところで、堪えていた愚痴が口を突いて出る。引き摺り歩いていたカートの中には、数日分の汚れ物と、橘川の溜息がたっぷりと詰め込まれていた。


 年度末の目が回りそうな忙しさをやっとの思いで乗り越えたばかりである。本来ならば多少はのんびりと身体を休められたはずだというのに……無意識に零れ落ちた溜息に苦笑しながら、マンションとは名ばかりの古い5階建ての建物へと入った橘川は、少しばかり表情を緩めた。
 もうあと数分もすれば、愛しい恋人の待つ部屋と辿り着く。
 明日は土曜で、休日出勤の予定も無い。ひと寝して身体の疲れを癒したら、思う存分恋人の甘さに溺れようと思いを馳せれば、ささくれていた心が少しばかり軽くなった気がした。

 上司から突然の出張を命じられたのは、一週間ほど前のことだった。

『橘川、急で悪いんだが、明後日から始まる新人研修のオリエンテーションを頼む』
『は? 俺がですか?』
 出社して早々小会議室へと呼び出された橘川に、部長が手にしていた資料を手渡しながらあっさりと告げて寄越す。寝耳に水の話に眉を顰めながら資料を受け取れば、目の前の部長もまた苦い顔をしていた。
『当初は武内に頼んでいたんだがなあ』
『武内さん、どうかしたんですか?』
『虫垂炎だそうだ。緊急入院で手術だと、昨日の夜に連絡があったんだよ』
『虫垂……って、盲腸ですか?』
 溜息混じりに教えられた内容に唖然とする橘川に、そういう事だからと部長が頭を下げてくる。
『オリエンテーションで使用する予定の資料は、武内が全て準備してくれているから、お前はそれを使ってスケジュール通りに進めてくれれば良いから。頼んだぞ』
『え……』
 厚みのある数点の資料に目を落とした隙に、部長は会議の時間だからと去ってしまう。まだまだ新人である橘川に、上司からの命を断れるはずがない事が分かっていての抜擢だろう。

 橘川の勤める大手家電メーカー菱和電機では、入社数年目の社員が新人指導に携わる習わしがある。
 覚えることだらけで右も左も分からないまま突っ走る1年目。
 少し仕事にも慣れ、仕事の面白さに気付き始める2年目。
 多少の失敗や壁にぶち当たりながら、それを乗り越えた3年目。

 新入社員との年齢の開きが少ない社員ならば、新人も無駄に構え過ぎる事もなく、身近な話だと感じながら仕事に取り組める。部署に配属されれば、自分の親と大差無い歳の社員達が大勢いるのは当然のこと。その前にまずは近い年齢の社員を宛がい、緊張を解きほぐして一日も早く環境に馴染めるようにとの配慮があるらしい。
 橘川自身も新人の頃に受けたオリエンテーションのおかげで、思っていたよりも早く会社に溶け込む事が出来たと思うし、その時の指導担当だった先輩社員には、今でも相談を持ち掛けたり出来るという繋がりを持つ事も出来て感謝はしているのだけれど。
『……マジかよ』
 ずっしりとした重みのある資料を前に、今日は夜中まで掛かりそうだと橘川の肩が落ちる。幾ら資料があるからといって、目も通さず、中身を理解もせずに研修に臨めるはずがない。
 舌を打ち鳴らしながら携帯を開き、恋人へとメールを一通送信する。
 このところ忙しさの余りちっとも構ってやれていない恋人からは、すぐに返信のメールが返って来た。
『今夜は帰りが遅くなる』と書き入れただけのメールに、怒る事も無く優しい言葉を返してくれる出来た恋人に対し、橘川は心の中で安堵の息を吐いたのだった。
 その後恋人へのフォローの時間も持てないまま準備に追われ、入社式を終えたばかりの新入社員たちと一緒に、郊外にあるペンションでの泊り込みで開催されるオリエンテーションに参加し、担当研修を終えて一足先に家路に着いたのだった。


 3泊4日という時間は、短いながらも学生時代を思い出すような窮屈さに、通常の仕事以上に疲れが溜まる。
 直帰で良いと言ってもらえたのがせめてもの救いというべきだろうと、久々の我が家へと一歩入れば家の中は静まり返っていた。
「……ただいま」
 掛けた声に返ってくる言葉の無い室内の様子に、何だか少しばかり落ち着かない気分にさせられる。
「んだよ、まだ帰ってねえのか」
 残業の多い橘川が帰宅する頃には、大抵家の中には恋人の姿があるのだけれど。
 灯りの点いた室内には生活音が満ち溢れ、あまり得意では無かったはずの料理を自分のために覚えてくれた愛しい相手が、「おかえり」と笑顔で出迎えてくれるのが常だった。
「……取りあえず、風呂入って少し寝るか」
 時計を見ればまだ17時を少し回ったばかり。
 幾ら恋人の方が帰宅が早いとはいっても、さすがにこの時間に帰っていないのは仕方の無いことだ。
 荷物の片付けもそこそこにシャワーを浴びた橘川は、二人で寝る為に買ったセミダブルのベッドへと潜り込む。
 玄関に自分の靴があることに気付いた恋人が、満面の笑みで起こしに来るだろうと期待しながら、疲れた身体をスプリングへと沈めた。


「ん……あれ? 何時だ……」
 恋人と付き合い始めた頃の、幸せな記憶を夢に見ていたような気がする。ふっと意識が覚醒して見回した室内は暗闇に覆われたまま、橘川が帰宅した時と何ひとつ変わっていない。
「22時過ぎ……あいつ、まだ帰ってないのか」
 ひと眠りしたおかげか、大分すっきりした気分でダイニングキッチンへと続く扉を開ける。
 自分達の関係を知らない相手に対して、ルームシェアという言葉が通じるようにと借りた2DKの部屋。ダイニングのスペースをリビング代わりに使い、二人一緒に寝るための寝室と、カムフラージュ用に名目上は恋人の部屋としてあるもう一部屋。
 駅からは少し歩くけれどその分家賃もお手頃で、物件を見に来て即決したのを覚えている。

「暗いし――」
 もしかしたら寝ている自分を起こさないようにと、音を絞ってテレビを見ているのかとも思ったけれど、静まった室内は暗いままで物音ひとつしていない。
「メールも電話も来てない……何やってんだ」
 いつも帰宅の遅い橘川とは違い、飲み会でも無い限り20時には遅くても帰宅しているはずなのに。
 折角自分がのんびり出来る貴重な時間だというのに、そこにいるべき存在がいないことに、妙な苛立ちを感じる。
「歓迎会、とか?」
 舌打ちをしながら暗い室内に灯りを点し、互いの予定を書き込んでいる壁のカレンダーを覗いてみても、そんな予定は書き込まれていなかった。
 互いの、とは言っても、殆どが橘川の予定で埋め込まれているカレンダー。それも橘川自身が書き込んだわけではなく、ポツポツと告げた予定を恋人が勝手に書き入れているだけの物だけれど。
「電話して……いや、やっぱメールか」
 万が一電話に出ることが出来ない状況であればまずいと考え直し、メール画面を開く。
 『今どこだ? 腹減ったんだけど』と、いつもの調子でメールを送信した橘川が、飲み物を取りにキッチンへ入ったところで、送信を終えたばかりの携帯が着信を告げた。



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