キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (2)

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 返信が返って来るにしては余りに早過ぎるタイミングに、首を捻りながら受信メールを開いて、固まった。
「……は? え?」
 送り先が見付からないと表記されたメールに、背筋がすっと冷たくなる。自分以外誰もいない部屋をきょろきょろと見回しながら、帰宅時から感じていた違和感に眉を寄せると、橘川はリダイヤル機能から恋人の電話番号を探す。
「んだよ……俺、こんなにアイツと電話で喋ってなかったのか?」
 中々出てこない名前に痺れを切らし、リダイヤル画面では無く電話帳から呼び出した番号に急いで掛ける。

『お客様のお掛けになった番号は……』

 機会質で無情な音声が耳に届いて愕然とした。
「……嘘、だろ……っ」
 それでもまだ、携帯が壊れたのかもしれないだとか、キャリアを変えたのかもしれないだとか、そんな言い訳を並べながら橘川はぎくしゃくした足取りで家の中を見て回った。
 そこには確かに恋人の痕跡はあるのに、疑りの眼差しでひとつひとつをチェックすれば、恋人の持ち物が確実に減っていた。
「智久――――何で……」
 恋人の物だった大きなスーツケースも、クローゼットに掛けられていたスーツ類も、お気に入りだった洋服も靴も。残されている物が何も無いというわけでは無いけれど、明らかにおかしいと感じるほどに、家の中から物が無くなっている。
 これで自分の物も一緒に消えているのなら、泥棒にでも入られたのでは無いかと思えたかもしれない。しかしそう思い込むには難しい現状に、橘川は呆然とするしかなかった。

「そう、か……違和感感じたのは、これだったのか」

 家の事は大概恋人に任せっ放しではあった。それでも、これほどまでに綺麗に片付いた家の中を見たのは、このマンションに引っ越して来たばかりの頃以来ではないだろうか。

 洗面所に並んで置いてあった歯ブラシも、橘川の分がひとつ、ぽつんと寂しく残されていた。まるでこの場所に取り残された自分を見ているような光景に、寒気を感じる。
「落ち着け。アイツの会社に連絡入れれば、少なくても話くらい出来るはずだ」
 動揺しながらも自分自身に言い聞かせるように言葉を口に出せば、ほんの少し冷静になれる気がした。
「……カップラーメン、あったよな……」
 あくまでも日常を装おうとするけれど、無理に元気に振舞おうとしても上手くはいかない。
 ぼんやりとしたまま湯を沸かし、探し当てたカップ麺へと注げば、眉を寄せる恋人の顔が浮かび上がってきて。
『悦郎、またそんなのばっかり食べて……ちゃんと飯を食え! 野菜も食え! メタボになったって知らないからな!』
 少し癖のある黒髪を揺らしながら、橘川よりも幾分低い位置から上目遣いに睨み付けて来る大きな瞳。細い身体全体で、自分を心配しているのだという気配を醸し出しながらも、敢えてそれを口にすることの無い意地っ張りな……けれど寂しがり屋の恋人。
「冗談だよな、智久……帰って来るだろ?」
 いつの間にか伸びてしまっていた麺を啜りながらの呟きに、返事は無いままで。結局その日、恋人である内海智久ウツミトモヒサが帰って来ることはなかった。



 智久とは、橘川が大学生の時に知り合った。
 通っていた大学は別のところだったけれど、入っていたサークルの親睦会で、二人は出会った。

 当時から就職難の影響で新卒の採用は厳しいと評されていただけに、大学に合格したからといってのほほんとはしていられなかった。
 高校OBの先輩の話を聞いて、就職に際しての心象も良くなるらしいというだけの理由で、橘川はボランティアサークルへと身を置いた。ボランティアなど、毎年夏に黄色い箱へ小銭を入れるくらいしかした事が無かったというに。

「隣良い?」
「え? ああ……」
 折角の週末だというのに、その日は養護施設の運動会のボランティアに借り出された。月に一度は最低でも出ておかなければ活動歴にはならないと脅されて、橘川も渋々ながら参加した。
 言っても気楽な大学生だ。橘川の友人達の多くは、飲み会目当ての楽なサークルに籍を置いている。何で自分だけが休みを潰してまでこんな事をしなければならないのかと、橘川自身が選んでこのサークルに入ったという事実は棚上げしながら、内心燻っていたのだけれど。
「俺は内海、よろしく」
「……橘川です、どうも」
 幾ら就職にプラス評価として繋がるとはいっても、実際にボランティアサークルに身を置く人はさほど多くは無かった時代。
 少し規模の大きなイベント等へ行けば、2つから3つの大学からそれぞれのサークルが集まり、分担して作業を手伝うことも割りと良くあることだった。
 無事に運動会を終え、撤収作業までをこなした後は、サークル飲み会が催される。他校との交流を深めようという意図もあるらしい。
 一日動き回った後のビールの美味さを感じる瞬間だけは、充実感を実感出来たりもした。疲れた身体に酒は直ぐに回る。橘川も例外ではなく大分良い感じに酔いが身体を満たして来た頃、隣の席に移って来たのが智久だった。
「トイレ行って来たら場所取られてて」
「ああ……何かもう、無礼講状態だもんな」
 苦笑しながらジョッキを煽る智久の、サバサバとした口調が良いなと思った。

 最初に感じた印象なんて、そんな程度のものだった。
 隣に座って会話を交わすうちに親しくなって、携帯の番号とアドレスを交換し……それだけで終わるはずの出会いだったのだけれど。

「あれ? 橘川?」
「内海……何、お前、ここでバイトしてんの?」
「俺んちここから近いんだよ。お前は?」
「俺も、アパートが直ぐそこだから」
 数日後、食料品の買出しに出向いた近所のスーパーで、ばったり智久と再会した。これまでもしょっ中利用していた店だというのに、智久が働いていたなんて全く気付いていなかった。
「マジで? 超近いじゃん! 今度飲もうぜ」
「ああ、そうだな」
 知った顔に会ったことが嬉しいと、隠す事無く表情に表す智久の様子に好感を持った。品出しが残っているからという智久の言葉に、その日はそれで終わったけれど、橘川はそれ以来買い物に行くのが楽しみになった。

『今日はシフト入ってるのか?』
『今日は17時からラスト! 売れ残りの惣菜安く買えるけど、どうする? 飲むか?』
『じゃあ店が閉まる頃に酒買いに行く』
『オッケー、待ってる』

 別に友達が少ないわけでもないのに、智久とそんなメールの遣り取りを交わし、共に過ごす時間がいつの間にか待ち遠しくなっていた。
 ころころと変わる表情は見ていて飽きない。
 店の中で迷子の子供がいれば、手を引いて一緒に親を探して歩く優しい男。意地っ張りで、疲れていても元気なふりを決め込んで、いつでも明るく振舞う男。
 そんな男が実は案外と寂しがり屋で、橘川からの連絡が数日無いと『そろそろ会いたいんじゃねえの?』などと茶化したメールを送って寄越す。
 お互いスポーツ観戦が好きだという事くらいしか、共通点は無いというのに、不思議と智久と一緒に過ごす時間は、橘川にとって心地の好いものになっていた。そしてその心地好さが恋愛感情へと育つのに、時間は掛からなかったように思う。

 苗字で呼び合っていた二人の呼称が、それぞれ名前で呼び合うようになった頃、橘川は自分の感情に気付いた。
 何が気に入っただとか、どこに惚れたとか、そんな理由を並べ立てるより先に、橘川の心は急速に内海に傾いていた。他の誰かに奪われたくないと、自分だけのものにしたいと思うようになっていた事に対して、動揺しなかったわけではない。
 これまでの人生、取り立てて努力などしなくても、それなりに彼女と呼べる相手もいた。それらは全て相手からのアプローチに乗っかる形で始まった付き合いで、それが普通のことだと思っていた。

「俺、ホモになっちまったのか?」

 20年弱の人生が覆されたような言い知れぬ不安も感じた。
 けれど不安を払拭しようと女性の誘いに乗ってみても、欲望は満たされるのに心はどんどん渇望していく。そればかりか、女性を抱きながら内海を重ね見ている自身に気付いて、動揺は深まるばかりだった。
 少し距離を置けば冷静になれるかもしれないと、試してみたりもしたけれど、会わないでいればいるほど会いたさが募る。
『最近付き合い悪いけど、彼女でも出来たのか? 俺、用済み? 酷いわダーリン!』
 挙句に内海から泣き笑いの絵文字付きでこんなメールが送られて来てしまえば、顔を見たいという欲求に逆らうことなど出来なかった。


「俺さ、智久の事が好きっぽいんだけど」
「は?」
「いやだから、お前に惚れてる……みたいなんだよ」
 半年以上の時間を悩み抜いた橘川が、意を決して想いを伝えたのは、内海と出会って一年半ほどが過ぎたある冬の日のことだった。
「……ぽい、とか……みたい、とか言われても――ってか、俺、男だけど?」
「んなこと分かってる。俺もずっと何かの間違いだろうって考えてたんだけどな……今こうして智久と一緒にいて、男のお前を抱きたいって思うってことは、やっぱり、好きだからだと思うんだ」


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