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キスからの距離 (8)
しおりを挟む多少の経験は内海にだってある。けれどその経験は全て、内海と同じように男性に対して魅力を感じる相手とばかり。そういう仲間が集まる店で出会うのだから、当然と言えば当然のことだ。
だからこそ内海はいつだって構え過ぎることなく、快楽だけを追っていられた。
そんなセックスの経験しかしてこなかったからこそ、余計に不安だったのだ。
裸になった内海を見た橘川が、夢から覚めてしまうのではないかと。
身体の繋がりだけが全てでは無いと分かっているけれど、セックスのない恋人関係なんて寂し過ぎる。ともすれば幸福な時間が終わってしまう可能性を秘めたノンケとの初夜だけに、緊張するなという方が難しかった。
「は……智久――ッ」
「んっ、あ、あっ悦ろ……」
内海の緊張も不安も吹き飛ばしてくれるほどの、交わり。
橘川の経験の豊富さを教え込まれているようで、ほんの少し胸が痛んだ気はするけれど、内海の思考はあっという間に快楽の渦へと飲み込まれていった。
今までの経験は何だったのかと首を捻りたくなるくらいに、橘川との初めてのセックスは気持ち良くて。
熱い楔を奥深くへと穿たれながら、内海は無我夢中で橘川へと縋り付いた。二人の間にある境界線が分からなくなるほどに蕩かされ、甘い声を上げ続けさせられた。
『好き』な相手と抱き合うという行為は、熱を発散させるためのセックスとは天と地ほどの差がある事を、内海は初めて知った。
気持ちが通じ合っているだけで、これほどまでに違うのかと驚いた。
「好きだ、智久」
「俺も……好きだよ」
行為を終えたあとは疲れ切ってしまって、指一本を動かすことすら億劫だったけれど、痺れる身体全体で幸せを感じながら、内海は橘川の腕の中で眠りに付いたのだった。
その後も二人の交際は続き、互いに忙しくなって来た就職活動の合間を縫っては逢瀬を重ねた。
橘川と一緒に過ごす時間は内海にとって大切な時間になっていたし、同じ思いを橘川も持ってくれていることは感じていたのだけれど。
「卒業したら一緒に暮らそう」
橘川がそう内海へと切り出したのは、彼の第一志望だった会社からの内定通知が届いた日のことだった。
普段ならメールや電話で連絡を入れてから訪ねてくる橘川が、連絡も無いまま息を切らして内海のアパートへとやって来た。
珍しい事もあるものだと驚く内海に、橘川はニヤリと笑って内定通知を広げて見せてくれた。一番最初に、顔を見て報告したかったのだと笑う橘川が格好良くて、そんな風に言ってもらえた事が嬉しくて。喜ぶ橘川の笑顔を見た内海も、自分の事のように喜んだ。
「俺も早いとこ内定もらいたいなあ」
周囲がポツポツと内定の通知を受け取る中で、内海はまだ一社も内定を取れてはいない。
橘川と自分の通う大学のレベルの差は分かっているだけに、内海が狙っているのは中小企業から個人経営の会社での仕事だった。
一応は経済学部に籍を置き、在学中に取れる資格は取ろうと、内海なりに頑張ってきた。就職も資格を活かせるような経理系の職を探してはいるのだけれど……これがなかなか難しい。
二次面接にすら滅多に漕ぎつけられず、受けた会社の数は既に両手じゃ足りないほどになっている。不況の煽りもまだまだ根強い中で内定を勝ち取るのは容易なことではないのだ。
不採用の結果が届く度に、それなりに落ち込んだりもするけれど、内海は決して橘川を妬むような発言も態度も見せなかった。
橘川が大学の肩書きに胡坐を掻いているわけでもなく、きちんと努力している姿も知っていた。
周囲が就職活動を始めるよりも早くから、OBの伝を頼りに会社訪問をし、面接に備えて数多くの資料を読み込んでいた事を知っている。
だからこそ内定の連絡に喜ぶ橘川を見ても、素直に喜ぶことが出来た。自分も橘川と肩を並べて歩けるように、頑張ろうと思うことが出来たのだ。
笑顔でそう告げた内海を、橘川は眩しいものでも見るかのように、目を細めて見つめる。
その少し後だった。
小さく深呼吸をした橘川が、一呼吸置いて、内海へと向き合い、告げたひと言。
「卒業したら一緒に暮らそう」
予期せぬ言葉に、内海は言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「ん?」と首を傾げた内海に対し、橘川は再び同じ言葉を繰り返す。
「え……それ、本気で言ってるのか?」
「勿論本気だよ。就職すれば今以上に会えない時間も増えると思うんだ――俺は、少しでも良いから、お前と一緒に過ごす時間を作りたい」
「悦郎……えっと、でも…俺、就職もまだ決まって無いし、もうちょい考えさせて」
嬉しかった。今すぐ橘川に抱き付きたいくらいに、歓喜が湧き上がってくる。
けれどその衝動を堪え、内海は慎重に口を開いた。
程好い距離感を保っているから、今は二人の関係も上手くいっているのだろう。一緒に暮らし始めて、嫌な面が目に付くようになったら……そんな臆病な考えも、内海に素直に頷かせることを躊躇わせたのだ。
けれど橘川は、躊躇う内海の気持ちすらも理解してくれていたのだろう。
「就職が決まらなければ、無理に焦って探さなくてもいい。新入社員の給料なんてたかが知れてるけど、贅沢しなけりゃ二人でも何とかやっていけるだろ? お前はその間にじっくり自分に合う先を探せばいいじゃないか」
「なっ……俺だって男なんだ、お前に養われるだけの存在になって堪るか! 就職決まらなくても、生活費を折半する位はバイトでも何でもして稼いでやる」
わざと挑発的な言葉を聞かされて、気付いた時には内海はそんな台詞を口にしていた。内海の放った台詞を受けてニヤリと笑う橘川の顔に、してやられたと思っても後の祭りだった。
「決まりだな。俺は自由になる時間も増えるから、いい物件見繕っておくよ」
「……確信犯め」
あっと思った時には、内海の身体はひと回りガッシリした橘川の腕の中に包み込まれていた。嬉しそうに告げる橘川を見ているうちに、内海の顔にも自然と笑みが浮かび上がってくる。
二人で顔を見合わせてひとしきり笑い合い交わしたキスは、とても甘いくちづけだった。
その時の言葉通り、二人は大学を卒業後に一緒に暮らし始めた。内海も小さな会社の営業として何とか就職も決まり、順風満帆に新しい生活をスタートさせたのだった。
そう、二人で暮らす日々が夢のように幸せだったから、まさかその後に、こんな結果が待っているなんて考えもしなかった。
「智久、今ちょっと良いか?」
「っ……入ってくる時はノックくらいしてよ」
「はぁ? 自分んとこの事務所に入るのに、わざわざノックなんて必要ないだろ」
北斗との会話で懐かしい記憶を辿っていた内海の思考が、不意に現実へと引き戻された。
ホストクラブの奥にある事務室へと姿を現したのは、この店のオーナーでもあり内海の従兄弟にあたる男、内海康之である。
元々がホストでナンバーワンとして稼いでいた従兄弟は、ホストを引退した今も、未だに見た目も若々しい。身に付けている物もひと目で高級品と分かる、けれど決して派手過ぎはしない上質の品ばかり。
昔のような見た目の華々しさは形を潜めたものの、歳相応の落ち着きと渋さが加わり男ぶりにも拍車が掛かったように内海には思える。
時折康之の接客を目当てに訪れる、ホスト時代からの客がまだいるところを見れば、そう感じているのは内海だけでは無いのだろう。
「そんなことより、頼んでたリストは出来てるか? ミーティングの時にでも発破を掛けとかねえと」
「あっ、ごめん、もう少しで出来るから」
「まだとか珍しいな……智久、何もコネだけでずっとお前を雇ってるわけじゃ無いんだ。物思いに沈むなとは言わねえから、しっかり仕事はしてくれ」
「……うん、ごめん」
呆れたように眉根を寄せる従兄弟の姿に、自然内海の頭が俯く。
落ち込む内海の様子を見た康之が、仕方ないなと溜息を吐きつつ内海の頭を小突き、応接セットの奥に設置されているオーナーデスクに腰を下ろした。
「お前がぼんやりしてんのみると、一年経つのを実感するな」
「う……ごめん」
「謝ってる暇あんなら手動かせ。集中しろ、集中」
「うん、すぐやるから」
8年前、橘川と暮らしていた部屋を飛び出した内海を拾ってくれたのは、他の誰でもないこの従兄弟だった。
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