キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (13)

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 シャツの下の肌に悪寒が走るのを感じつつ、それでも内海は緩く笑みを浮かべながら、耳に届いた言葉を流した。
「内海さあ……今付き合ってるヤツ、いるの?」
「……います、けど」
「ふぅん、その割りにお前女ッ気がねえよなあ。最近落ちてる風だし、別れたんじゃないかって心配してたんだけど」
 この男は何を知っているのだろう。何を知られてしまっているのだろうかと、顔に笑顔を貼り付けたままで逡巡する。
「そうですか? ちゃんと付き合ってる相手がいますよ――そんな事より、戻るの遅くなりそうなんで伝票のチェックだけ先にしちゃってもいいですか?」
「……ああ」
 相手は男だけど、という言葉は飲み込む。そんな薮蛇を自ら踏む必要は無い。
 流れる景色を見るふりで一旦視線を逸らした内海は、今思い付いたとばかりにバインダーを取り出した。話を打ち切った内海を面白く無さそうに一瞥した元晴は、その後はその話題に触れては来なかった。



「いやぁ、助かりました! ありがとうございます!」
「下ろした荷物の確認お願いします。伝票は澤田さんにお預けしちゃって良いですか?」
「うん、俺が預かるよ。費用は追って請求書回して」
 滞りなく荷物をホテルまで輸送し終えると、元晴は内海に荷下ろしを頼んで用足しに向かってしまった。
 車内で話に乗らなかったことへの軽い意趣返しのつもりなのだろうと、ホテルの中へ消えて行く背中をチラリと見て内海が小さく息を吐く。
「どした? 元気無いな?」
「澤田さんまでそういうこと言います? まあ、色々考えることが山積みなんです」
 内海の様子に気付いた澤田が、片眉を上げて俯け気味の顔を覗き込んでくる。澤田にまで気を使わせてしまったことに情けなくなりながら、それでも内海は軽く笑って首を振った。
「ふうん……それより今年もディナーの予約入れるのか? 去年は確かこの位の時期だったよな?」
「あー……今年は、ちょっと分かんないっす」
 澤田の言葉に少し考える素振りをした内海が、少しの間を置いて眉を下げた。
 このところの橘川の様子を思えば、先の予定など内海の独断では決めることが出来ない。
 昨年は一緒に暮らし始めて初めて迎えた二人の記念日に、ささやかな贅沢をした。夜景が見下ろせるレストランに男が二人で食事に来ることに、多少の抵抗を感じなくはなかったけれど、質の高いサービスと美味しい食事に内海も橘川も大満足だったことを思い出す。


 澤田とは内海の行き付けのバーで顔馴染みになった。
 内海が橘川と付き合い始める少し前の話だけれど、パートナーであろう相手と一緒にお酒を楽しみに訪れていた彼とは、変に構えることなく仲良くなれた。
 その彼と彼のパートナーに再会したのは偶然だ。初めてこのホテルへ納品に来た際、お互いに目を瞠った。
 勿論その場では夜の世界の決まりごととして声を掛け合う事はなかったけれど、次に納品に訪れた際に、今日と同じようにコーヒーをご馳走になりながら少しだけ会話を交わした。
 それからも特別密に連絡を取り合う事はしていないけれど、人目が無い時にはそれとなく近況を話したりもする。内海よりも大人なだけあって、澤田はこちらが口を濁せばそれ以上は踏み込んでこない。
 それでも店に通わなくなった内海にとっては、何かあった時に身近に自分と同じように同性のパートナーを持つ相手がいるということが心強くもあった。
「そうなの? まあ何かあったらプライベートの方の携帯鳴らして。んじゃあマジで助かったよ、ありがとな――っと、白木さんもお疲れ様でした、請求書の件とか内海に話してますんで、じゃあまた!」
 今日もまた煮え切らない返答を返した内海を深追いはせず、澤田が仕事に戻ろうと踵を返し掛けたところに、元晴がようやく戻って来た。
 営業スマイルを浮かべて彼に頭を下げながら去って行く澤田と内海を、交互に見遣った元晴だったけれど、特に何を言うでもなくその日は無事に終わったのだった。


 それから暫らくの間は、表面上は落ち着いた日々を過ごしていた。
 相変わらず身体に纏わり付いてくるような不快な視線は感じていたけれど、お歳暮や年末年始のお遣い物シーズンに突入したこともあり、忙しい合間を縫ってまで元晴が内海に構ってくることは無かった。
(――また見てる……)
 見られていると感じることは多々あったけれど、視線には気付いていないふりをした。今のところはそれ以上何か行動を起こすわけでも無い元晴を、下手に騒ぎ立てて刺激する事は避けたかったからだ。
 苛立ちを隠しながらパソコンに向かう内海の携帯が、胸ポケットで震えた。
 時間的にメールの相手には想像が付いた。トイレに行くふりをしてこっそり開いた画面には、思い当たった名前が表示されている。
(悦郎……今日も遅いのか)
 業者の忘年会に顔を出すと知らせて寄越したメールに、飲み過ぎるなよとひと言返し、内海は小さく溜息を零す。

 もう何日まともな会話を交わしていないだろう。同じ家に暮らしているというのに、挨拶程度の言葉しか口にしていないような気がする。
 内海が土日に休みを取れるのは月に一度程度のこと。逆に土日が休みの橘川とは、意図的に合わせようとしない限りは、一緒に過ごす時間を取る事も難しいのが現状だった。
 以前はそれでも起きて待ってみたり、寝入りばなを起こされて事に及んだりという接触は多々あったのだけれど。
 もちろん今でも、セックスという行為自体が全く無くなったわけでは無い。内海の身体を気遣ってなのか、以前と比べれば格段に回数は減ったものの、だからと言って橘川の気持ちが冷めたとは思えなかった。
 内海の痴態に満足気な表情を浮かべながら奥深くを貫かれ、汗ばんだ肌にきつく掻き抱かれれば、愛されているのだと実感出来て安心出来た。
 けれど橘川も疲れているのか、事が終わればあっという間に眠りに付いてしまう。甘いピロートークなどというのは、このところ随分とご無沙汰なのも事実だった。
(まさか、ね……)
 橘川のスーツをクリーニングに出そうとした際に、嗅ぎ慣れない香りを仄かに感じたのは、つい最近のことだ。
 極僅かな匂いだったけれど、内海も橘川も普段香水の類は一切つけないだけに、その香りが妙に鼻に付いたのだ。
 社会に出れば同僚にも取引先にも女性社員くらいはいて当たり前だろう。毎日電車で通勤をしていれば、その時に香りが移る事もあるかもしれない。
 橘川を信じたいと、思いつく限りの理由を並べてみても、内海の中に一度浮かび上がった疑念を完全に消し去る事は出来なかった。



 クリスマスもいつ終わったのかと思うほど、慌ただしいまま年末を向かえ、年始休暇くらいはのんびり過ごそうと話し合った。
 元日だけは互いにそれぞれの実家へ顔を出しに帰ったけれど、残りの数日は二人で初詣に出向いたり、新春セールを冷やかして歩いたり。
 外出して疲れて帰宅したはずなのに、どちらからともなく求め合い、優しい気持ちで抱き合う事も出来た。
 だからこそ余計に、昨年から抱え続けてきた不安のアレコレを口にすることは、内海には出来なかった。
 会社で感じるセクハラめいた視線や言動、橘川に対して覚えてしまった疑う気持ち。そんな話を持ち出して、久し振りに橘川と一緒にいられるこの幸せな時間を台無しにしてしまうことが怖かったのだ。
(実際被害らしい被害にあってるわけでもないし、考え過ぎなのかもしれない。悦郎のことにしたって、俺のことをちゃんと想ってくれているはずだ)
 折角の時間を無駄にしたくはないと、喉の際まで競り上がって来ていた言葉を飲み込んだ。不安な気持ちを橘川に気付かれることのないように、心の奥の深い部分へと押し込んだ。
 それで正解だと思っていたし、事実一緒に過ごした休暇の間、昔と変わらずに隣にある橘川の存在が、内海に安堵の気持ちを齎してくれたのだった。

 けれど結果として、その時の行動が内海を追い詰めていくことになった。


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