キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (14)

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 休暇が明けた途端に、橘川は以前よりも多忙になっていった。
 一月中は年末年始で溜まっていた仕事の処理に追われ、その上新年会の誘いも山のように入っている。帰宅はいつも深夜近くになり、橘川が帰宅する頃には内海は既に夢の中。
 二月に入って少し落ち着くかと思いきや、今度は社内研修や昇格試験などの予定も立て込み、付き合いのある建設関係からの歳祝いの会へのお呼ばれ等も続き、落ち着くどころの話ではなかった。
 先の予定を聞けば聞いたで、三月に入ってからは年度末だけにその多忙さは一、二月の比じゃなくなるらしい。未払い債権の回収業務に、年間売り上げ目標達成に向けての営業活動。加えて送別会だなんだと、どれだけ飲み歩けば気が済むのだと呆れてしまうくらいに、年末からずっと橘川の忙しさは変わることが無かった。

 それだけ動き回っていれば、休みの日には体力回復に努めるのも当然だろう。
 元々二人揃っての休みなんて滅多にないだけに、彼一人が休みの日はもちろん惰眠を貪り尽くす。たまに休みが重なることがあったとしても、疲れを滲ませる橘川を見ていればゆっくり休ませてやりたくなるのも、恋人として当たり前のことだと思う。
 交わす会話や触れ合う時間が減っても、自分の傍ではリラックスしていられるのだと思えば、多少の不満は我慢も出来た。
 相変わらずの帰宅の遅さも、時折鼻を匂わす嗅ぎ慣れない香りも、気にしていないふりをした。そうでもしなければ、橘川と共に暮らし続けることは出来ないと思っていた。
 全ては内海が、橘川の事を愛していたから。
 同性しか好きになれず欲情することも無い自分とは違って、橘川はノーマルだった人間なのだ。その気になれば幾らだって女性を抱けるはずだったし、内海自身彼の隣にいるのが自分で本当に良いのかと、ずっと心の片隅で感じていた。
 殆どの男がそうするように、適度な年齢で可愛いお嫁さんをもらって彼に似た子供を授かり、休みの日には家族サービスで揃って外出をする。自分に当て嵌めた時には全く想像も付かなかった光景も、橘川をそこへ据え置けばピタリと想像が付いてしまう。
 それでも、彼を手放したくなかった。彼の隣に居続けたいと自分を抑えるほどに、内海は橘川を愛してしまっていた。


「最近どうした? 前みたいにすっ飛んで帰ることが無くなったんじゃないか?」
 忙しさに辟易としていた秋口から年末年始の期間をやっと乗り越え、これからひと月ほどは少しゆったりとした時間が過ごせると肩の力を抜いた矢先のことだ。
 暫らくの間おとなしかった元晴が、再び内海に対して絡んで来るようになった。
(うわ……やっぱりか)
 パートの女性達も帰宅し、社内に内海と二人になった時にだけ始まる行為。視線は無視を決め込んでいても、二人きりの状況で掛けられた声まで無視するわけにはいかなかった。
 一拍の間を置いて振り返れば、そこには口元をにやつかせた元晴の姿があった。
「別に何も変わりは無いですよ。確かに、経理業務をやるようになってからは、仕事量も増えた分定時と共に、ってわけにはいかなくなってますけど」
 そのうち慣れてくると思いますし、と苦笑しながら答えた内海へと元晴がゆっくりと近付いて来る。内海の返答に一瞬だけ歪められたように思えた表情はすぐに消され、再び思惑の読み切れない厭らしい笑みへと変わった。
「ふうん、それだけ?」
「……それだけ、って、何が言いたいんですか」
 少しずつ距離を詰めてくる元晴に、妙な恐怖感を抱く。
 自分の顔が強張っている事を感じながら、なるべく自然な動きに見えるよう意識してパソコンへと向き直った内海は、さり気無さを装いつつ処理途中だったデータを保存し電源を落としに掛かった。
 時刻は既に定時を回っている。お疲れ様でしたとひと言告げて帰ったところで、誰も内海を責めるわけでは無い。
「俺はてっきり、さあ――」
「っ、何ですか? 俺、そろそろ帰ろうかと思ってたんですけど」
 気付いた時にはすぐ脇に立っていた元晴が、パソコンの乗るデスク上に寄り掛かるようにして腰を乗せた。
 言葉途中で話を区切った元晴の、いつもの舐るような視線を感じる。話の続きは気になったけれど、その視線から逃げ出したい思いの方が強かった。
「いつの間にかこんな時間になってたんですね。俺今日ドラッグストアに寄らないといけなかったんですよ、目薬切れちゃって」
 わざとらしくにっこりと微笑みながら内海が外していた視線を元晴へと合わせれば、思っていた以上に近い距離にあった彼の表情に苛立ちの色が浮かんだ。
 それには気がつかないふりをしながら矢継ぎ早に言葉を繰り出す内海から、元晴は肩を竦めつつ視線を外す。
「まあいいか……お疲れさん。折角薬局に行くなら、ゴムも補充しとけよ。情熱的な彼女がご機嫌損ねないようになあ」
 最初の言葉は自分自身へと言い聞かせるように。後半の言葉は内海に向けての、挑発とも取れるからかいを含んでのものだった。
「――お先します」
 内海が何か言い返すことを期待していたのだろう。そんな考えが明け透けに見えていたから、内海は微笑みの表情を浮かべたまま、さらりとその言葉を流して席を立った。
 元晴へと背を向けた内海の後ろから苦々しい舌打ちの声が聞こえたけれど、ここで振り向いては駄目だと自分自身に言い聞かせながら外に出る。
 路地を曲がるまではと意図的に普通の足取りで歩いていた内海は、会社の見えない位置まで来たところで歩みを止めた。
(くっそ……何なんだよ)
 単に下ネタ話が好きなだけなのかもしれないと思いつつ、どうしても一抹の不安を呼ぶのは元晴の見せるあの表情と、粘着質な視線のせいなのかもしれない。
「……俺、この先やって行けるのかな」
 思い出しただけで背筋に震えが走る。
 溜息と共に口から零れ落ちた言葉は小さ過ぎて、街の雑踏へと紛れながら消えて行った。


 彼と二人きりになることに恐怖を覚えてからというのもの、内海はなるべく元晴の前では隙を見せないように、以前よりも注意深く振舞うようになっていた。
 今では内海に殆どを任されている経理関係の仕事が滞れば、社内業務にも支障を来たす。元晴もその事を理解しているせいか、内海が忙しくしている間に限っては、基本的に邪魔をしないようにしているらしい。
 それに気付いてからは、無くても困るわけでもないからと伸ばし伸ばしにしていた仕事に手を付け、そちらに集中している風を装いながら定時を待つ毎日を過ごした。
 確定申告の期日も迫って来ている事もあり、その為の資料を揃えたり伝票や領収証等の確認作業をしたりと、実際に仕事は山のようにあった。それでも残業をすることは避けたいと、パソコン画面の片隅にある時計表示で時間を確認しながら仕事を進め、定時を回ると同時に身支度を整え席を立つ。
 時折何か言いたげな雰囲気を感じることはもちろんあった。
 粘り付くような視線も変わらずに感じてはいたけれど、気にしたら負けだとばかりに内海は仕事に打ち込むことで逃げていた。
(――いい加減、疲れた……)
 出勤すれば気を張り巡らせた緊張の日々。
 帰宅しても恋人とは会話を交わす時間も殆どない。無断外泊が無いだけマシなのかもしれなかったけれど、遅くに帰ってきた橘川がベッドに潜り込んで来る時に仄かに香る匂い。
 聞こえて来る物音に、起き出せないまでも薄っすら覚醒した意識の中で、橘川が風呂に入った様子は窺えなかった。それなのに、家で使っている物ではないシャンプーなのかボディソープなのか……嗅ぎ覚えのない香りがすれば、夢現の中においても気に掛かってしまうのも当然だろう。
 外で気を張っている分、家にいる時くらいは安らぎたいと思うのが自然だ。
 けれど今現在の状況は内海にとって、自宅にいても落ち着かない、心細さを感じる毎日だった。


「行って来る」
「あっ、悦郎!」
「ん? 何だ?」
「あのさ、話っていうか、相談あるんだけど……今日も遅いのか?」
 何度か勇気を出して切り出してみた事もあった。
 けれど橘川の答えは、いつも決まった言葉。
「んー、多分な。休みの日にでもゆっくり聞くよ。遅刻するから、もう行くぞ?」
「う、ん…そっか…行ってらっしゃい」
 素っ気無い言葉と共に振り向いた顔には面倒だという色が見て取れて、その度に内海は笑って見送ることしか出来ない。
(休みの日、なんて、どうせ寝てばっかりなのに……悦郎の嘘吐き)
 口約束が叶えられることは無いという事に、内海は気付いていた。これまでにも数度、同じようなことが続いていたから。


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