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キスからの距離 (24)
しおりを挟むそこかしこから匂ってくるアルコールの香り。ひと組でも多くの客を呼び込もうと声を上げる看板持ちや、艶めかしい写真で男を誘う風俗店の看板。新歓コンパ帰りと思われる酒に飲まれた若い学生達が、足元をふらつかせながら歩く様を目の端に止めながら、橘川は手元の時計に目をやった。
「くっそ、あの野郎調子に乗ってもう一軒って、終電出ちま……あれ? 止まってる?」
慌ててスーツの内ポケットをまさぐり取り出した携帯で時刻を確認すれば、ほんの数分前に最寄の路線の終電が出た後だった。
「――地下鉄で行けるとこまで行って、タクシー拾うか」
ぼやきと共に溜息を零した橘川の視線が、再び時計へと向けられる。
文字盤の上のガラスには細かい傷が目に付く、今時の流行りでは無い型の時計。高級品では無いけれど、橘川にとってはどんな有名ブランドの時計よりも大切な、世界にたったひとつしか存在しない品。
「電池、交換しに行かなきゃな……」
社会人になって一年目の冬。新入社員にとっては初めて満額を手にするボーナス月。
スズメの涙程度にしかもらえなかった夏とは違って、少しまとまった金額が手元に来るということが、社会人として認められたようで嬉しく、誇らしくもあった。
(あいつは……今、どこにいるんだろうな……)
針の止まった文字盤を覆うように手を翳した橘川の脳裏に、照れ臭そうに包みを手にした一人の男の顔が浮かんだ。
8年前、何も言わずに、目の前から忽然と姿を消した、恋人――。
『これ、クリスマスプレゼント』
『え? 俺に?』
『悦郎と違って俺のボーナスなんて大した額じゃないからさ、高い物じゃないけど』
『いや……嬉しいよ、大事にする』
そんな言葉と共に渡されたのは、言葉通り、いっても指数本程度であろうシルバーの輝きを放つシンプルな時計。
似合うか? と腕に嵌めて見せれば、少しだけ誇らしそうに微笑んだ彼のことを、今でも昨日の事のように思い出せる。
「……未練がましい、よな……」
苦笑した橘川は、いつの間にか止まっていた足を再び動かし出す。
いつも使っている電車の最終は出てしまったし、地下鉄の終電までにはまだ時間もあった。
(引越ししようと思いつつ、結局契約更新しちまったし)
もう少し多くの沿線が止まる地域に居を移しても問題は無いというのに、駅まで坂道を歩いて二十分も掛かる古いマンションから、引越しすら出来ずにいた。
老朽化も進んでいるマンションは耐震性にも不安があって、契約の更新は今回が最後という通告まで出されている。それでも、新しい場所を探そうとは思わなかった自分が滑稽で。
一人で暮らすには広過ぎる部屋に、橘川は未だに住み続けていた。
(……戻ってくるかも、しれねえし)
あれから8年もの時間が過ぎて、可能性はゼロに近いことが分かっていながら、もしかしたらという思いを捨て切れずに過ごす日々。
もしかしたら、ただいまと帰ってくるかもしれない。
もしかしたら、部屋に電気が点いているかもしれない。
もしかしたら、彼からの手紙が届いているかもしれない。
そんな淡い期待を抱き続けることに疲れているのに、それでも。
「――――え?」
普段は滅多に使うことの無い地下鉄の駅を目指して歩を進めていた橘川は、ふと視線を向けた暗い路地の先から、目を離せなくなった。
通りの奥へと小さくなって行く男の背中が、自分が良く知った男のそれと重なって見えたのだ。
「まさか、な……こんなところをフラフラしてんなら、もっと早く見付けてる」
見えなくなった男とは逆に、自分の方へと歩いてくる男を見るともなく横目で見る。擦れ違った男はどう見てもまだ歳若く、橘川と同い年になっている筈の男とは釣り合いが取れていないだろうと、自分自身に言い聞かせた。
「大分飲まされたからなあ……ってやばい、地下鉄も終わっちまう」
暫らくその場に足を止めていた橘川は、心に微かな引っ掛かりを覚えながらも足を速めた。
一生のパートナーと決めた男が、自分に何も告げずに姿を消してから、心当たりはあちこち当たった。夜の街にも幾度と無く足を運び、彼の姿を追い求めた。
「……俺は、何も知らなかったんだよな……智久」
酒臭さの充満する混み合った車内、窓に映った自分の顔に向けて呟いた言葉が、心に重く圧し掛かる。
内海の全てを知ったつもりでいた当時の自分を、殴り付けてやりたいと何度思っただろうか。彼が自分に向けてくれた愛情の上に、胡座を掻いて座ったままで満足していた過去の自分が、情けなくて。
地下鉄の駅からの距離は最寄り駅から比べると倍近くはあるだろう。それでもタクシーを停めることもしないまま、橘川はひとりゆっくりと足を動かし続けた。
目を閉じていても足が覚えている家までの道のり。坂道を歩いて見えてきた部屋には、今日も灯りは点いていなかった。
待つ人のいない室内は空虚で、どこか寒々しさを感じる。
真っ暗な家に自分で鍵を開けて入り、明かりを灯す。それがどれだけ寂しく、人恋しくさせるのかということに、内海がいなくなって初めて橘川は気付いた。
「……ただいま、智久」
帰ってくるはずの無い返事をそれでも期待する。
そんな虚しさに苦笑を浮かべながら、首元を絞めるネクタイを抜き取り寝室へと向かう。
二人で暮らしていた頃には気付かなかった内海の気遣い。一人で過ごすようになってからしか気付けなかった自分が、情けなかった。
自分だってフルタイムで働いていたのに、仕事から帰って夕飯を作り、朝は出掛ける前に掃除と洗濯を済ませてくれていた。交代制のはずだったのに、いつからか家事は内海の仕事だとばかりに、橘川が手を出すことは殆どなくなっていた。
橘川が仕事を終えて帰ってくれば、大抵そこには内海の姿があって、明かりの灯った部屋で、おかえりと笑顔を浮かべてくれていた。
「俺だって一人暮らしの経験はあるってのに」
片付けているつもりでも雑然とした室内の雰囲気が、より気分を落ち込ませる。
料理をするのも面倒で、食事も大概は外食で済ませてしまう。時折家で作ることがあっても、市販のソースをかけるだけの簡単なパスタや袋ラーメン。家で飯を炊くことすら滅多にしない。作れないわけでは無いのに、一人だと思うと作る気が起こらなかった。
「ああぁもう、風呂入って寝るか!」
長くなってしまった一人暮らしで付いた悪い癖だ。聞いている人間も答えを返してくれる相手もいないのに、つい独り言を漏らしてしまう。
この部屋で一人で過ごす日々にも大分慣れたと思っていたのに、久し振りに感じる鬱々とした気分は、帰りに見かけた男の後姿のせいだろう。
「似てたんだよな……雰囲気が……」
熱いシャワーで身体をさっぱりとさせた橘川は、繁華街の奥で見かけた男のことを思い返していた。別人だとは思うけれど、もしも内海であったならと、詮無いことを考えてしまう。
「さすがにもう……新しい相手、いるよなあ」
いい加減に自分も吹っ切らなければとつくづく思う。いつまでも女々しく「もしかして」に縋り続けるなんて、自分らしくない。
そう思うのに、踏ん切りがつけられないまま時間だけが過ぎてしまった。せめてこの部屋から出なければいけなくなるまで、あと一年ほどの時間しか残されてはいないけれど、それまでは待ちたい。
情けないほど未練たっぷりの自分自身に呆れながら、一人で寝るには大き過ぎるベッドに横になる。
寝具だけは良い物にしようと、越して来た時に張り込んだ一品だ。スプリングがへたることも無いまま、ずっとこのベッドを使って来た。
「明日は新しいクライアントとの顔合わせだったな……面倒臭い……」
内海と暮らしていた頃は、あれだけ意欲に燃えていた仕事も、最近では遣り甲斐を感じられなくなっている。そんな自分も情けなくて腹が立つのに、惰性でずるずると続けるまま中堅になってしまっていた。
心はあの日に止まったまま、時間だけが過ぎている。
内海の香りなど微塵も残っていない布団に潜り込めば、それでも眠りはすぐに訪れるのだから口惜しい。布団が温まるのを待たずに、橘川の意識は眠りの淵へと誘われて行った。
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