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キスからの距離 (30)
しおりを挟む戸惑う内海気持ちとは裏腹に、商談は順調に進んでいく。
新店舗の入る予定のビルへと向かって歩く二人の後について歩きながら、自分はやはり橘川へと寄せる想いを捨てることなど出来てはいないのだと、内海は改めて理解した。
嫌いになって彼の傍を離れたわけでは無いからこそ、余計に未練を断ち切ることなど出来なかったのかもしれない。
(今更だけどな。自分から出てきたくせに、やり直したいなんて言えない……第一、相談することも出来ずに逃げ出したんだ。年月が経ったからといって、あの頃の事を自分の口からなんて言えるはずがない)
作業灯を取る為にと、電気だけは辛うじて通してある新店舗の薄暗い室内で、内海には分からない専門的な言葉を交わす二人を見ながら思った。
例え内海がやり直したいと思ったとしても、橘川も同じ気持ちでいてくれるとは限らないのだと。あれから長い時間が過ぎた。何も言わずに姿を消したのだ、心配よりも恨みの気持ちを持たれていても仕方が無いのだと。
「ではもう少し詳しい見積もりを作って、改めてお持ちします」
「俺は別にファックスでも良いんだけどね」
「いえ……お持ちします――智久、俺は携帯、変えてないから」
「っ――お疲れ様でした」
一通りの打ち合わせが終わって出て来た店舗前、既に辺りは日暮れが迫っていた。
橘川の言葉に口角を持ち上げた康之からのからかいの滲んだ口調を上手く交わし、立ち去ろうとする内海へ向けて橘川が耐え兼ねたように声を掛けて寄越した。
再会を交わしたとはいえ、内海は橘川との間に必要最低限の口しか利いてはいない。
何を話せば良いのか、何から話せば良いのか。
この短い時間の中で、内海にはそれらを考える余裕は無かった。
ただただ夢の中でしか会えなかった彼の姿を、直接目の前に感じられる。低く鼓膜を揺るがす心地の好い声を聞くことが出来る。その事だけに意識を囚われていたのだ。
「さぁて、どうする?」
「……え?」
営業が始まった【knight】の裏口からオーナー室へと入ったところで、ずっと黙ったままでいた康之がやっと口を開いた。
オーナーデスクには向かわずに、入って直ぐのソファへと腰を下ろすと、内海にも座れと目線で促してくる。
「あいつだろ、お前が逃げて来た相手ってのは」
事も無げに言い当てた康之に、内海は驚くでも無く小さく息を吐き出した。
手にしたままだった、橘川から渡された見積もりとパンフレットの入った封筒をテーブルへと乗せ、康之の対面へと腰を下ろす。
「やっぱり、気付いてたんですね」
「こういう職業に就いてりゃ、観察眼も優れてくるもんだからな」
「ちょっと待ってろ」と言い置いた康之が、部屋の隅に設置されている小振りの冷蔵庫から取り出した缶ビールを2本、片手に携えて戻って来る。
「素面じゃ話せないかもしれないしな。まあ飲めよ、今日の業務は終了だ」
口角を持ち上げながらプルタブを開ける康之に倣って、内海も首もとを絞めるネクタイを緩めてビールへと手を伸ばした。
缶に口を付けることなく待つ康之の前に手にした缶を差し出せば、「乾杯」と缶同士を触れ合わされる。
「……何に乾杯なんですか?」
「そうだなあ……お前らの再会に、かな?」
「悪趣味」
眉間に皺を寄せて缶を傾ける内海へと、面白そうに片眉を上げながら視線を向けた康之が、ぐびりと中身を煽る。
店の喧騒が聞こえて来る小さな部屋の中、それぞれを取り巻く空気は対照的なものだった。
「悪趣味って事は無いだろ? これでも可愛い従弟を心配してやってるんだよ」
「心配、って……心配されるような事は、別に何も――」
「何も無い、わけは無いよな?」
「康兄……虐めないでよ」
雇用主と従業員の関係をアピールするかのように敬語を崩さなかった内海も、砕けた康之の口調と従弟と称された自分に気付いて、その口調を改める。
どうやら康之は今、プライベートとして話を続けたいようだと理解したからだ。
「虐めてるつもりはさらさら無いぞ?」
「だって――」
「毎年毎年お前の様子がおかしくなるのは春先だけど、それ以外でも時々思い詰めた顔をしてる時があるだろ。気付かれてないとは思ってないよな?」
「……それは」
的を得た言葉で詰められて、内海は返す言葉に窮する。
康之には過去の全てを語っているのだから、今更取り繕っても仕方が無いことは分かっている。自分が未だに橘川を忘れることも、諦めることを出来ずにいることも、知られているとは思っていた。
それでも即答するのに迷いがあるのは、内海の心が臆病だからなのだろう。
内海自らの意思で決別してきたというのに、何年も引き摺ったままでいるどころか今でも好きなのだという事を、再会したことによって嫌が応にも自覚させられてしまった。
こんな気持ちは橘川には迷惑なだけに違いないのに。
「まだ未練があるんだろう? あの営業……橘川だっけ? 彼の方にも、お前に対する想いは残ってるように感じたけどな」
「まさかっ、俺の事を恨んでいたとしても、未練があるなんて事は」
「大有りだろう? 俺が仕掛けた挑発に引っ掛かって、すげえ目で睨んできたぜ?」
「挑発? あっ……だから、あんな……」
渡されたパンフレットをパラパラと捲りながら、康之がニヤリと笑う。普段は自分に対してあんな言動をすることのない康之なのに、必要以上に絡んで来ていたことを思い出した内海がハッとした表情を浮かべる。
わざとらしく肩を抱き寄せたり髪を梳いたり、挙句ホスト時代を払拭させる笑顔まで見せていた康之。口調もわざとらしいほど「大事にしている」ことを匂わせていた。
「嘘では無いだろ? お前の事は可愛いと思ってるし。親戚でもありうちの従業員でもあるんだから……まあ、あちらさんがどう受け止めたかまでは知らないけどな」
「康兄――」
楽しげに言ってのける康之を前にして頭痛を覚える。
「本当の恋人にはなってやれないけど、お前がその気なら、幾らでもふり位はしてやれるぞ……どうする?」
「どうする、って――」
「アイツの様子を見る限り、後はお前次第なんじゃないかと思えたんだよ。よりを戻したいなら戻せば良いし、もう嫌だっていうなら、いい牽制にくらいはなれると思ったんだけど?」
先ほどまでの表情を引っ込めた康之の瞳は自愛に満ちていた。
恐らくは橘川との再会に動揺し、後にも先にも進めずにいる自分を見兼ねての行動だったのだとようやく悟る。橘川の内海に対する気持ちを確認し、尚且つ内海がどちらにも転べるようにと一芝居売ってくれたのだ。
「俺はな、智久……逃げ回ってはへこんで、泣きたいのを我慢して笑うお前を、これ以上見ていたくないんだよ。ケジメを付けてないことを気にしてんなら、一度ガツンとぶつかって来いよ」
「ガツンと……」
「お前みたいに根が純粋なヤツに、ビッチの真似事は似合わねえからな」
そんなことまで知られていたのかと思う。
橘川を忘れたいと、寂しさを埋めたいと、何人かの男と肌を重ねた。けれど一度開いてしまった心の隙間を埋めてくれる相手は、誰一人としていなかった。抱き合う相手の影に橘川の姿を求め、虚しさばかりが積み上げられていく日々。
ユーと出会った事で幾らかは落ち着きを取り戻し、自分自身を振り返る事が出来るようになってからは、尚更たった一人の温もりが恋しくて。
「康兄、ありがと……でも真似事は良いよ。俺もそろそろ、ちゃんと向き合わなくちゃって思ってたんだ――まだ、好きだから」
あれほど言い出し難く感じていた言葉が、するりと唇から零れ落ちる。
口にした事で改めて実感する自分の気持ち。後にも先にも進めずにいたのは、橘川との恋愛にきちんと向き合うことをせず、逃げっ放しでいたからなのだ。
どうにかしたいと思うのであれば、内海自身が勇気を持ってケジメを付けなければ駄目なのだということが、あれから8年も経ってようやく分かったような気がした。
「そうか……それじゃあ、この話はこれで終わりだ。見積もり新しいのが来たら俺にも連絡入れろよ? 窓口はお前だからな」
「え? あ、うん、分かった」
体良く面倒な事を押し付けられた気がしないでもなかったけれど、康之が自分を思ってくれていることが伝わってくるだけに、内海は内心苦笑しながら頷くに留めたのだった。
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