キスからの距離

柚子季杏

文字の大きさ
30 / 49

キスからの距離 (30)

しおりを挟む

 戸惑う内海気持ちとは裏腹に、商談は順調に進んでいく。
 新店舗の入る予定のビルへと向かって歩く二人の後について歩きながら、自分はやはり橘川へと寄せる想いを捨てることなど出来てはいないのだと、内海は改めて理解した。

 嫌いになって彼の傍を離れたわけでは無いからこそ、余計に未練を断ち切ることなど出来なかったのかもしれない。
(今更だけどな。自分から出てきたくせに、やり直したいなんて言えない……第一、相談することも出来ずに逃げ出したんだ。年月が経ったからといって、あの頃の事を自分の口からなんて言えるはずがない)
 作業灯を取る為にと、電気だけは辛うじて通してある新店舗の薄暗い室内で、内海には分からない専門的な言葉を交わす二人を見ながら思った。
 例え内海がやり直したいと思ったとしても、橘川も同じ気持ちでいてくれるとは限らないのだと。あれから長い時間が過ぎた。何も言わずに姿を消したのだ、心配よりも恨みの気持ちを持たれていても仕方が無いのだと。
「ではもう少し詳しい見積もりを作って、改めてお持ちします」
「俺は別にファックスでも良いんだけどね」
「いえ……お持ちします――智久、俺は携帯、変えてないから」
「っ――お疲れ様でした」
 一通りの打ち合わせが終わって出て来た店舗前、既に辺りは日暮れが迫っていた。
 橘川の言葉に口角を持ち上げた康之からのからかいの滲んだ口調を上手く交わし、立ち去ろうとする内海へ向けて橘川が耐え兼ねたように声を掛けて寄越した。
 再会を交わしたとはいえ、内海は橘川との間に必要最低限の口しか利いてはいない。
 何を話せば良いのか、何から話せば良いのか。
 この短い時間の中で、内海にはそれらを考える余裕は無かった。
 ただただ夢の中でしか会えなかった彼の姿を、直接目の前に感じられる。低く鼓膜を揺るがす心地の好い声を聞くことが出来る。その事だけに意識を囚われていたのだ。



「さぁて、どうする?」
「……え?」
 営業が始まった【knight】の裏口からオーナー室へと入ったところで、ずっと黙ったままでいた康之がやっと口を開いた。
 オーナーデスクには向かわずに、入って直ぐのソファへと腰を下ろすと、内海にも座れと目線で促してくる。
「あいつだろ、お前が逃げて来た相手ってのは」
 事も無げに言い当てた康之に、内海は驚くでも無く小さく息を吐き出した。
 手にしたままだった、橘川から渡された見積もりとパンフレットの入った封筒をテーブルへと乗せ、康之の対面へと腰を下ろす。
「やっぱり、気付いてたんですね」
「こういう職業に就いてりゃ、観察眼も優れてくるもんだからな」
 「ちょっと待ってろ」と言い置いた康之が、部屋の隅に設置されている小振りの冷蔵庫から取り出した缶ビールを2本、片手に携えて戻って来る。
「素面じゃ話せないかもしれないしな。まあ飲めよ、今日の業務は終了だ」
 口角を持ち上げながらプルタブを開ける康之に倣って、内海も首もとを絞めるネクタイを緩めてビールへと手を伸ばした。
 缶に口を付けることなく待つ康之の前に手にした缶を差し出せば、「乾杯」と缶同士を触れ合わされる。
「……何に乾杯なんですか?」
「そうだなあ……お前らの再会に、かな?」
「悪趣味」
 眉間に皺を寄せて缶を傾ける内海へと、面白そうに片眉を上げながら視線を向けた康之が、ぐびりと中身を煽る。
 店の喧騒が聞こえて来る小さな部屋の中、それぞれを取り巻く空気は対照的なものだった。
「悪趣味って事は無いだろ? これでも可愛い従弟を心配してやってるんだよ」
「心配、って……心配されるような事は、別に何も――」
「何も無い、わけは無いよな?」
「康兄……虐めないでよ」
 雇用主と従業員の関係をアピールするかのように敬語を崩さなかった内海も、砕けた康之の口調と従弟と称された自分に気付いて、その口調を改める。
 どうやら康之は今、プライベートとして話を続けたいようだと理解したからだ。
「虐めてるつもりはさらさら無いぞ?」
「だって――」
「毎年毎年お前の様子がおかしくなるのは春先だけど、それ以外でも時々思い詰めた顔をしてる時があるだろ。気付かれてないとは思ってないよな?」
「……それは」
 的を得た言葉で詰められて、内海は返す言葉に窮する。
 康之には過去の全てを語っているのだから、今更取り繕っても仕方が無いことは分かっている。自分が未だに橘川を忘れることも、諦めることを出来ずにいることも、知られているとは思っていた。
 それでも即答するのに迷いがあるのは、内海の心が臆病だからなのだろう。

 内海自らの意思で決別してきたというのに、何年も引き摺ったままでいるどころか今でも好きなのだという事を、再会したことによって嫌が応にも自覚させられてしまった。
 こんな気持ちは橘川には迷惑なだけに違いないのに。
「まだ未練があるんだろう? あの営業……橘川だっけ? 彼の方にも、お前に対する想いは残ってるように感じたけどな」
「まさかっ、俺の事を恨んでいたとしても、未練があるなんて事は」
「大有りだろう? 俺が仕掛けた挑発に引っ掛かって、すげえ目で睨んできたぜ?」
「挑発? あっ……だから、あんな……」
 渡されたパンフレットをパラパラと捲りながら、康之がニヤリと笑う。普段は自分に対してあんな言動をすることのない康之なのに、必要以上に絡んで来ていたことを思い出した内海がハッとした表情を浮かべる。
 わざとらしく肩を抱き寄せたり髪を梳いたり、挙句ホスト時代を払拭させる笑顔まで見せていた康之。口調もわざとらしいほど「大事にしている」ことを匂わせていた。
「嘘では無いだろ? お前の事は可愛いと思ってるし。親戚でもありうちの従業員でもあるんだから……まあ、あちらさんがどう受け止めたかまでは知らないけどな」
「康兄――」
 楽しげに言ってのける康之を前にして頭痛を覚える。
「本当の恋人にはなってやれないけど、お前がその気なら、幾らでもふり位はしてやれるぞ……どうする?」
「どうする、って――」
「アイツの様子を見る限り、後はお前次第なんじゃないかと思えたんだよ。よりを戻したいなら戻せば良いし、もう嫌だっていうなら、いい牽制にくらいはなれると思ったんだけど?」
 先ほどまでの表情を引っ込めた康之の瞳は自愛に満ちていた。
 恐らくは橘川との再会に動揺し、後にも先にも進めずにいる自分を見兼ねての行動だったのだとようやく悟る。橘川の内海に対する気持ちを確認し、尚且つ内海がどちらにも転べるようにと一芝居売ってくれたのだ。
「俺はな、智久……逃げ回ってはへこんで、泣きたいのを我慢して笑うお前を、これ以上見ていたくないんだよ。ケジメを付けてないことを気にしてんなら、一度ガツンとぶつかって来いよ」
「ガツンと……」
「お前みたいに根が純粋なヤツに、ビッチの真似事は似合わねえからな」
 そんなことまで知られていたのかと思う。
 橘川を忘れたいと、寂しさを埋めたいと、何人かの男と肌を重ねた。けれど一度開いてしまった心の隙間を埋めてくれる相手は、誰一人としていなかった。抱き合う相手の影に橘川の姿を求め、虚しさばかりが積み上げられていく日々。
 ユーと出会った事で幾らかは落ち着きを取り戻し、自分自身を振り返る事が出来るようになってからは、尚更たった一人の温もりが恋しくて。
「康兄、ありがと……でも真似事は良いよ。俺もそろそろ、ちゃんと向き合わなくちゃって思ってたんだ――まだ、好きだから」
 あれほど言い出し難く感じていた言葉が、するりと唇から零れ落ちる。
 口にした事で改めて実感する自分の気持ち。後にも先にも進めずにいたのは、橘川との恋愛にきちんと向き合うことをせず、逃げっ放しでいたからなのだ。
 どうにかしたいと思うのであれば、内海自身が勇気を持ってケジメを付けなければ駄目なのだということが、あれから8年も経ってようやく分かったような気がした。
「そうか……それじゃあ、この話はこれで終わりだ。見積もり新しいのが来たら俺にも連絡入れろよ? 窓口はお前だからな」
「え? あ、うん、分かった」
 体良く面倒な事を押し付けられた気がしないでもなかったけれど、康之が自分を思ってくれていることが伝わってくるだけに、内海は内心苦笑しながら頷くに留めたのだった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完】君に届かない声

未希かずは(Miki)
BL
 内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。  ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。 すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。 執着囲い込み☓健気。ハピエンです。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 8/16番外編出しました!!!!! 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭 3/6 2000❤️ありがとうございます😭 4/29 3000❤️ありがとうございます😭 8/13 4000❤️ありがとうございます😭 12/10 5000❤️ありがとうございます😭 わたし5は好きな数字です💕 お気に入り登録が500を超えているだと???!嬉しすぎますありがとうございます😭

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました

あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」 穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン 攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?   攻め:深海霧矢 受け:清水奏 前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。 ハピエンです。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。 自己判断で消しますので、悪しからず。

彼の理想に

いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。 人は違ってもそれだけは変わらなかった。 だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。 優しくする努力をした。 本当はそんな人間なんかじゃないのに。 俺はあの人の恋人になりたい。 だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。 心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

先輩のことが好きなのに、

未希かずは(Miki)
BL
生徒会長・鷹取要(たかとりかなめ)に憧れる上川陽汰(かみかわはるた)。密かに募る想いが通じて無事、恋人に。二人だけの秘密の恋は甘くて幸せ。だけど、少しずつ要との距離が開いていく。 何で? 先輩は僕のこと嫌いになったの?   切なさと純粋さが交錯する、青春の恋物語。 《美形✕平凡》のすれ違いの恋になります。 要(高3)生徒会長。スパダリだけど……。 陽汰(高2)書記。泣き虫だけど一生懸命。 夏目秋良(高2)副会長。陽汰の幼馴染。 5/30日に少しだけ順番を変えたりしました。内容は変わっていませんが、読み途中の方にはご迷惑をおかけしました。

処理中です...