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キスからの距離 (29)
しおりを挟む店の入口で待ち合わせであることを告げた康之に、彼が奥のテーブル席を指し示した瞬間、内海はその場に凍り付いたかのように動けなくなった。
テーブル席の方でもこちらに気付いた業者の営業マンらしい男が立ち上がったところで、その男と視線が絡み合った瞬間に、内海の中の時間は一瞬で過去へと引き戻された。
内海が固まっているのに気付いた康之に訊ねられ、ぎくしゃくとしながら何でもないと頭を振った。少しでも時間を稼ごうと、ドリンクの受け取りを買って出て、康之を先に席へと向かわせたのだったけれど、そんな僅かな時間で動揺が治まる筈も無かった。
二人分のアイスコーヒーを載せたトレイの上で、グラスの中身が小刻みに揺れる。歩く振動のせいだと言い聞かせながら、ゆっくりと康之と男性の待つテーブルへと近付く。
「……お待たせしてすみません」
「ああ、来た来た。こいつが経理関係担当してます、内海智久です。智久、何やってんだ? 名刺出せ」
内海が声を発した瞬間、向い側に座る男が泣き出しそうに顔を歪めた。その視線から逃げるように名刺入れを取り出した内海を見る男の唇が微かに動いた。
「智久――」
「……経理を担当しています、よろしくお願い致します」
自分へ向けて矢のように突き刺さる橘川の視線を受け流し、内海は取り出した名刺をテーブルへと滑らせた。
「お前ら、知り合いか?」
「……昔ちょっと――それよりも、仕事の話が先でしょう?」
橘川の口から零れ出た内海の名前に、康之が興味深げに二人を見比べる。ピリピリとした空気を感じているはずなのに、無表情にその様子を眺めた後で、康之は意味深に口角を緩めて見せた。
「っ、ちょ……」
「智久の知り会いだったなんて、世間は狭いですねえ」
「え、ええ」
「こいつと一緒にいるようになってもう8年位になるんですけど、うちの智久、可愛いでしょ?」
返された橘川の名刺を手に取るでもなく凝視する内海の肩に、康之の腕が回された。自らへ引き寄せるようにしながら、内海の髪へとわざとらしく唇を寄せる。
そんな仕草に身を強張らせ目を瞠る橘川の姿が、内海の目の端に止まった。
「こいつがそうなんだな?」
「っ、も、いいから、離せって」
焦りながら腕を振り払おうとする内海の耳元で、内海にだけ聞こえるような小さな声での囁きが落とされる。束の間見えた康之の真剣な表情に、思わず内海は息を飲んだ。
力なく促す内海の声に、康之は意外にもあっさりと拘束を解いた。
「はいはい、すみませんねえ、照れ屋なもんで」
「――いえ……」
にっこりと営業スマイルを浮かべた康之は、解いた腕を持ち上げて内海の髪を梳くように撫でる。ホスト時代を匂わせる行為と完璧に作られた笑顔。その中に挑発的な色が滲んでいるように感じたのは、内海の気のせいではなかったのだろう。
目の前の席に座る橘川が一旦開き掛けた唇を噛み締めると、苦いものを飲み込んだかの如く掠れた返事を返すのが聞こえた。
「俺の大事な智久の昔馴染みだとは言っても、仕事の上での妥協はしませんから」
「勿論です――」
棘のある言葉に内心首を傾げる内海をよそに、橘川は先ほどとは打って変わった毅然とした態度で康之へと向き直った。
(康兄、一体何で……)
内海には康之が何を思ってこのような事をするのかが分からなかった。
経営者としては常に厳しい従兄ではあるけれど、雇用関係を取り去ったところでは常に内海を気に掛け、そっと手を貸してくれるような優しい人であったのに。
「それじゃあ早速、御社のプランを拝見させて頂きましょうか」
「はい。具体的な設計図等はまだとの事でしたので、同程度の面積での一般的なものを基に、何点か仮の見積もりを作ってきましたので」
混乱する思考を表情に出さないようにと無表情を作る内海の前で、康之と橘川が淡々と話を進めていく。
テーブルの上に乗せられていくパンフレットと見積もりとを見比べながら続けられる会話を眺める一方、視界に入り込む橘川の左手に輝く物が無いことに気付いて、内海は内心安堵していた。
学生時代から女性には人気があった橘川だ。
無愛想で媚びる事を嫌っていたあの当時は、そんな彼の態度に女性達は仕方なく身を引いていたという印象さえ残っている。
けれど社会人として、それも営業として勤めるようになってからは、近寄り難く感じられていた彼の印象も以前よりは和らいでいた。
自分が逃げるように彼の元を去ってから8年もの月日が流れているのだ。未だに彼が独身だとは、さすがに思っていなかった。
(いや、でも……指輪をしてないだけかもしれないし、恋人くらいいるよな)
今すぐここから立ち去りたいと思う気持ちの傍らで、あの時のように彼の隣で過ごしたいと思う感情が揺れ動く。
自分に気付いた瞬間の彼の表情、康之の態度に対して一瞬見えた気がした嫉妬の感情。己に良いように解釈し過ぎだと自らを戒めながらも、幸せだった頃へと戻りたがる気持ちが、内海には苦しく感じられる。
自らの気持ちにケジメを付けようと思っていた矢先の再会。
あまりに急過ぎる運びに、思考と心との均衡を保とうとすればするほど乱れていく。
「詳しい設計図を現段階で見せるわけにはいかないですが、座席の方には出来れば床暖房を入れたいとは思っていたんですよね」
「そうですか。ではこちらのプランの方がよりご希望に近い形になっているかと思います。蓄熱式になっていますので、節約にも一役担えるかと」
「ふぅん……どう思う、智久?」
「え……あ、予算内にさえ納めてもらえれば、俺は別に。第一決めるのは俺じゃなくて康……オーナーですから」
話を振られたことに一瞬身を震わせた内海が、気を奪われていた事を誤魔化すように口早に答える。
(集中しろっ、仕事中だろう)
内海の返答に若干面白くなさそうに片眉を上げた康之は、それでも突っ込まずにいてくれる。きっと康之にはばれているのだろうと、漠然と思う。
彼と顔を合わせた時からずっとギクシャクとしている内海の態度。昔の知り合いだと告げた言葉。
そして橘川が自分に対して向ける眼差しに、人の心の機微には鋭い康之が、気付かないはずは無い。
「んじゃあまあ、こちらの見積もりを基準に考えさせて頂きますわ。ああ、そうだ。業者が入る前段階でよければ、店舗予定の場所をお見せしますけど?」
「是非お願いします。そうさせて頂ければ、今よりも多少詳しくお見積もりの方も作れるかと思いますので……本当は設計図を頂くことが出来れば、より正確な試算を出すことが出来るんですけども」
「はは、それはまあ、お宅さんに決めた時に。他のメーカーさんにも同条件で見積もり出してもらってますから」
集中しなければと思うほどに、二人の会話が内海の頭上で上滑りしていくような気がした。
二度と間近で聞く事は出来ないと思っていた橘川の声。
こんな風に再び会う事は出来ないと思っていた橘川の姿。
手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離に、未だ自分の心を占める相手が座っているということが、この後に及んで信じ難がった。
「それもそうですね……現在の飲食店の方は、確か他社さんが担当されていたと聞いていたので、こうしてチャンスを頂けただけでも有り難いのですが……同じメーカーで統一なさらなかった理由は何か? 失礼で無ければ教えて頂けませんか?」
「今ひとつねえ、排煙の感じも微妙だし、メンテナンスも何かちょっと、って感じで」
内海が橘川の働いている姿を見るのは、付き合っていた頃も含めて初めてのことだった。
学生時代には感じられなかった愛想の良さも備わり、話を振られてもさらりと受け流してしまう康之の話術にも憤ることなく、しっかりと自社を売り込んでいく姿にこそばゆくなる。
(立派に営業、やってるんだな――俺も少しは、成長出来てんのかな)
自分が彼の元を去ってからの8年間もの月日が流れ、彼からは確かに成長を感じた。
どんな暮らしを送ってきたのだろうか。
内海が彼の前から姿を消した時、少しは心配してくれたのだろうか。
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