キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (39)

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「うっおぉ、寒ッ」
「酔いもすぐ醒めそうだよな」
 割り勘で会計を済ませて外に出れば、待ち合わせた時よりもずっと空気が冷えていた。
 寒い寒いと文句を言いつつ肩を竦める橘川を見れば、そういえば昔も冬は苦手だと騒いでいたなと思い出す。冬になるといつも、内海を抱き込むようにして寝ていた橘川。今はあの広いベッドで一人、寒い夜は身体を縮こまらせているのだろうか。
「風邪引くなよ? 寝込んだって、俺は看病になんて行かないから」
「看病してもらうためには、もっとアピールしなきゃ駄目ってことか」
「そんな軽口叩けるなら大丈夫だな」
 並んで地下鉄駅まで歩きながら、内海がわざと言い捨てる。そんな強がりを言ったところで、寝込んでいるなどと言われたら、一も二も無く駆け付けるのだろうに。
 けれど今はまだ行けないのだ。行ってはいけないのだ。
 自分の気持ちに結論を出せないままの状況で、あの部屋を訪れるわけにはいかないし、恐らく橘川もそんなことは望んでいない。
 内海の言葉に隠れた胸の内を読み取っているのだろう橘川が、これもまたわざとらしく溜息を吐く。「頑張らせて頂きます」と口角を持ち上げる橘川の姿に救われる。
「じゃあまた」
「うん、気を付けて」
 同じ場所に帰るわけではないのだから、別れの時間が来る事は必然だ。それでも、名残惜しい。次に会える日を、きっと自分は指折り数えて待つのだろう。
 それほど好きなのだ、橘川のことが。
 今でも、今だから余計に、8年前よりもずっと……会えなかった時間の分のだけ、想いが積み重なって膨らんだのだ。
「このまま連れて帰りたいとこだけど、仕方ないよな。変な男に絡まれないうちに、さっさと帰れよ?」
「なっ、何言ってんだよ! ちょ、悦郎っ」
「おやすみ!」
 寂しげな顔をしていたのだろうか。内海を見ていた橘川の表情も、一瞬苦しげに歪められた。すぐに気持ちを立て直したらしい男は、一度身体の横で握り締めた拳を開くと、内海へと人差し指を突きつけながら駅への階段を下りて行った。

 近くて遠い、二人の間にある距離が、もどかしい。
「……言い寄られたとしたって、お前以外の相手なんて、今更もう……」
 視界から消えて行く橘川を見送りながら零れた呟きが、同じように階段を下りて行く人並みに掻き消される。
 想いが橘川へ向いていることも、好きだと想う感情も確かなものなのだ。ただ、あと一歩の勇気が持てないだけで。
「俺も帰ろ――痛ッ、すみませ……」
「痛えだろうが! どこ見て歩いてんだよっ!」
 気持ちを落ち着かせて踵を返した瞬間、正面から歩いて来た男と内海の肩がぶつかった。
 確認を怠った内海にも勿論責任はあっただろうけれど、男は酔っているらしく真っ直ぐに立っているのもままならないような酩酊状態だった。
 謝る内海の胸倉に掴み掛かり、それを支えにふら付きながら喚き散らす男が顔を起こす。
(すげ……酒臭っ――ぁ)
 自分も今さっきまで橘川と飲んでいたけれど、自身の酒臭さなど可愛いものだと思うくらい、男からはアルコールの匂いがしていた。
 酔っ払いを相手に正論を説いたところで無意味。面倒なことになる前にと頭を下げようとした内海は、顔を起こした男の顔を視界に捉え、咄嗟に顔を背けた。
「あぁ? 何か……お前……どっかで見たような――」
「っ、本当にすみませんでした! 怪我も無いようなのでこれで!」
「あっ! おいこら、待てっ!」
 焦点が定まっていないのか、酔いで頭が回らなかったのかは分からない。首を傾げて考える素振りを見せた男の隙を衝き、内海は男を払い除けて足早にその場を後にする。
 背後で男が喚いているけれど、追い駆けて来るには足元が覚束無かったのか、暫らく歩を進めた後に内海が振り返っても、そこに先ほどの男の姿は見えなかった。
「……何なんだよ。何で今更……いやでも、俺だって気付かれては無かっただろうし、大丈夫」
 自分自身に言い聞かせつつも落ち着かなくて。
 駆け足気味に足を動かし、部屋に着いた時には汗だくになっていた。運動によるものだけとは思えない、冷たい汗が背筋を伝い落ちていく感覚に身震いする。
「っ、ビックリ、した……メール……」
 酔いなどすっかり醒めていた。からからに渇いた喉に冷えた水を流し込んだ内海は、不意に着信を告げた携帯の音に身を竦ませた。
「悦郎――」
 画面を開けばそこには、橘川から乗り換えの電車に乗ったところだという連絡のメッセージが届いていた。次いでピコンと音を立てた吹き出しの中、内海は無事に家に着いたかと、心配する内容が記されていた。

 自分を想ってくれる存在の優しさに、混乱に張り詰めていた気持ちがほんの少し楽になる。
 もう部屋にいるということと、今夜の礼を書いた返信を送り終えると、内海はベッドの上へと寝転んだ。

「あれは多分、元晴さん…だったよな」

 独り言がやけに耳に衝いた。自身の発した声だというのに、眉が寄ってしまう。
 頼りなく揺れる声音が耳障りで堪らなかった。

 天井を睨み付けながら、先ほどぶつかった男の姿をじっくりと思い返す。8年前とは大分違った風貌になっていたけれど、あれは間違いなく、自分を脅して襲おうとした男に違いなかった。
 頬はこけて目の下には隈が浮き上がり、無精髭に口元が覆われていた。清潔な服装をしていた彼しか知らない内海には驚くほど、身に付けているものも皺が寄ったままのだらしない格好だった。
 スーツを着ていたところをみれば、何かしら仕事はしているのだろうけれど、あんな一瞬の衝突でさえ荒んだ生活が垣間見えるようで。
「再会するのは、悦郎だけで十分だったのに……」
 思い出したくも無い過去がフラッシュバックしてくる。
 同時に、再会した橘川から聞かされた社長の言葉や、書類と共に届いた手紙の内容も。
「大丈夫だ……つけられた風でも無かったし、俺の住所も勤め先も、あいつは知らない」
 別に知られたところでどうということもないと、繰り返し口に出してみる。
 接客はしていないけれど、夜の世界に身を置いている。はす向かいにあるゲイバーに、内海が頻繁に出入りしていることも【knight】にいる連中の間では知られている。
 内海がゲイであっても、それでとやかく言うようなスタッフは誰もいない。万が一周囲に言い触らされたとしても、表には出ない存在である事を思えばダメージも少ないはずだ。
 第一オーナーである康之には、全てを話してあるのだ。
「そうだよな……別に、大丈夫。あれだけ酔ってれば、俺だってことは思い出さないままだろうし、ぶつかったことだって、朝になれば忘れるに違いないさ」
 心の奥底に芽吹いた小さな不安を感じながらも、無理矢理自分に言い聞かせる。
「もうきっと、会うことも無いって――」
 呟いた声は頼りなく揺れて、消えて行った。




 元晴と偶然接触したあの日から一週間以上が過ぎた。普段と変わらない日常が過ぎる中、気にするまいと思えば思うほど元晴の姿が頭にチラついて、内海の気分は晴れないままだった。
 新しい店のオープンも近付いている中、裏方の内海にはやる事が山のようにあるというのに、どうしても集中力が続かない。
 あれから一度橘川と食事をしたけれど、内海の様子を見た彼から、疲れているみたいだなと心配されてしまったほどだ。現在抱える仕事の多忙さは橘川も知っているだけに、気を遣われたのだろうとは思うけれど、終電まではまだまだ時間がある中で彼を見送ることになってしまって、それが尚更内海の落ち込みに拍車をかけたのだった。

「ウッチーどした? 何か元気無くない?」
「北斗……いや、何でもないよ。この時間に外行くなんて珍しいな、キャッチか?」
「違う違う、お客さん迎えに行ってくるだけだよ」
 新店舗だけではなく【knight】の仕事ももちろん日々継続してある。
 カウンターの中に立ち、数日分の売上げが報告と相違無いかを確認していた内海の脇を通り掛かった北斗が、足を止めて内海を覗き込んできた。


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