キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (40)

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 北斗に応えた声にいつもの覇気が無い事は、内海自身も感じていた。
「同伴でもなく? 太客か?」
「いや、そういうわけでも無いんだけど」
 同伴出勤という形で、客と共に店に入ることはよくあることだ。そうでなくとも、金払いの良いお客ならば、担当ホストが直接迎えに出向くということもそれなりにはある。
 何の気無しに問い掛けた内海に、北斗は微妙に眉根を寄せて否定の言葉を返してきた。
「何かさ、最近この辺り変なヤツがうろついてるみたいなんだよ。ここに来る女の子達もそれ怖がってるみたいだから、暫らくの間は時間があるなら送迎してやろうってことになって」
「変な、ヤツ……」
 北斗の言葉に妙な胸騒ぎを覚える。考える素振りを見せた内海に、北斗が声を潜めながら身を乗り出した。
「ウッチーも気を付けなよ? 女じゃ無いけど、ウッチーも時々変に色気ダダ漏れてる時あるからさあ」
「何言ってんだ。それより今の話、オーナーにはしてあるのか?」
「一応は。気のせいだろうっては言ってたけど、女の子相手の商売だしさあ、気を付けるに越した事は無いだろうし」
「そうだな……」
 康之の耳にも入っていると聞けば、単なる気のせいで終わりに出来ることではないのかもしれないと、頷きを返しつつ不安の色が濃くなっていく。
 昔と比べれば内海の見た目も多少は変わっているはずだ。
 ましてあの日会った元晴が泥酔に近い状態だったことを思えば、彼が内海を思い出す事は無いと考えたい。それなのに、悪い予感ばかりが胸に渦巻いていく。
「まあそういう事だから、取りあえず行って来る。ウッチーも何かあったら言ってね?」
「分かった、お前も気を付けろよ」
 自分の浮かべた笑顔が引き攣っているのではないかと思う。今聞かされた話が、このところ内海の気持ちを沈ませていた事柄と係わっているように思えて仕方が無い。
 自分一人の問題ならばまだいいけれど、周囲に迷惑を掛ける事態になってしまったら……それが一番不安だった。


 帰宅時にも、いつもは気にならない周囲の視線を、過敏なまでに意識している自分がいた。擦れ違う人の中に、自分を注視している視線がある気がして落ち着かない。
「……悦郎」
 帰り着いた自室でホッと安堵の息を吐いた内海は、携帯を取り出したまま逡巡していた。
 違うと言い切れれば良いのに、不安が消し去れない。そんな状況の中では、橘川と会う事は勿論、よりを戻すなんて考えられるはずも無かった。
 8年前に部屋を飛び出す切っ掛けとなったのも、元晴が橘川に対して何かするのではないかと、それを考えたからというのが理由のひとつだった。
 結局はそれ以外にも様々な要因が重なって、橘川の元を逃げ出してしまったのだけれど。
「俺は、また同じことを繰り返すのか?」
 画面に浮かんだ橘川の名前をそっと指先で撫でながら、溜息が零れ落ちる。
 あの頃から何も変わっていないとは思いたくない。会えない間に消えるどころか、育っていたことに気付いた橘川への想い。
 強くなりたいと、強くならなければと思う。
 思えば同性にしか興味を持てないと自覚した頃から、ずっと逃げてばかりいた。そんな弱い自分のままでいてはいけないのだと。
「そっか、結局俺は、もう決めてたんだ――」
 独りきりの部屋で決意を固めた内海の心の中に、すとんと落ちてきた己の気持ち。
 もちろん怖さはある。
 再び橘川を信じることへの不安も、完全になくなったわけではない。
 女性を愛することも出来る橘川とよりを戻せば、心変わりを心配する気持ちは永遠に消えることがないだろう。まだまだ偏見の目が少なくは無い世界で、ゲイの自分と過ごす人生を選ばせてしまうことへの申し訳なさも感じる。
 世間一般にはなかなか受け入れてもらえない愛の形に、橘川を苦しませることもあるかもしれない。
「それでも俺は、悦郎と一緒にいたいんだ」
 元晴との再会が切っ掛けで自覚しただなんて、滑稽にもほどがある。
 今の自分は己の恋愛事情を勤め先にばれることも、実家にばらされることにも大した恐怖は無かった。ばれたならばれたで仕方が無いと思える自分は、きっと昔よりも強くなっているはずだ。
 長い間内海に付き纏っていた恐怖心の元を辿れば、全てが橘川に対する事柄に行き着く。
 それが意味することは。
「何だ、そうか。そうだったのか――」
 このところずっと冴えない表情をしていた内海の顔に、笑顔が戻る。それはどこか清々しく、凛とした笑みだった。




「ではこちらが請求書になりますので、ご確認下さい」
「ありがとうございます。アフターサービスに関する費用は、都度徴収という形で大丈夫なんですよね?」
「ええ、それは受注時にご用意させて頂いた書面の記載通りです。保障期間内であれば、イレギュラー時を除いて費用も掛かりませんし、その後は都度サービス部門の方からお見積もりを出させて頂きますので」

 週末金曜日、橘川が【knight】を訪れた。新店舗に関係する様々な処理は、これでひと段落付くことになる。後は週明けに内海が振り込みの手続きを終わらせれば終了だ。
「……長いようで、あっという間だったな」
「そうだな。もうお前がここに足を運ぶことも無いだろうし」
 幾ら接待でもホストクラブは使わないだろうと言外に滲ませた内海の言葉に、感慨深げに呟いていた橘川が肩を竦めて返す。
「この間会った時より元気そうで良かった」
「そんなに酷い顔してたか?」
「かなりな。追い詰められてますって感じだったぞ? あの頃どれだけお前のことをちゃんと見てなかったか、今になって分かったよ。8年前のお前と、同じような表情だった」
 仕事の話に区切りを付けた、冗談交じりの内海の言葉。
 それに安堵の表情を覗かせた橘川が、僅かに顔色を曇らせた。
「これっきりってことは、無いよな? この仕事が終わっても、答えをもらうまでは、一緒にいて良いんだよな?」
「悦郎」
「……悪い。一度失くした信頼を取り戻すのがどれだけ大変か、初めて分かった。仕事での失敗を挽回するより遥かに難しいよな」
 苦笑を浮かべる橘川に向かい、内海は柔らかな微笑を浮かべて見せる。再会以来初めて見せた、何の憂いも無い心からの笑みに、目の前の橘川が軽く眉を持ち上げた。
「ちゃんと伝わってるよ」
「智久?」
「お前の反省や後悔も、俺を想ってくれてる気持ちも、ちゃんと伝わってる」
「それって――」
 告げた言葉に目を瞠った橘川の、小さく息を飲む気配が伝わってくる。自分の言動ひとつに振り子のように揺れ動く橘川の心が、内海には見える気がした。
 学生時代には、秋波を送ってくる女性を無愛想にあしらっていた男だというのに。あの頃の橘川と、今自分の前にいる男が同一人物だとは思えないほどだ。
「俺はさ……多分ずっと、自分に自信が無かったんだ」
 期待に満ちた眼差しで見つめる橘川が、内海の言葉に僅かに首を傾げた。
 続く言葉に構えていた分、恐らくは拍子抜けしたのだろう。間の抜けた表情に、思わず苦笑してしまう。
「お前は女も抱けるし、俺はどこにでもいる平凡な男だろ。見た目が多少華奢なだけで、悦郎と比べたら頭も良くないし、意外とネガティブ思考だし」
 自分で口にしていながら情けなくなってくる。これといって自慢出来るようなことなんてひとつも思い当たらない。唯一の取り得といえば、多少は家事が出来るという事くらいだ。
「智久…それでも俺は、そんなお前が好きだ――気を遣って辛いことも全部独りで抱え込んじまう優しさも、ネガティブだって言いながら、人前じゃ涙を見せようとしない強さも、隠そうとしてもバレバレな甘えたがりの部分も……お前じゃなきゃ駄目なんだ」
 自己否定にさえ聞こえる内海の言葉を受けて、橘川は自らの心の内に問い掛けながら慎重に、けれど真摯に想いを伝えて寄越す。
 内海には見つけられなかった自分の良さを感じ取ってくれている。こんな自分でも好きだと言ってくれる相手が、自分がずっと想い続けて来た男なのだと思えば、素直になれないはずがない。
「二度と俺を裏切らないって、誓ってくれるなら……俺も、二度と逃げないって誓う」
 あれほど答えを出すことは難しいと思っていたのに。気付けばこうして気負うことも無く、内海は結論を告げることが出来ていた。


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