キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (41)

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 愛されていると思えることが、愛しているという想いが、人を強くしてくれるのかもしれない。一人では感じる弱さも、二人ならば強くだってなれるのだ。
「俺と一緒にいることで、お前には迷惑掛けることもあるかもしれないし、嫌な思いをさせることもあるかもしれないけど――俺も、悦郎と一緒に生きて行きたい」
 最後まで視線を逸らす事無く言い切れた。少しだけ声が震えてしまった気もするけれど、自分の想いは言葉に出来たはずだ。
 それなのに内海の答えを聞いた橘川は、その言葉を聞き届けた瞬間顔を険しく歪めて俯いてしまう。正面にいる内海からは、俯けられた橘川の表情は見えなくて。
「悦郎?」
「――誓う……誓うよ――これから一生掛けて、信じてもらえたならそれでいい。迷惑なんて幾らだって掛けてくれ。お前に頼ってもらえるなら、男冥利に尽きるってもんだ」
 沈黙したままの橘川へと呼びかければ、鼻に掛かった声が返ってくる。泣くのを堪えているのだろうか。低く掠れた声が、内海の鼓膜を優しく震わせた。
「ありがとう、智久――ごめんな、馬鹿な男で、本当に悪かった」
 やっと顔を起こした橘川だったけれど、その瞳は赤く潤み、口元には気恥ずかしげな小さな笑みが浮かんでいた。
「俺の方こそごめん。ずっと逃げてて、向き合おうともしなくて……男らしくないよな」
 いや俺が、俺の方が、何度も互いに謝罪の言葉を口にし合ううちに、どちらからともなく笑いが起きる。一頻り笑い合えば、後には思春期の頃のような甘酸っぱいむず痒さが広がった。
「……智久、今日ってこの後は予定あるのか?」
「飲みに行くだけなら、良いよ」
「え……だけ?」
「何だよ、嫌なのか」
 付き合い立ての十代の子供のような照れ臭さを感じてはいても、橘川の言葉の裏を読めないほどの子供じゃない。内海だってそれなりに経験を積んできた良い大人なのだから。
 言葉に隠された情欲の色を感じながらも、内海にはどうしても伝えておかなければならない不安事項があった。
「俺も今すぐ、あの部屋に行きたいよ……でも、仕事も今大詰めに差し掛かってるからな。あの店に対する康兄の思いの強さを誰よりも知ってる俺が、色惚けしてポカやらかすわけにはいかないんだ」
長かった擦れ違いの時間を乗り越え、ようやく互いの気持ちに寄り添えるまで近付いたというのに、内海の口から出て来たのはそんな言葉だった。

 気持ちを確かめ合えたのなら、身体でも繋がりたい。そう思うのは自然なことだろう。告げられた橘川は唖然とした表情を浮かべ、内海の言葉を聞いていた。
「それは、あれだよな?」
「あれって?」
「本当はよりを戻したくないけど俺に同情して良い返事をくれた、とかいう事じゃないよな……っていう」
「そんなわけないだろ」
 ぱしぱしと何度か瞬いた後、橘川が恐る恐る切り出した問い掛けに、内海はきっぱりと首を振って応えた。
「そ、そうか……はぁ…そっか、うん……分かった」
「悦郎」
「再会出来たこと自体が奇跡みたいなもんだからな――待つよ。もう少しくらい、待てる。ここまでの時間を考えれば一瞬だろ」
 否定の言葉を躊躇無く口にした内海の姿に大きな溜息を吐き、橘川は頷いてくれた。
 歓喜からの緊張、緊張からの安堵、そして苦笑を浮かべた愛しい男が、仕方ないなと内海を見つめる。
 橘川にとっては絶叫マシーンにでも乗ったかのような、目まぐるしい感情の変化に振り回された時間だったろうと思う。それでもそうやって微笑んでくれる男だから、自分は橘川以外の男性に心を向ける事が出来なかったのだと改めて実感した。
「でもちょっとだけ……お前に、触れてもいいか?」
「え――あっ」
 受け止めてくれた橘川の想いが胸に届いて、内海の瞳も潤み出した時だった。一瞬の間にローテーブルを回りこんで来た橘川の腕の中に、内海の身体がすっぽりと包み込まれる。
 是とも否とも答える暇も無い早業に、驚き過ぎて固まってしまう。
「ずっと、こうして抱き締めたかった。お前の体温を感じたかった」
「悦郎……俺も、お前にこうやって抱き締めてもらいたかったよ」
 聞き取れるかどうかの小さな声が、内海の耳に届く。
 しっかりと回された腕が小刻みに震えている気がするのは、気のせいなんかじゃないのだろう。そっと抱き返した内海の、橘川の背へと伸ばした指先も震えていた。

 どの位の時間そうやって抱き合っていただろうか。
 溢れ出す想いを堪えようと吐き出される息が、熱く感じる。
「智久――」
 離れ難さを押さえ込みながら僅かに身体を離せば、数センチの距離にある橘川の瞳と、内海の視線とが絡み合う。互いの目に映るのはお互いの姿だけ。情欲の色に濡れた橘川の眼差しの中には、同じように切ない表情をする自分の姿が映っていた。
「っと、やべえ」
「悦郎? え、何で……」
 あと少し首を傾げれば、あと少しの距離を縮めれば、唇が触れ合う。そう思ったのに、橘川の唇は内海のそれへと重なることは無いままで、代わりに触れ合わされたのは額だった。
 おでことおでこをこつんと合わせ、鼻先だけが微妙に擦れる。ある意味、キスを交わすよりも恥ずかしい体勢に、内海の頬が朱に染まった。
「そんな顔すんなよ……これでも必死に耐えてんだから」
「耐えて、って」
「今キスしたら、それ以上のことをしたくなる自信があるからな。止められない状況は作らない方が賢明だろ」
「なっ、お、前……よくそんな、恥ずかしいこと……」
「だから煽るなって! よしっ、飲み行くぞ!」
 至近距離で囁かれれば、耳に届いた歯の浮くような台詞に全身がむず痒くなってしまう。
 けれど橘川の言葉に嘘が無いことも、自分も同じように止められなくなるだろうことも、若干の兆しを見せている下半身事情を考えれば納得せざるを得ない。
 互いの温もりに飢えているのは、二人とも同じなのだ。

「待ってくれ。もうひとつ、お前に話しておきたい事があるんだ」

 欲望を振り切ろうと勢いよく身体を引き剥がした橘川に、内海は固い声を上げた。先ほどまでの甘い空気が一瞬で消えて、室内の温度が下がった気がする。
 踵を返しかけていた橘川が、雰囲気の変わった内海の様子に表情を改めた。
「やっぱり、何かあったのか?」
 心配そうに内海を見る橘川に、曖昧な笑みを浮かべて返す。
「俺との事だけで悩んでるんじゃないだろうな、って気はしてた」
「そっか……少し前に悦郎と飲んだ帰りにさ、元晴さんと会ったんだ」
「元晴――お前、そいつって!」
 橘川が本気で心配してくれているのが伝わってくる。だから内海は、隠すことなく抱え込んでいた事を話すことが出来る。
 内海の口にした名前に記憶を探るように眉を寄せた橘川が、その名に思い至った途端目を瞠った。怒りの色が浮かんだ橘川の表情に苦笑しながら、座って話そうと促す。
「何かされたのか?」
「いや……その時は何もなかった。あっちはかなり酔ってたし、その場で俺だとは気付かなかったみたいだ」
「そう、か」
 少しだけ安堵したのか、椅子の背もたれに寄りかかった橘川が溜息を漏らす。そんな橘川に、一拍置いた内海は感情的にならないようにと注意しながら、その後のことを淡々と語り始める。
「だいぶ荒んだ雰囲気になってて驚いた。それから暫らくして、店の周りに怪しい人影がうろつくようになった」
「怪しい人影?」
「俺は遭遇してないから、それが元晴さんなのかどうかは分からない。でもタイミング的に見ても、何かしら関係がありそうな気はしてる」
 店に通う客が怖がっていること。ホストの皆もそれを気にして、時間が許す限り客の行き帰りに付き合っていること。それらが自分に関係して起こり始めているのではないかという不安。
 話を進めるにつれて、橘川の表情に険しさが増していくのが分かる。
「俺に直接何か言ってくるなら対応も取れると思うんだ。あの頃ちゃんと話すことも無く逃げ出したのも悪かったと思ってる。毅然とした態度で接しなきゃいけなかったのに、俺は逃げてしまったから」
「智久……でもそれは、お前が悪かったわけじゃないだろ! 何をどう考えても、悪いのはその元晴ってやつで、訴えられなかったことに感謝されてもおかしくないはずだ」
「ありがとう悦郎。でもそれをしなかったから、俺の中では……多分元晴さんの中でも、終わりに出来てないんだと思うんだ」

 橘川が自分のために怒ってくれている。それだけで勇気をもらえる気がした。


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