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1巻
1-1
プロローグ
「文房具……ボールペンの在庫は十一箱、と」
棚に入った箱を数えた私は、手元の帳面に「十一」と書く。そうしながら、帳面に記載されている計算在庫と数が一致していることを確認した。
よし、合ってる。
「次は、えーと……コピー用紙ね」
とある会社の庶務課に勤務してもうすぐ三年目の私・七瀬桜子は、現在、年度末の備品在庫を確認している。といっても、数えるのは未開封、未使用の物だけでいいので、作業自体はわりと楽である。この調子なら、お昼前には終わりそうだ。
「まずは、A4サイズ……」
私は、備品倉庫を兼ねた庶務課の書庫をざっと見回す。しかし、この間まであった場所にコピー用紙が見つからない。
それなりに広い書庫の中は、雑多な物で溢れている。
これは、一度整理した方がいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、コピー用紙の入った箱を見つけた。
「えっと、A4サイズは五梱包入りの箱が二箱と、開封した箱の中に……」
私は棚から開いた箱を取り出し、カーペットの上で中身を確認し始める。
その時、誰かが書庫に入ってきたのに気がついた。男性の足音が近づいてくる気配に、知らず体が震える。ここは人気のない密室である。それが一層、私の恐怖を煽った。
「さくらー? どこー?」
直後――艶やかなバリトンボイスに名前を呼ばれて、私はほっと息をついた。
同時に、眉間に皺が寄る。
「さくら? ……ああ、見つけた」
私を見つけて、嬉しそうに微笑んだのは、鷹条忍。百八十三センチの身長を持つ、非常に整った顔立ちをした美形である。年齢は私と同じ二十四歳。
「備品の在庫チェックだよね、俺も手伝うよ」
そう言って傍まで歩いてきた彼に、私は硬い声で返事をする。
「一人でできます。あなたにお手伝いいただくほどのことではありません……専務」
――そう。彼は私の勤める鷹条商事の専務取締役なのだ。当然、こんなところで備品確認などやっていい人ではない。
なんとかお引き取り願おうとする私に構わず、彼は「どこまで進んでる?」と、綺麗な顔を寄せて、帳面を覗き込んできた。
「一人でやるより、二人でやった方が速くて正確だよ。それに、さくらが棚の上を確認するのは、大変だろう?」
「脚立があるので大丈夫です」
「さくらにそんな危ないこと、させられない」
鷹条専務が、真面目な顔で断言してくるので、私の眉間の皺は更に深くなった。
「専務、本当に困ります」
「さくら、その他人行儀な呼び方をやめて、忍って呼んで。ああ、昔みたいに、しーちゃんでもいいよ?」
他人である。少なくとも、一般社員が専務を呼ぶ言葉ではない。
「……私、仕事とプライベートは分けたいんです」
「じゃあ専務命令。忍って呼ぶように」
できるだけ淡々と返していた私ににこっと笑いかけながら、公私混同甚だしい命令が下される。彼のペースにつられてはいけないと思うのに、あまりの理不尽さについ苛立ちが漏れてしまった。
「……して」
「え?」
「もう、いい加減にして! 毎日毎日、どうして私に構うのよ!」
そんな私の逆ギレに、忍は嬉しそうに笑み崩れた。それでも美形なのが悔しい。
「だってさくらは俺の初恋の人だもん。今も初恋継続中の俺にとっては、さくらに構うのは当たり前のことだよ」
そう言って忍は、「さくらは特別なんだ」と、甘く微笑んだ。そして私は――忍のこの笑みに弱い。
私と忍は、はとこ同士である。私の父方の祖母は鷹条家のお嬢様で、正確には現当主の姉にあたる、そして忍はその鷹条グループ会長・鷹条圭一郎氏直系の孫なのだ。
忍との関係は、少しややこしい。遠縁といえばそれまでだが、私達の曾祖父が決めた婚約者――でもある。四歳の時に、互いの意志確認より先に決められた婚約ではあるが。
それを律儀に受け入れた忍は、以来「さくらは俺の特別」「初恋」と言ってくるようになった。
そして、社会人となった今も、毎日庶務課にやって来ては男性陣を牽制している。被害が庶務課で止まっているのは、会社中にそんなことを主張したら私は退職する、と言ったからだ。
黙っていると、忍は沈黙は了承と受け取ったようだ。「じゃあ、俺が数を確認するから、さくらは帳面に記入していって」と棚の在庫を数え出した。
確かに、二人でやる方が速い。速いけど……
庶務課の一社員が、専務に仕事を手伝ってもらうなんておかしいだろう。なのに、なんだかんだで、いつも忍に押し切られてしまう。
結局私は、忍と一緒に備品在庫確認を終わらせた。
「終わったー。他に、何か手伝うことある?」
「ないよ。庶務課に戻る」
「じゃあ行こう」
私と忍は、並んで書庫を出た。
「忍、並ぶのはやめて」
「えー」
毎日忍が入り浸っているせいで、庶務課には二人の関係が知られているけれど、他の部署の人間は何も知らないのだ。忍と一緒のところを見られたくない。
「さくらは俺に冷たい」
でもそこも可愛いんだけど、という忍の言葉を無視した。
すると、後ろから腕を掴まれ抱き締められる。
「ちょっと、忍、離して」
「嫌だ。離さない」
忍は、更に強く私を抱き締めてきた。
どくどくと、心臓が痛いくらいに騒いでいる。
「忍、ね、誰か来たら誤解される。だから、離して」
「誤解じゃない。俺がさくらを好きなのは事実だ」
私を抱き締めていた忍の腕の力が少し緩んだので、おずおずと振り返った。そこで――私を見つめる忍の表情は、見たことがないくらい真摯で息を呑んだ。
「さくらだって、俺のこと――」
綺麗すぎる忍の顔が、吐息を感じるくらい近づいてくる。
――怖い。
何かを期待してしまいそうな私自身が。
微かに震える私に気づいた忍は、ふっと観念したように笑った。おどけた顔で、頭をポンポンと撫でる。
「さくらは、俺のこと好きだよね?」
「……私は、忍とは違うから」
「どこが?」
「…………」
口をつぐみ、忍の視線を避けるみたいに俯いた。
私が忍を好きだなんて、どう考えても「身の程知らず」だ。
平々凡々で地味な容姿。取り立てて優れたところがなく要領も悪い。三拍子どころか四拍子も揃った私なんかが、高学歴で容姿も完璧、スポーツ万能な上、権力財力家柄まで揃っている、完全無欠な忍を「好き」だなんて。
私には、彼への気持ちを堂々と口に出すことなどできない。
「ほんと……、さくらは怖がりだね」
忍が私を見て微笑んだ。仕方ないと言いたそうな口調なのに、とても優しく響く。
「……ん」
彼の腕から解放されたことにほっとしつつ、寂しさを覚える私は矛盾している。
忍の背が見えなくなるまで見送ってから、私は気持ちを切り替えて庶務課に向かった。
1
誰もが知る巨大企業というものがある。
私の勤務する鷹条商事は、世界に名高い鷹条グループの中心を担う大企業だ。
その鷹条グループが傘下に持つ企業は、中核となる会社に勤める私も把握しきれないほどだ。
歴史を遡れば、千二百年以上の歴史を持ち公家華族でもあった鷹条家が、明治時代に立ち上げた企業がもととなっているらしい。非上場の同族会社でありながら、これまでグループとして赤字を出したことがないという優良企業なのである。
「戻りましたー」
私は、明るい声をかけて庶務課のドアを開けた。男性八人、女性三人の十一人しかいない小さな課なのに、さすがは鷹条商事。広々とした、居心地のいい綺麗なオフィスである。
「森さん。備品の在庫確認、終わりました」
私は席に戻る前に、先輩である、森玲奈さんに報告した。玲奈さんは、関西支社から異動してきた、二十六歳のゆるふわ系美人である。
「お疲れ、七瀬ちゃん。戻ったところ悪いけど、急ぎの仕事がなかったら、ちょっと手伝うてくれへん?」
彼女は、私に向かって両手を合わせてきた。私は庶務課に在籍しているけれど、メインの業務は社史の編纂だったりする。その業務の間に、こうして玲奈さん達に頼まれた仕事もこなしている。
「はい。なんでしょう」
「見て、これ。明日までに整理してくれやて」
玲奈さんが見せてくれた伝票入れには、納品伝票、発注伝票、振替伝票、更には受領書控など、サイズの揃ってない伝票が混在し山を作っている。
「うわあ……ぐちゃぐちゃですね」
「課長が溜めまくってはったんよ……うち、残業は嫌やのに……!」
ぎらりと睨みつけられた砂川課長は、びくっと震えてこちらに背中を向けた。
「大丈夫です、二人でやったらすぐ終わりますよ」
「七瀬ちゃん……!」
玲奈さんからうるうるした目を向けられるが、先輩を手伝うのは当然のことだと思う。
ちなみに、庶務課の合言葉は「遅れず焦らず残業せず」である。基本的に定時で帰ることを目標とした職場なので、このような急ぎの仕事はレアケースだ。
私と玲奈さんが伝票を整理し始めているところに、他部署に出かけていた佐原葉子さんが戻ってきた。佐原さんは三十五歳で、庶務課の三人いる女性社員の中で一番の古株だ。
「どうしたの?」
「課長が溜めとった」
玲奈さんが端的に答えると、葉子さんは冷ややかな視線を砂川課長に向ける。
「課長。伝票類は溜めないでくださいと、私、お願いしましたよね?」
葉子さんの美しすぎる微笑みに、砂川課長がたじろいだ様子で言い訳した。
「う、うっかりしていて……」
「うっかりもすっかりもありません。――七瀬さん、それを取引先別に分けて。森さんは、こっちを用途別に分けて。お昼は無理でも、三時までには済ませちゃいましょ」
私達にてきぱきと指示を出しながら、葉子さんが仕分け作業に加わってくれる。
「用途別って、どこまでやったらええん?」
「とりあえず、雑費かそれ以外かでいいわ。あとは、課長に確認してもらうから」
つまり、わからないものは砂川課長に突き返すということだ。
葉子さんは強い。なんせ、元は社長秘書を務めていた人だ。噂によれば、社長に勧められたお見合いを蹴ったことで、「社長の顔を潰しましたので」と、自ら異動願を出して庶務課に来たという。
そんな彼女は、秘書課をはじめ人事や総務など、社内のあらゆるところに情報源ともいうべき知己がいて、実は庶務課最強の存在だったりする。
「他に、伝票や書類を溜めている人はいませんね?」
砂川課長以外の庶務課の男性社員が、びしっと背筋を伸ばして頷いた。
「ま、この伝票、自分らが溜めとったもんかもしれへんしな」
ぼそっと呟いた玲奈さんの言葉に、私は苦笑してしまう。
このあと、お昼の休憩を取ったのだが仕事が詰まっていることもあり、私達は十分ほど早く戻って作業を再開した。お互い苦労性よねえと、葉子さんが溜息まじりに笑っている。
「こちらの仕分け、終わりました。そっちの山の分類も始めていいですか?」
「いえ、七瀬さんは一番タイピングが速いから、入力をお願い」
葉子さんの指示に従い、私は仕分けを済ませた伝票を持ってパソコンに向かう。
「私達はその間に、残りの山を片づけちゃうわ」
「了解しました」
私が入力している間に、二人は正確かつ迅速に伝票の仕分けを進めていった。
「……よし、終わり!」
「七瀬さん、これもお願いね」
「はい」
追加で受け取った伝票は二百枚もなかったので、私はすぐに入力を終えた。
ミスがないかを再度確認して、葉子さんに最終チェックをお願いする。その間に、伝票入れの中に取り残しがないか見た。
その時、社内に三時の休憩を告げるベルが鳴った。
「あ。三時やん。休憩休憩!」
さっと立ち上がって、玲奈さんが給湯スペースに向かう。
鷹条商事はお昼休憩とは別に、毎日午後三時に二十分の休憩時間があるのだ。世界に名だたるだけあって、超のつくホワイト企業である。
「七瀬ちゃんも紅茶でかまへん? ミルクやな?」
一瞬の差で出遅れた私は、急いで給湯室に向かう。
「あの、森さん、私が淹れます」
「ええよ、ついでやし。葉子さんはー? 三人分やったら、葉っぱ使うから」
「じゃあ、私も紅茶をお願い。ミルクでね」
――今日も、玲奈さんに先を越されちゃった。認めたくないけど、ちょっとトロいのかもしれない。
私は、ここで一番後輩なのに、と席に戻りながら軽く落ち込む。
そこでふと、三時の休憩用にお菓子を持ってきたのを思い出した。私はデスクの引き出しから焼き菓子の詰め合わせを取り出して、葉子さんに差し出した。
「佐原さん、よかったらどうぞ」
「あら、ル・フローサのお菓子ね。私、ここのマドレーヌが好きなのよ」
「森さんもいかがですか?」
「食べるー! 葉子さんのお墨付きなら間違いないもん。待って待って、お茶っ葉蒸しとるから、もうちょっと待ってー」
しばらくして、玲奈さんはカップに入った紅茶と、低温殺菌牛乳を入れたミルクピッチャーを持って来てくれた。コーヒーフレッシュでミルクティーって許せへんねん、というのが玲奈さんの主張である。
「わー、可愛い。うちはクッキーいただこうかな」
二人が相好を崩してそれぞれに焼き菓子を取る。私もだけれど、葉子さんと玲奈さんも、甘い物が好きだ。
二人が好きなお菓子を選んだあと、私は菓子箱を手に立ち上がった。砂川課長達、庶務課の男性陣にもおすそ分けした方がいいだろう。
「……えっと、どうぞ、砂川課長……」
「やめたれ」
「やめてあげなさい」
間髪を容れず、玲奈さんと葉子さんから、同時に止められた。
「七瀬さん。課長はマイホームを購入して、定年まで三十五年ローンを組んでるのよ。降格や左遷になったら困るでしょ」
「皆におすそ分けしようとする気持ちは、ありがたいけどな。七瀬ちゃんに関しては、何もせんといてあげるのが課長達への優しさやで」
二人にこんこんと諭される。彼女達がそんなことを言う理由が思い当たるだけに、私は頷くしかない。
その時、庶務課のドアがノックもなしに開いた。
「お疲れ様でーす」
明るく挨拶しながら入ってきたのは、忍だった。そのまま、真っ直ぐこちらに歩いてきて、すとんと私の左隣に座る。そして、ぐるりと庶務課を見回した。
「葉子さん、今日の『さくらに話しかけたり近づいたりした男』のカウントは?」
庶務課には、砂川課長を含めた八人の男性社員がいる。こちらに決して視線を向けない彼らが、忍の言葉に緊張しているのが伝わってきた。
「ゼロです」
葉子さんが、慣れた様子で質問に答える。
「よかった。ほんと毎日気が気じゃないんだよね。いっそここに、監視カメラを設置したいくらいだよ」
「専務、監視や盗聴はやめてくださいね」
「同意を得て設置するのなら、問題ないんじゃない?」
目の前で何気なく交わされる二人の会話。その内容は、実にとんでもない。
監視や盗聴されながら仕事をするなんてお断りだ。ただでさえ、どこに行くにも社員カードが必要な上、指の静脈認証まであるくらいセキュリティが厳しい会社なのに。
「でも、七瀬ちゃんは嫌やろうな」
「嫌です」
玲奈さんの言葉に、すかさず私は同意した。心から同意した。でないと、本当に設置されかねない。
「そっか、なら仕方ないね、諦めるとしよう。……葉子さん、これ、フレッシュジュースにしてくれるかな」
肩をすくめた忍が、葉子さんに小さな袋を手渡す。
「あら、おいしそうな苺ですね。お砂糖あったかしら」
そう言いながら、葉子さんが席を立ち給湯スペースに向かう。給湯室には、誰が持ち込んだのかミキサーが置いてあった。ただ、型が古くて使いにくいというか、使い手を選ぶというか――葉子さんにしか従わないという意志を感じさせるような代物で、私も玲奈さんも使えないのだ。
「葉子さんお手製の苺のフレッシュジュースがくるから、さくらの紅茶は俺がもらうね」
そう言って、忍が私のカップを手に取った。それを事前に防げない私は、やはりトロい気がする。
「え、でもそれ、私の飲みかけ……」
「さくらの飲みかけなら俺は気にしない」
綺麗すぎるほど綺麗な顔で笑ってスルーして、忍は私のカップに口をつけた。
その一連の動きに、つい目を奪われてしまう。
「はー、さくらとの間接キスにときめく」
「何言ってるの!?」
「二十四にもなって、キスもしとらんの、専務」
「さくらは、身持ちがしっかりした女性だから」
頑なだけど可愛いんだーと蕩けた顔をした忍に、玲奈さんがすっとクッキーを差し出した。
「気の毒やからこれあげるわ。七瀬ちゃんからの差し入れやで」
「ありがとう、玲奈ちゃん。さくらのおすすめのお菓子ってだけで俺は嬉しい。玲奈ちゃんのボーナス査定上げとくね」
玲奈さんと専務の、公私混同甚だしい会話でハッと我に返る。
「何の会話ですか! 新しく淹れ直してきますからカップ返してください!」
「七瀬ちゃん、私が葉っぱから丁寧に淹れたげた紅茶、無駄にする気やないな?」
そう言われると、「淹れていただいた後輩」としては何も言えない。
「口つけちゃったけど、さくらが飲むなら返すよ」
返されても困る。
「…………」
沈黙した私のデスクに、給湯スペースから戻って来た葉子さんがフレッシュジュースを置いた。
「はい、七瀬さん、どうぞ。苺のフレッシュジュース」
目の前の大振りのグラスから、甘く爽やかな香りが漂ってくる。綺麗な赤と、牛乳を入れてくれたのか、可愛いピンクのグラデーションが目に麗しい。更に、小粒な苺を飾ってある。これもうお店で出せるレベルだと思う。
「すみません、佐原さん。ありがとうございます」
私は立ち上がって、葉子さんに頭を下げる。三時の休憩は二十分しかないのに、葉子さんに仕事をさせてしまった。後でちゃんとお礼をしなきゃ。
「気にしないで。あのミキサー、使うのにコツがいるし。初めて作ったから、甘さが足りないかもしれないけど」
「大丈夫だよ、葉子さん。その分、俺が甘やかすから」
にこっと言った忍に、玲奈さんが鼻で嗤った。
「甘えてもらえへんくせにー」
もっと言ってやってください。
「玲奈ちゃん、キツい。事実だけにキツい」
「まあ、七瀬ちゃんは真面目さんやからな」
ミルクティーとクッキーを堪能しながら、玲奈さんが言い、忍はうんうんと頷いている。
「そうなんだよ、そこがまた可愛いんだ。さくらなら、公私混同しても可愛いけどね」
忍はほぼ毎日庶務課に入り浸っているから、今ではもう葉子さんも玲奈さんも気にしない。というか、この二人は最初から気にしなかった。忍の宣告のせいで「むしろ当然でしょ」と受け入れていた。
「ね、さくら、おいしい?」
そう言って、忍が私の顔を覗き込んでくる。
苺の甘さと酸味が絶妙で、とても濃厚でおいしかった。だけど、素直に返事はしたくない。
「黙ってるってことは、おいしいんだね。だったら、お礼。俺にお礼」
こういうところが、付き合いの長い相手は面倒なのだ。私はこちらに身を乗り出している忍から顔を背けて、葉子さんに笑みを向ける。
「佐原さん、ありがとうございます。すごくおいしいです」
「それはよかった。でも、スポンサーにもお礼を言ってあげてね、鬱陶しいから」
にっこり笑って言われたら、私もこれ以上はスルーできない。仕方なく、隣を見ずにお礼を言った。
「ありがとうございます、鷹条専務」
「さくらー、さっき俺のことは忍って呼ぶように言ったよね。理由が必要なら何回でも言うよ、俺はさくらが初恋で、今も……」
「わかった、もういい、黙って」
私は、忍の顔を真っ直ぐに見た。
「でも、私、忍の『初恋』は信じない」
「しっかし、専務は相変わらず桜ちゃんのこと大好きやな」
その日の終業後。更衣室で着替えていた私に、玲奈さんが話しかけてきた。会社はちょうど繁忙期で、定時で仕事を上がれるのは庶務課くらいのものだ。その為、現在更衣室の中に、他の部署の女性はいない。
「桜子ちゃんが可愛くて仕方ないのよ」
そう言うのは葉子さん。二人は仕事が絡まないところで私のことを名前で呼んでくれている。だから、私もまた二人を名前で呼ぶようにしていた。
「入社早々、庶務課に来たかと思うたら『男性社員はさくらに近づくな』やもんなあ」
「……思い出させないでください……」
――そう。あれは一年前の春。
鷹条グループの会長を祖父に、社長を父に持つ忍は、最初から専務取締役として入社した。何故なら彼は、その為の教育を子供の頃から受けてきたからだ。
中学で英国に留学しそのままハイスクールまで卒業した忍は、アメリカの名門私立大学をスキップで卒業後、フランスのグランゼコールに入ったという、ものすごい経歴の持ち主なのだ。
そんな彼が、去年の入社式の直後、いきなり庶務課に現れた。驚き慌てる社員達に構わず、彼は勝手に私のデスクの隣に自分の席を作り、「男性社員は七瀬桜子と会話も社内メールも電話もすべて禁止する。どうしても必要な場合は、他の女性社員を介して伝えるように」と高らかに宣言したのだ。
その場で葉子さんが取り成してくれたおかげで挨拶だけは許されているが、私はその日以来、庶務課の男性社員達に心理的にも物理的にも距離を置かれている。
――忍には何の権利があって、私をこんな目に遭わせるのか。私は忍の所有物か、と言いたい。
「毎日、庶務課に入り浸って、いつ仕事しとるんやろ専務」
「仕事はきちんとしてらっしゃるわよ。今は、緑の砂漠化対策のプロジェクトで、研究開発を進めてるみたいね」
着替えを済ませた葉子さんが教えてくれた。
「ああ、それと、桜子ちゃん」
「はい」
「経理から、桜子ちゃんが欲しいって言われたんだけど、お断りしたから」
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