独占欲全開の幼馴染は、エリート御曹司。

神城葵

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1巻

1-3


「さくら、おはよう」
「……おはようございます」

 ドアを開けて入ってくるなり、私を見つけた忍はにっこり笑った。以前は、パーティションの陰に隠れていても見つかった。忍には、私を見つけるセンサーでも付いているのかしら。

「毎日、偉いね、さくら。すごい、可愛い」
「私には、これくらいしかできないもの。それから、可愛くない」

 実際、私の仕事である社史編纂へんさんは、期限の切られていない仕事だ。だから私としては、手がいた時は、庶務課のアシスタントとして働きたかったのだけれど――忍のおかげで、それは夢と消えた。
 固く絞ったタオルでデスクをきながら、何度か給湯スペースと行き来する。バケツを用意してもいいんだけど、蹴倒したら悲惨だものね……

「さくら、今日いてる? 夕飯、一緒に行こう」
「嫌。職場で、仕事に関係ない話はしないで」

 私のつっけんどんな返事にも、忍はまったく動じない。

「始業三十分前だよ。庶務課は早出も残業もないし、まだ誰も来ない。それにさくらは、タイムカード切ってないよね。だから今はプライベートのはずだ」

 私が早出するもうひとつの理由は、朝の満員電車を避けたいからだ。一時間早く家を出るだけで、通勤は随分楽になる。そしてその時間を使って、掃除をしているのだ。

「それに、この間、意地悪な秘書から助けてあげたよね、デートは無理でも食事くらいはしてくれてもよくない?」

 それを持ち出されると弱い。助けてもらったのは事実だから。

「……」
「都合が悪くなるとすぐ黙るんだから。――ほんと、我儘わがままで可愛いな、さくらは」

 笑みを含んだ声に、体が震える。時々、忍は意地悪な言葉を、つやのある声で私に言う。

「……忍」
「声が震えてる。俺はさくらに何もしないのに、最近は警戒心全開だね――すごく、可愛い」

 忍の声と視線に、びくりと震えた。捕食者を前にした時のようなおびえと、わずかな興味が私の中に芽生めばえる。このところ、ふいに私の知らない忍が、少しだけ顔を出すようになった。

「何もしないよ。だからそんなにおびえないでほしいな」

 両手を降参の形で上げた忍は、困った様子で首をかしげた。

「ごめん。さくら、逃げないで」
「……逃げて、ない」

 自分でもわかるくらいおびえた声で答えて、私は逃げるみたいに掃除用具を片づけにいった。忍の見せる執着が、私は時々怖くなる。

「ごめん。俺が悪かった」

 つい焦るんだよねと、忍は溜息をついて意味不明な呟きをらす。

「……うん」

 私は、意識を変えたくて、お花に水をあげにいく。そのあとを、忍が黙ってついてきた。
 私は階段で三階に上がり、庶務課に割り当てられている第五会議室に入る。といっても、会議室とは名ばかりで、ここで会議があったことは私が知る限り一度もない。
 風通しのいい窓際には、胡蝶蘭こちょうらんをメインにいただきものの花が綺麗に飾られていた。その花にはすべて、送り主が記されている。宛先は営業だったり、開発だったり色々だ。
 事あるごとにいただくお花のお手入れは、庶務課の仕事。そして、ここの鉢植え達は、送り主たる取引先さんがご来社する時だけ、その部署に持って行かれるのである。

「えーと、如雨露じょうろは……あった」
「俺も手伝う」
如雨露じょうろはひとつしかないし、忍はもう役員室に戻りなさいよ」
「いやだ」

 一言で拒否された。私は忍に構わず、給湯スペースで如雨露じょうろに水を入れ窓際に向かった。忍はといえば、給湯スペースから私を眺めている。そんなことをしているくらいなら、役員室で仕事をしたらいいと思うのに。
 その時、突然ノックもなしに会議室の入口が開いた。見ると、スーツを着た三十代ほどの男性社員が立っている。彼は、私を認めた途端、乱暴な口調で問いかけてきた。

野宮のみや製鉄さんからの胡蝶蘭こちょうらん、どこ?」
「え」
「だから、野宮製鉄さんの胡蝶蘭こちょうらんだよ!」

 突然大声で言われて、私はびくっと震えた。中学以降はずっと女子校に通っていた私は、男性が苦手だ。特に大声で怒鳴られることが怖い。忍はそれを知っていて、私の前では幼い頃と同じように接してくれていることもわかっていた。
 だけど、忍じゃない人には――どうしていいかわからない。そして、忍じゃない男の人は、私の恐怖心なんて気にも留めてくれない。

「ちょ、ちょっとお待ちください」

 私は如雨露じょうろを置いて、焦って鉢植えの近くに寄った。毎日水やりをしていても、配置がころころ変わるので、すぐには答えられない。

「確か、野宮製鉄さんのお花は、ピンク色で……」
「ああ、もういいよ、自分で探すから。ったく、マジで使えないな、庶務課は!」

 ピンクの胡蝶蘭こちょうらんは少なかったので、すぐに見つかったらしい。窓際に置いてあった鉢を抱え、男性社員は私をにらんで会議室を出て行った。

「……あ!」

 乱暴に鉢を取られた為か、窓際に置かれた他の胡蝶蘭こちょうらんの茎が大きく揺れている。やがてぐらりと傾き窓際から落ちそうになった。
 私は慌てて鉢植えを支えようと駆け出して、自分がバランスを崩してしまう。

「……きゃっ!」
「さくら!」

 背後から焦った声が聞こえた。転倒を覚悟して目を閉じた直後、強い力で抱き締められる。そしてすぐに、ガツッと重い音がした。
 私は、おそるおそる目を開けて、息を呑んだ。
 眼前には、カーペットに散らばった土と欠けた鉢があった。背中にぬくもりを感じて振り返ると、すぐ近くに眉を寄せた忍の綺麗な顔が見える。その肩や頭に、土がついていた。

「し、のぶ……」

 忍は左腕で私を抱き込み、体重をかけないように右腕で体を支えていた。思いがけない腕の強さに、忍が男性であると改めて認識させられる。

「……さくら、大丈夫か?」

 忍の声が耳元をくすぐった。甘いバリトンに宿るわずかな焦り。
 窓際から落ちた胡蝶蘭こちょうらんの鉢は、忍に当たったらしい。床で割れている欠片かけらを見て、私の声が震える。

「忍、怪我……」
「――くそ、あの馬鹿。さくらに気を遣わず、俺が顔を出してればよかった……!」

 いつになく乱暴に言って、忍は私を見下ろした。

「ご、ごめんなさ……」
「さくら。俺は、さくらに大丈夫かって聞いたんだ」

 答えを聞くまでは安心できないと言うような口調で、忍は私を抱く力を強めた。

「だい、じょうぶ」

 そう答えると、忍はホッとした様子で深く息をついた。そして、体を起こして座ると、私を正面から抱き締めてくる。
 忍の首筋に顔が押しつけられ、ふわりと澄んだ香りがした。

「忍こそ、怪我は? それに、髪とスーツ、汚れてる……」
「さくらが無事ならいい」

 私は膝立ちして、忍の髪についた土を払った。

「……あいつ、第二営業部の綿貫わたぬきだったか。……さくらに暴言を吐いた……!」

 忍は、ぎりっと歯を噛みしめ、目付きを鋭くしている。

「ち、違う。私がすぐに鉢植えを見つけられなかったから」
「よくない。さくらは他人に優しすぎる」

 忍の右手が、私の髪をくしゃりと握り込む。苛立ちを抑えようとしているのか、綺麗な指が何度も私の髪をいた。その優しい指の動きに、私の胸はとくんと高鳴った。

「……本当に、怪我はない?」

 そう言うと、忍は私の手を取って、じっと見つめてくる。

「さくらの綺麗な手が、土で汚れちゃったね」

 忍は私を立たせて、給湯スペースに連れて行く。勢いよく水を出して、忍は私の手を洗ってくれた。そのすごく優しい指の動きが、妙になまめかしく感じる。

「ねえ……忍こそ、医務室に行かなくて平気?」
「んー、平気」

 忍に丁寧過ぎるくらい綺麗に洗われた手を、そっと離そうとすると、指をからめてくる。間近でじっと私を見る瞳は、とても綺麗だ。
 そこに映る私は、少しおびえた顔をしている。

「……しのぶ?」

 私を見つめたまま、忍は私の手に舌をわせた。

「――な、に、するの!」

 羞恥しゅうちと驚きでぱっと手を引き抜く。心臓が、あり得ないくらい高鳴っている。

「さくら、真っ赤になってる。――可愛い」

 嬉しそうに、忍が私に一歩近づく。私は更に一歩後ずさった。それを何度か繰り返しているうちに、私の背中がパーティションにぶつかった。

「さくら」

 いつもより低い忍の声は、ぞくっとするほど蠱惑的こわくてきだった。
 綺麗で、なまめかしくて、――怖い。

「やだ、忍、怖い」

 こらえきれずに、私は両手で自分の体を抱き締めた。
 ――怖い。それ以上、私に近づかないで。私の心をかき乱さないで。

「うん、ごめん。ごめんね、さくら」

 困ったように微笑んで、忍は少し距離を開けてくれた。さっきまでの「怖い」忍ではなくなり、私はゆっくりと安堵の息を吐いた。

「ごめん。怒った?」
「……怒ってない」

 怒ってはいない。ただ怖かっただけだ。そのことは、忍もわかっているらしい。
 私達はしばらく無言で過ごした。けれど、静かな空間に耐えきれなくなるのは、いつも私の方だ。

「忍」
「はい」
「えっと……スーツに、鉢植えの土が……」
「うん」
「その……クリーニング代……」

 おいくらですか、とは聞きにくい。かといって、忍がいつも言う「さくらはそんなこと気にしなくていい」は、さすがに頷けない。
 だって私は知っているのだ。忍の着ているスーツは、吊るしでも百万はくだらないブランドものだということを。

「じゃあ、その代わりに、俺がお願いしなくても、仕事中でも忍って呼んで。あと、敬語も使わないで」
「え?」
「スーツなんてどうでもいいけど、何かしなきゃ、さくらは落ち着かないんだよね。だから、俺のお願いをきいて。敬語は距離を感じて寂しいんだ」

 結構切実なんだよと、茶化すように笑われた。

「……駄目? 要求しすぎ? 庶務課だけでいいって言っても駄目?」

 そうだよね、勝手に手のひらめちゃったもんね、俺……と呟いて、私の羞恥心しゅうちしんあおるのはやめてほしい。

「……二人きりの時か、庶務課でも……葉子さんと玲奈さんしかいない時なら。それ以外は、仕事だから」

 溜息をついて言うと、忍は花がほころぶみたいな笑みを見せた。この形容が似合う男性というのもすごい。
 気づくと、始業時間が迫っている。私は急いで花に水をやって、会議室を出る。汚れたスーツを専務室で着替えてくるという忍とは、ここで別れた。
 何とかギリギリのタイミングでタイムカードを押し、私は庶務課の自席に戻る。席に座りながら、かすかに鼓動が速くなっている胸を押さえた。
 ――ああいう……見たことのない忍は、私の心臓を壊しそうで、怖い。でも――同時に強く惹きつけられるのだ。



   3


 始業ベルのあと、パソコンの社内メールを確認していると、私宛に一件のメールが届いていた。珍しいなと思って開いたら、滝上さんからのヘルプ要請だった。
 滝上祐一ゆういちさんは、忍の専属秘書をしている人だ。現在三十二歳の、既婚男性。元々滝上家は、鷹条家の家令をしていたおうちだったそうで、先祖から変わらず鷹条本家に仕えている。滝上さんも、小さな頃からお父上に連れられて、武蔵野の屋敷で忍の遊び相手を務めていた。それも「将来は忍様のお役に立つ為」とのことらしい。
 そんな滝上さんは、忍にとって、秘書というより歳の離れた兄のような存在だ。滝上さんという、気心の知れた信頼のおける相手がいるからこそ、忍は毎日庶務課に入りびたっていられるのだろう。
 滝上さんに言わせると、信頼という名の甘えらしいが。

『来週から十日間の予定で、パリ出張です』

 滝上さんからのメールは、たった一行だけだった。ちなみに件名は、『説得をお願いします』だ。
 これは滝上さんに愛想がないのではなく、必要最低限の内容にしないと、のぞき見した忍がねるからだ。それにしても……

「パリ、かあ……」

 忍は、私の傍を離れることを嫌う。特に、海外出張や取引先での打ち合わせなど、長期にわたるものはできるだけ回避しようとする。
 そんな忍に、パリ出張、しかも十日間なんて、どうやって納得させればいいのか。
 でも、私はこのメールを無視することはできない。
 何故なら滝上さんは、庶務課に忍のアホ発言を詫びた上、鷹条家の親戚という私の素性が知られないように、色々手を回してくれた恩人だ。その人からの頼みごとを断るなんて、仁義に反する。

「さくら、パリに行きたいの? 俺、留学してたから案内できるよ?」

 私の呟きを耳ざとく聞きつけた忍が、隣の席からうきうきした様子で問いかけてくる。

「忍。来週からパリに行って。十日間」
「さくらも一緒なら行く。え、婚前旅行のお誘い? 俺のスケジュールはいつでもける!」

 誰がそんなものに誘うか。
 忍は嬉しそうにスケジュール帳を広げている。

「婚前旅行じゃないし、私は行かない。出張だから」
「ごめんさくら、俺、スケジュール埋まってて」

 あっさり前言撤回して、忍はいさぎよく頭を下げた。そのいさぎよさはよしとするけれど、嘘はよくない。

「さっき、いつでもけるって聞いたけど」
「さくらの為じゃなきゃけたくない。というか、俺はさくらと一緒にいなきゃならないから、常にスケジュールは埋まってる」

 そんな義務はないでしょうと溜息をつきたいのをこらえて、私は忍に向き直った。真正面から顔を見ただけで、忍は嬉しそうな笑顔になる。

「仕事なんだから、パリに行ってきて」
「俺だって、さくらの言うことは聞いてあげたいけど、こればっかりは無理。ああ、さくらが一緒にくれば――って、駄目だ。パリなんかに連れていったら、あっちの男にさくらが口説くどかれて大変だ」

 じゃあ、イタリアか……駄目だラテンの国は却下などと、一人でぶつぶつ言っている。
 ラテン系の人すべてが、「女性を見たら、すぐにジュテームとかモナムールとか言って恋に落ちる」みたいな偏見を持ってはいけないと思う。

「真面目な話だから茶化さないで。ちゃんと忍の仕事をして」
「俺、さくらの社史編纂へんさんを手伝ってるから、忙しくて」
「嘘言わないで」
「そんなことないよ? ここ、入力が抜けてたから直しておいた」

 そう言って、忍は私のパソコンとサーバー共有している(させられているとも言う)フォルダから「歴史年表」を開いた。

「え、どこ?」

 勝手に直されても困るが、ミスなら訂正しなくてはいけない。しかし、モニターをのぞき込む私に忍が示したのは……

「ここ」

 ――二〇××年、鷹条忍、桜子(旧姓・七瀬)と、○○ホテル鳳凰ほうおうの間で華燭かしょくてん
 私は、黙ってその一行を削除した。

「ひどい、さくら。せっかく女性人気の高いホテルとプランにしたのに」

 忍が大げさに嘆くふりをする。そんな彼に、私は冷たい視線を向けた。

「そういうことは、相手の同意を得てからにして」

 それまで私達の馬鹿な会話を眺めていた玲奈さんが、不思議そうに聞いてきた。

「専務、どうやって調べはったん?」
「広報部使って、二十代女性の憧れのウェディングプランのアンケートを取ってもらった」

 公私混同どころの話じゃなかった。広報部にどんな理由を付けて、そんなことをやらせたのか。

「さくらと俺は、婚約して二十年だし。そろそろ遅すぎた春を迎えるべきだと思ってね」

 忍は胸を張って、得意げに答えている。

「あれを婚約だと、まだ言うの」
「指輪は、ちゃんと贈ったじゃないか」

 ええ、押しつけられていますとも。鷹条家の「次期当主夫人」が、代々受け継ぐという馬鹿高い指輪をね。いつの間にか、私の同意なく祖母が受け取っていた。

「でも、結納がまだだしなあ。……さくらが結納してくれるなら、パリに行ってもいいよ」

 忍は綺麗な笑みを浮かべながら、私の顔をのぞき込んでくる。
 思わず『ふざけるなー!』と叫びそうになった私に、斜め前から救いの声がかけられた。

「あかん、あかんわ、専務。そんなのはあかん。七瀬ちゃんの一生は、パリ出張なんぞと天秤にかけられる程度のもんなんか!?」

 どうやら忍の発言は、玲奈さんの怒りのポイントに触れてしまったらしい。

「早く先に進みたい気持ちはわかるけど、それはあかん! 自分で七瀬ちゃんの価値を下げてるんやで、そんなことしてええのか、惚れとるんやろ!」

 バンバンとデスクを叩いて、玲奈さんは怒りを表現している。何だか可愛い。

「もちろん惚れてるし、愛してる」
「せやったら、そないな条件出したらあかん! 男の格も下がってまうで。もっと軽いのにして、確実に距離を詰めて仕留めるんや」

 真顔で物騒なことを言う玲奈さんに、忍はうんうんと頷いた。

「ありがとう、玲奈ちゃん。こういう時、女の人の意見は参考になるね。じゃあ、さくら、今日のお昼を一緒に食べよう? そうしたらパリに行くよ」

 そして即断即決即実行。少しは悩んでほしい。

「え、でも……お昼は、佐原さんや森さんと約束して――」
「かまへん。譲ったるわ、専務」
「上司を気遣う部下を評価してくださいね」

 速攻で売られました。上司相手に同僚を守ってくれる二人ではない。他部署からは守ってくれるのに。

「社食の松花堂しょうかどう弁当を、役員室に運ばせるから二人で食べよう?」
「……お昼は今日だけよ。あと、役員室は嫌」
「なら、十階の第四会議室。今日は使う予定ないから」

 パリへの十日間出張を、一回のランチだけで納得させられるなら安いものなのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、私は溜息をつきつつ忍との昼食を約束した。


 そうして迎えたお昼休み。
 社員食堂に向かった葉子さんと玲奈さんに遅れること五分。私は庶務課を出て、食堂に向かう。
 忍の言っていた松花堂しょうかどう弁当は、滝上さんが注文してくれた。出来上がり時間を指定され、それに合わせて取りに行くことになっている。
 滝上さんは自分が運ぶと言ってくれたけれど、せっかくのお昼休みくらい、ゆっくり休憩してほしい。それでなくても、忍のお守りは大変だろうから。
 私はやってきた無人のエレベーターに乗り、社員食堂のある二十階を押した。なめらかな上昇感に包まれて目的のフロアに到着し、食堂のおばさんからこっそり松花堂しょうかどう弁当を受け取る。
 何故なら、松花堂しょうかどう弁当は、基本的に一般社員は頼めないメニューだからだ。
 階段で十階まで下りるのはキツいし、忍を待たせるのも悪い。私はもう一度エレベーターホールに向かった。しかしそこで、運悪く華やかな一団と鉢合わせてしまう。

「……っ」

 その中の一人が、私を見つけてにらみつけてきた。中里美春さんだ。今日は巻き髪ではないけれど、綺麗にセットされた髪と完璧なメイク。自信に満ちた表情が、私を見てゆがんだ。
 すぐに乗り込むかと思いきや、中里さんは黙って立っている。乗らないのかなと思って、エレベーターに乗り込もうとしたら、中里さんに腕をつかまれた。

「皆さん、先に行って。私、少し遅れます」
「え」
「ちょっと、お話ししたいことがあるの」

 有無うむを言わさぬ迫力で、中里さんが私に詰め寄ってくる。だけど、私にだって予定があるのだ。

「あ、あの、私、これからお昼で……」
「お昼なんか食べなくても死なないわよ」

 いえ、今日のお昼だけは食べないとまずいんです!
 断りたいのに、私の腕を強くつかむ中里さんの手が、ふりほどけない。
 そのまま、手近なき会議室に連れていかれた。

「あなた、一体何者なの」
「え……?」

 会議室に入るやいなや、中里さんは私を上から下まで見て眉をひそめる。

「人事課に聞いても、総務課に聞いても、あなたのことは教えてもらえなかったわ」

 どうして、中里さんが私のことを調べる必要があるのだろう。というか、個人情報なんだから、教えてもらえないのは当然だと思うが。

「専務が役員室に滅多にいらっしゃらない理由って、もしかしてあなた?」

 ギョッとして、息を呑む。
 これに関しては、そうです、とは絶対に言えない。そもそも、私の採用理由は伏せられているはずなのに、何故中里さんはそう思うのだろう。
 ……気づいた、んだろうか。中里さんは、忍に当たって砕けた社員だという話だった。その人達は、忍のステータスじゃなくて……忍自身に惹かれた人もいたのかもしれない。
 それなら、その中に女の勘が働く人がいても不思議じゃない。特に、私と忍のやり取りを見た中里さんなら……忍が、私には甘いと気づいてしまったかもしれない。
 口をつぐんでうつむいた私に、中里さんは更に言いつのった。

「あんな優しい声で話す専務なんて、初めて見たわ。誰を相手にしたって、あんな態度を取られたことはなかったのに、どうしてあなたにはしたのよ」

 私にはビジネスモードに聞こえた忍の声が、中里さんには優しく聞こえたらしい。それで、忍が私を特別に扱ったと思ったようだ。
 ……普段、どれだけ無愛想なのかしら。さすがにちょっと心配になる。忍の周りが。

「あなたのせいで、私、課長から叱られたわ。しかも専務直々じきじきに注意を受けて……っ。あなたなんかのせいで、私が専務にうとまれたらどうしてくれるの!?」

 あまりの言いように、さすがにムッとする。元を正せば、中里さんが書類を受け取らずに私を追い返そうとしたのが原因なのに。

「私にはわかりかねます。専務には書類を受け取っていただいただけですし」
「そんなこと、わざわざ専務がなさらなくても、私達に指示すればいいじゃない。それを、みずからサインまでなさって!」

 ……忍は普段、そこまで他者に何もしていないのか。庶務課では、率先して手伝いを買って出るのに。どうしよう、どう対処すればいいんだろう。私と忍の関係をおおやけにするわけにはいかないから、滅多なことは口にできないし……

「それにそのお弁当、役員専用の松花堂しょうかどうよね? どうして庶務課のあなたが持ってるの。お弁当の用意は秘書課の仕事でしょ! 一体誰に頼まれたのよ」

 これでもかと柳眉りゅうび逆立さかだてた中里さんが、私の持っている弁当を指さした。

「いえ、これは……」

 ここで「滝上さんに頼まれた」とは、口が裂けても言えない。忍の注文だとバレて、ますます状況が悪化してしまいそうだ。

「あなたみたいな平凡で地味な子が、まさか専務に取り入るつもり!? 少し優しくしていただいたからって、調子に乗らないでよ!」

 調子に乗るなと言われても、今日の昼食は忍が言い出したことで……中里さんに責められるいわれはない。

「あなた、何なのよ!」

 そう言われても、私は鷹条商事の一般社員で、忍は専務取締役。表向きにはそれだけだ。それだけでなくてはいけない。
 何も答えられない私に、中里さんは侮蔑ぶべつの表情を向けてくる。

「何、聞かれたことにきちんと答えることもできないの? あなた、それでも社会人?」

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