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番外編~箱庭の姫君と闇の公主と光の王~
未来視の姫と先の神竜王。
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ヴェルスブルクからの返信は早かった。闇華の応諾から数日で、正式な「婚約」の使者が訪れた。王と側近――つまり梨樹と蓮汎が直接応対し、闇華は国際的にも「ヴェルスブルク王太子の婚約者」となった。
そして、今。
闇華は、行きたくもないのに、離宮に向かわされている。離宮に住む少女に、にいさまからの手紙を渡す為だ。何と書いてあるのか覗き見したいが、しっかり封緘されている上、魔法で守られている。さすがに、堂々と開封することはできない。王座は譲ったらしいとはいえ、一度は神竜王の称号を持った神竜を、敵にしたくはない。
「……そもそも、あの姫は何なのか」
にいさまは、詳しくは教えてくれない。蓮汎に訊くのは論外だ。あの男は、亡くなった香雪兄上とその家族、そしてにいさま以外の王族を、屑のように思っている。そのくらい、わかるのだ。闇華は、いつもにいさまを見ていたのだから、
――アレクシア・クリスティン・ルア・ラウエンシュタイン。ヴェルスブルクでも屈指の名家である公爵家の、一人娘。
なのに、家を継ぐことも嫁ぐこともなく、今はシルハークにいる。にいさまは、過剰なほど彼女を気遣っている。自身の後継者である雪華と並ぶほど大切に遇しているから、臣下達の中には、彼女がにいさまの正妃になると思う者も多いという。
――正妃の座は、闇華のものなのに。
父様と兄上が御存命の時からずっと、にいさまの正妃候補の第一は、香華、次いで闇華だった。何度か、兄上の正妃にならないかと打診されたし、母様からも勧められたが、断り続けた。闇華はシルハークの王妃や王太子妃になりたいのではない。にいさまの妃になりたかったのだ。
それがどんな罪だと言うのか。異母の兄妹の婚姻など、シルハーク王家では当たり前のことだ。閉ざされた世界しか知らない闇華は、最も身近にいる、最も優しく美しい異母兄に恋をした。それだけのことが、どれほどの罪だというのか。
けれど、当のにいさまは血族婚を忌避している。つまり、闇華の想いは報われない。
もっと早く、そう言ってくれればよかったのに。闇華の恋情を煽るだけ煽っておいて、今更「結婚は嫌だ」などと、ひどすぎる。もっと幼い時なら、泣きながらでも、初恋の喪失を受け入れられただろうに。
「……否。無理だな」
自分の心に嘘はつけない。拒まれても、諭されても、闇華はにいさまを恋い慕ったに違いない。そうでなければ、好きでもないヴェルスブルクの新王に嫁いで、その力でシルハークを喰らおうなどとは思わない。
――ぽとりと、にいさまから預かった手紙に、涙が落ちた。
「えーと……アンファ、公主……?」
離宮に到着しても、出迎えはなかった。王の異母妹が来たというのに、この宮の女官達は、宮の主の世話を最優先したのだ。腹立たしい。
「アンファとお呼び下さい、未来視の姫」
「……桜華公主と、よく似たお名前なのね」
「はい。妾の母が、桜華公主様の御名から頂いたと申しておりました」
神竜王姫の血筋でありながら、王女ではない玲蓉には「華」の字は許されなかった。だから、母は闇華の名前に固執している。闇の華。桜の華なら美しいが、闇の華とは。闇にしか咲けぬ華だから、闇華はにいさまに忌避されているのだろうか。
「綺麗なお名前ですね」
文字が違うから、アレクシアには韻以外は理解できないのだろう。確かに、アンファとインファ、響きはよく似ている。その無知に苛立たされる。
そして、この相手に膝を折らねばならないことが、もっと腹立たしい。彼女には、礼を尽くさねばならない。にいさまが、そう決めているのだから。
「あと、未来視は辞めたから、名前で呼んで下さい。私のことは、アレクシアと」
辞めた? 未来視の姫を? そんなことができるものなのか。というより、辞められるのか。
「……では、アレクシア様」
疑問は口にしなかった。闇華にはどうでもいいことだ。そして、闇華は彼女を呼び捨てはできない。それが許されるのは、にいさまだけだ。
「こちらを。兄から預かって参りました」
「ありがとう。……私、この国の文字、あまり読めないんですけど……」
「私が読む」
そう口を挟んだのは、アレクシアの隣に佇んでいた蒼銀の髪の美しい青年――先代の、神竜王だった。彼の声を聞けた者は少ないらしいので、これは珍らかなことなのだろう。
『アレクシアへ。これを持って行くのが、リヒト王に嫁ぐ予定の俺の妹。可愛いだろ、美人だろ、おまえは面食いだから気に入るだろうけど手は出すな』
神竜王は、シルハークの文字に戸惑うことなく、すらすらと読み上げた。にいさまの妹自慢に、アレクシアはじっと闇華を見つめた後、頷きつつ呟いた。
「……私を何だと思ってるのよ。確かにすごく可愛いし美人だから眼福よ、だけど私が女の子に手を出すわけが」
「アレクシアは、王の姫を誑し込んだ前例がある。自覚がないとは言わせない」
よくわからない会話が遣り取りされ、アレクシアの沈黙が漂った。気まずくなったらしい彼女が先を促すと、先代神竜王は続きを読み出した。
『それで、リヒト王への釣書というか紹介状は俺が書くから、おまえは、あのえげつない王妹に、闇華をよろしくね、絶対に苛めないでねって念押ししろ。つーか、して下さい。ほんと、あの王妹殿下だけはね、俺もレンも敵にはしたくないんです』
「……ローラン。無理に、リーシュの口調そのままに読まなくてもいいのよ……?」
アレクシアの言葉に、闇華もひそかに同意する。繊細な美貌の神竜王に、にいさまの奔放な口調は致命的なほどそぐわない。
「要するに、エージュに、アンファをよろしくねって書けばいいのね? エージュは、理由もなくアンファを苛めたりしないのに」
「けれど、シルハークの王の気持ちもわかる。アレクシアの口添えがあれば、王の姫は、この姫を害うことはしない」
それは、裏返せば、この少女の口添えがなければ、ヴェルスブルクの王妹――闇華の誇りである、誰より強いにいさまが、敵にしたくないと零す相手は、闇華に害を成す可能性があるということではないのか。
「リーシュは心配性なのね。ブラコンの上にシスコンとは、レンファンも苦労してるでしょうけど」
そう言ったアレクシアは、闇華ににっこりと笑いかけてきた。淡い金の巻き毛に縁取られたその笑顔は、花が綻ぶような愛らしさ、瑞々しい麗しさに満ちている。陽だまりのような、健やかな笑顔。闇に咲く華とは、あまりにも違いすぎるから、にいさまがこの笑顔に惹かれたなら、口惜しい。
「でも、こんなに可愛い妹姫なら、気持ちはわかります」
褒められたのに、少しも嬉しくないのは、アレクシアが「リーシュ」と呼んでいるからだ。にいさまが、名で呼ぶことを許している相手は、他に一人もいない。蓮汎すら、「梨樹様」ではなく「陛下」と呼ぶ。そのことの意味を、きっと、にいさまは気づかないふりをしている。
「ローラン。代筆してもらっていい? えーとね……」
闇華を目の前にしているのに、アレクシアは少しも気にせずに、ヴェルスブルク王妹への手紙を代筆させようとして――そして、ぽんと手を叩いた。
「ううん、直接お願いするわ。その方がいいもの。そうよね、ローラン?」
「アレクシアが望むなら」
「うん、決めた。待っていて下さいね、アンファ。私、エージュにあなたのことお願いしてきます!」
「え……」
唐突な展開についていけない闇華を置き去りに、アレクシアの意を受けた神竜王は「転移」と呟いて――二人揃って、かき消えた。
「……え?」
漏れた呟きは、二人がいなくなったことへの疑問からではない。闇華の中の、神竜の血が反応したのだ――あの神竜王の、強大無比な魔力の発動に。
たかが転移の呪文ひとつ。それが恐ろしいまでの威力を持っていた。発動の瞬間に立ち会っただけの闇華が、立っていられなくなるほどに。
「……あの、姫……」
アレクシアは――人なのか。
神竜王の末裔である闇華が、発動に立ち会っただけで立ち眩んだのに。彼女は、魔法の発動を受けながら、平然と笑って消えた。
それは、本当に人なのか。
わからない。けれど、確かめなくてはならないことでもない。
闇華の目的は、にいさまだ。神竜王でもないし、ヴェルスブルクの王妹でもない。
だからどうでもいいことだと、忘れることにした。
そうしないと、再び立つことができなかった。あの圧倒的な魔力は、ただ恐ろしい。
――闇華は初めて、シルハークの民達が王家に向ける畏敬を、その身で知った。
そして、今。
闇華は、行きたくもないのに、離宮に向かわされている。離宮に住む少女に、にいさまからの手紙を渡す為だ。何と書いてあるのか覗き見したいが、しっかり封緘されている上、魔法で守られている。さすがに、堂々と開封することはできない。王座は譲ったらしいとはいえ、一度は神竜王の称号を持った神竜を、敵にしたくはない。
「……そもそも、あの姫は何なのか」
にいさまは、詳しくは教えてくれない。蓮汎に訊くのは論外だ。あの男は、亡くなった香雪兄上とその家族、そしてにいさま以外の王族を、屑のように思っている。そのくらい、わかるのだ。闇華は、いつもにいさまを見ていたのだから、
――アレクシア・クリスティン・ルア・ラウエンシュタイン。ヴェルスブルクでも屈指の名家である公爵家の、一人娘。
なのに、家を継ぐことも嫁ぐこともなく、今はシルハークにいる。にいさまは、過剰なほど彼女を気遣っている。自身の後継者である雪華と並ぶほど大切に遇しているから、臣下達の中には、彼女がにいさまの正妃になると思う者も多いという。
――正妃の座は、闇華のものなのに。
父様と兄上が御存命の時からずっと、にいさまの正妃候補の第一は、香華、次いで闇華だった。何度か、兄上の正妃にならないかと打診されたし、母様からも勧められたが、断り続けた。闇華はシルハークの王妃や王太子妃になりたいのではない。にいさまの妃になりたかったのだ。
それがどんな罪だと言うのか。異母の兄妹の婚姻など、シルハーク王家では当たり前のことだ。閉ざされた世界しか知らない闇華は、最も身近にいる、最も優しく美しい異母兄に恋をした。それだけのことが、どれほどの罪だというのか。
けれど、当のにいさまは血族婚を忌避している。つまり、闇華の想いは報われない。
もっと早く、そう言ってくれればよかったのに。闇華の恋情を煽るだけ煽っておいて、今更「結婚は嫌だ」などと、ひどすぎる。もっと幼い時なら、泣きながらでも、初恋の喪失を受け入れられただろうに。
「……否。無理だな」
自分の心に嘘はつけない。拒まれても、諭されても、闇華はにいさまを恋い慕ったに違いない。そうでなければ、好きでもないヴェルスブルクの新王に嫁いで、その力でシルハークを喰らおうなどとは思わない。
――ぽとりと、にいさまから預かった手紙に、涙が落ちた。
「えーと……アンファ、公主……?」
離宮に到着しても、出迎えはなかった。王の異母妹が来たというのに、この宮の女官達は、宮の主の世話を最優先したのだ。腹立たしい。
「アンファとお呼び下さい、未来視の姫」
「……桜華公主と、よく似たお名前なのね」
「はい。妾の母が、桜華公主様の御名から頂いたと申しておりました」
神竜王姫の血筋でありながら、王女ではない玲蓉には「華」の字は許されなかった。だから、母は闇華の名前に固執している。闇の華。桜の華なら美しいが、闇の華とは。闇にしか咲けぬ華だから、闇華はにいさまに忌避されているのだろうか。
「綺麗なお名前ですね」
文字が違うから、アレクシアには韻以外は理解できないのだろう。確かに、アンファとインファ、響きはよく似ている。その無知に苛立たされる。
そして、この相手に膝を折らねばならないことが、もっと腹立たしい。彼女には、礼を尽くさねばならない。にいさまが、そう決めているのだから。
「あと、未来視は辞めたから、名前で呼んで下さい。私のことは、アレクシアと」
辞めた? 未来視の姫を? そんなことができるものなのか。というより、辞められるのか。
「……では、アレクシア様」
疑問は口にしなかった。闇華にはどうでもいいことだ。そして、闇華は彼女を呼び捨てはできない。それが許されるのは、にいさまだけだ。
「こちらを。兄から預かって参りました」
「ありがとう。……私、この国の文字、あまり読めないんですけど……」
「私が読む」
そう口を挟んだのは、アレクシアの隣に佇んでいた蒼銀の髪の美しい青年――先代の、神竜王だった。彼の声を聞けた者は少ないらしいので、これは珍らかなことなのだろう。
『アレクシアへ。これを持って行くのが、リヒト王に嫁ぐ予定の俺の妹。可愛いだろ、美人だろ、おまえは面食いだから気に入るだろうけど手は出すな』
神竜王は、シルハークの文字に戸惑うことなく、すらすらと読み上げた。にいさまの妹自慢に、アレクシアはじっと闇華を見つめた後、頷きつつ呟いた。
「……私を何だと思ってるのよ。確かにすごく可愛いし美人だから眼福よ、だけど私が女の子に手を出すわけが」
「アレクシアは、王の姫を誑し込んだ前例がある。自覚がないとは言わせない」
よくわからない会話が遣り取りされ、アレクシアの沈黙が漂った。気まずくなったらしい彼女が先を促すと、先代神竜王は続きを読み出した。
『それで、リヒト王への釣書というか紹介状は俺が書くから、おまえは、あのえげつない王妹に、闇華をよろしくね、絶対に苛めないでねって念押ししろ。つーか、して下さい。ほんと、あの王妹殿下だけはね、俺もレンも敵にはしたくないんです』
「……ローラン。無理に、リーシュの口調そのままに読まなくてもいいのよ……?」
アレクシアの言葉に、闇華もひそかに同意する。繊細な美貌の神竜王に、にいさまの奔放な口調は致命的なほどそぐわない。
「要するに、エージュに、アンファをよろしくねって書けばいいのね? エージュは、理由もなくアンファを苛めたりしないのに」
「けれど、シルハークの王の気持ちもわかる。アレクシアの口添えがあれば、王の姫は、この姫を害うことはしない」
それは、裏返せば、この少女の口添えがなければ、ヴェルスブルクの王妹――闇華の誇りである、誰より強いにいさまが、敵にしたくないと零す相手は、闇華に害を成す可能性があるということではないのか。
「リーシュは心配性なのね。ブラコンの上にシスコンとは、レンファンも苦労してるでしょうけど」
そう言ったアレクシアは、闇華ににっこりと笑いかけてきた。淡い金の巻き毛に縁取られたその笑顔は、花が綻ぶような愛らしさ、瑞々しい麗しさに満ちている。陽だまりのような、健やかな笑顔。闇に咲く華とは、あまりにも違いすぎるから、にいさまがこの笑顔に惹かれたなら、口惜しい。
「でも、こんなに可愛い妹姫なら、気持ちはわかります」
褒められたのに、少しも嬉しくないのは、アレクシアが「リーシュ」と呼んでいるからだ。にいさまが、名で呼ぶことを許している相手は、他に一人もいない。蓮汎すら、「梨樹様」ではなく「陛下」と呼ぶ。そのことの意味を、きっと、にいさまは気づかないふりをしている。
「ローラン。代筆してもらっていい? えーとね……」
闇華を目の前にしているのに、アレクシアは少しも気にせずに、ヴェルスブルク王妹への手紙を代筆させようとして――そして、ぽんと手を叩いた。
「ううん、直接お願いするわ。その方がいいもの。そうよね、ローラン?」
「アレクシアが望むなら」
「うん、決めた。待っていて下さいね、アンファ。私、エージュにあなたのことお願いしてきます!」
「え……」
唐突な展開についていけない闇華を置き去りに、アレクシアの意を受けた神竜王は「転移」と呟いて――二人揃って、かき消えた。
「……え?」
漏れた呟きは、二人がいなくなったことへの疑問からではない。闇華の中の、神竜の血が反応したのだ――あの神竜王の、強大無比な魔力の発動に。
たかが転移の呪文ひとつ。それが恐ろしいまでの威力を持っていた。発動の瞬間に立ち会っただけの闇華が、立っていられなくなるほどに。
「……あの、姫……」
アレクシアは――人なのか。
神竜王の末裔である闇華が、発動に立ち会っただけで立ち眩んだのに。彼女は、魔法の発動を受けながら、平然と笑って消えた。
それは、本当に人なのか。
わからない。けれど、確かめなくてはならないことでもない。
闇華の目的は、にいさまだ。神竜王でもないし、ヴェルスブルクの王妹でもない。
だからどうでもいいことだと、忘れることにした。
そうしないと、再び立つことができなかった。あの圧倒的な魔力は、ただ恐ろしい。
――闇華は初めて、シルハークの民達が王家に向ける畏敬を、その身で知った。
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