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番外編~箱庭の姫君と闇の公主と光の王~

閑話休題~大公殿下の密かな恋。

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「アレクシア。あちらが相談している間に、私もあなたに相談があります」
「私に、ですか」
「あなたに。……私の姫のことで」

 目をぱちくりさせているアレクシアに、アトゥールは苦笑いする。七歳かそこら年下の少女に、いい大人が「恋の悩み相談」など、馬鹿馬鹿しい。
 だが、仕方ない。「私の姫」ことエルウィージュは、彼の想いを知ってか知らずか、相変わらずつかみどころがないのだ。

「エージュを口説けないという相談なら、私、知りませんよ。殿下がご自分で頑張って下さい」

 そして、エルウィージュが溺愛している少女もまた、手強い。愛らしい容姿だが、彼女が心を赦しているのは、家族以外には、神竜王とエルウィージュだけだろう。シルヴィスとも気安いらしいが、それはこの際無視する。

「そうではないですよ。それは自分で何とかします。私の姫のお心が融けるまで、何年でも待ちましょう」
「では、何を?」
「……名前を……呼びたいのですよ。あなたのようにエージュとは呼べずとも」
「は?」
「ですから。名前を呼びたいのです。エルウィージュと」
「……「私の姫」と、いつも堂々とお呼びなのに?」
「……許して下さらなかったからですよ、あの方が」

 情けない。
 こんなことを口にしている自分が、心から情けない。

「あの日、ローゼンヴァルトの蔵書を見せてほしいといらした時。私の姫は、ソレと引き換えに、私の妃となることを約して下さった。必要なら子も産んでやると」
「聞きましたけど。それ、さいってーの取引ですよ、アトゥール殿下」
「仕方ない。ローゼンヴァルトの蔵書――特に古書は、先祖達が大切に守ってきた、シェーンベルク家の魂です。一族外の方に、内容を教えることはできても、読ませることはできないのです」

 アレクシアの冷ややかな指摘は尤もだと思う。だが、どうしようもない。先祖伝来の品を、たとえ王族といえど、外部の者たにんに見せることはできない。
 戯れに「それとも、その為だけに私の妃となって下さいますか、王女殿下?」と問いかけたら、彼女は即座に頷いたのだ。何の躊躇いもなく。夜会で顔を合わせたことすら殆どない――彼女が宮廷に上がり始めた七年前には、アトゥールは宰相にならずに軍籍に入ることで多忙だった為、儀礼以外の夜会は欠席していた――アトゥールの妃になり、後継も産むと即答したのは、彼女がアトゥールを愛していないからだ。
 他に、何よりも大切な存在がある。その存在とは決して結ばれない、結ばれてはならないから、むしろ積極的に、彼女はアトゥールとの結婚を承諾した。

「婚約は口約束。ですがそれでは後々に国王陛下――ギルフォード陛下が納得されまいと、大公妃の指輪をお渡ししました。その時、名を呼んだのですが」

 ――では、エルウィージュ。これを。
 ――受け取りますわ。ですけれど、殿下。わたくしを名前で呼ばないで下さる?
 ――はい?
 ――ありがとう、ご了承下さって。殿下が欲しいのは妃。わたくしが欲しいのはローゼンヴァルトの古書。取引成立ですものね、妃となるべく努めましょう。
 ――あの。エルウィー……
 ――欲しいのは、妃となる存在。王女でしょう? わたくしでなくともよいのですから、わたくしの名を呼ぶ必要はありませんわよね?

「……殿下」
「失態です……最初に、「王女殿下」と呼んでしまったことが、あの方の心を更に頑なにさせた」
「ちゃんと、ごめんなさいって言いました? 謝ったら、エージュは許してくれますよ」
「アレクシア。あの方相手にそれが通じるのは、あなただけです」
「え?」
「あなたがシルハークに行って不在の間。私の姫は、殻に籠もっていらした。王太子殿下やシルヴィスにも許していた「エージュ」という愛称を拒絶し、食事も殆ど取らなかった。生きる抜け殻のようでしたよ。あの方の魂はあなたの傍にあるのかと、うらをさせたほどです」

 蒼い瞳が、まんまるに見開かれている。全く知らなかったのだろう、それはわかっている。エルウィージュは、アレクシアには何一つ「心配」はかけたくないのだから。

「彼女は、何も赦さない。誰も、一度の過ちすら赦さない。王女として育ったわけではないのに、王太子殿下よりも「王」である気質をお持ちです。王は、誤ってはならない。常に正しく在らねばならない。そのことを、彼女は本能的に理解している」

 だから、「間違う」ことを赦さない。

「……そんなこと、ないわ。間違ってもいいって、エージュは私に」
「そう。あなただけが特別だ。彼女にとって、あなただけが、「間違い」であり、「誤り」です」
「おっしゃる意味が……」
「あなたに執着していることが、あの方にとっては誤りなのですよ。王は、何にも執着してはならない。国や民と引き換えてでも守りたいものなど、持ってはならない」

 だが、エルウィージュは、アレクシアを守る為なら国すら歯牙にかけない。牙を磨き、爪を研いで、鋭い一撃で葬り去るだろう。

「……まあ、多分に私の嫉妬を含んでいますがね。あの方は、王になりたいというお気持ちはない」
「…………」
「王になる為にあなたを切り捨てねばならないなら、王位などいらない。だから、あの方は兄君の即位を急がれる。アンファ公主が王妃となり、子を生せば、あの方は王位から遠ざかれますからね」

 しばらく俯いていたアレクシアが、ゆっくりと顔を上げた。アトゥールよりやや色の濃い蒼い瞳は、はっきりとした意志を宿している。

「そういう決めつけが、エージュに嫌われるんですよ、殿下」
「アレクシア」
「エージュは、確かに、私をとても大切にしてくれます。狭い世界でいいのと笑います。でも、そうやって……エージュが私だけを大切に想ってると思い込んでるから、エージュは殿下に名前を許さないんだわ。今は拒否しているとしても、リヒト殿下に、一度はエージュという愛称を許したもの。それは、リヒト殿下が、エージュに愛しているとはっきり示されたから」
「…………」
「殿下は、エージュが許してくれないから名前を呼べない、エージュが私しか好きじゃないから愛してもらえない、そうやって、ご自分を守ってらっしゃるのだわ。エージュに嫌われないように」

 愛らしい容姿にそぐわぬ鋭い刃は、この姫も持っていた。
 親友同士、気質まで似たのだろうか。

「痛いところを突きますね……」
「傷を抉り合おうとおっしゃったのは殿下です。私に言わせたら、殿下だってエージュと同じくらい、「他人」を拒絶なさってるわ」
「……」
「リヒト殿下を、まだ主と認めていらっしゃらない。カインが主だとお思いだから。「変化」を嫌っているのは、殿下だって同じだわ」
「なかなかに抉ってきますね、アレクシア」
「さっきは私が抉られましたから。……殿下。エージュを、名前で呼びたいっておっしゃったのは、義務から? それとも、ちゃんと恋していらっしゃるから?」
「ちゃんと、かはわかりませんが……少なくともね、アレクシア。名前を呼ばせていただけなくても、あの方は「私の姫」だと、周囲に主張するくらいには、私はあの方が好きですよ」
「でしたら、殿下。……名前で、呼んでみて下さい」
「……エルウィージュ、と? 無視されるだけなのに?」
「無視されるのが嫌だから呼ばないんですか?」
「……怖いから、でしょうか」
「大丈夫です」

 そう言って、アレクシアは両手でアトゥールの手を包む。小さな、やわらかい手だ。

「大丈夫。エージュは……いつまでも無視するほど、意地悪じゃないです」
「アレクシア」
「最初は無視するかもしれませんけど。エージュは優しいから、ずっと無視することはできないわ」
「エルウィージュが優しいのは、あなたにだけですよ」
「いいえ。ローランにも優しいわ」

 それは、かの神竜王がアレクシアの最愛の存在だからという理由ではないだろうか。または、同じ存在アレクシアを愛する同志といったところか。

「時間をかけて下さい。会ったその日に婚約まで持っていけたアトゥール殿下なら、大丈夫」
「軍では、兵は拙速を尊ぶものですから」
「速さを焦るあまりの、まずい作戦でしたね。ゆっくり、時間をかけて下さい。それでも駄目なら」
「駄目なら?」
「諦めて下さい」
「他の方法はないんですか」
「それは、時間をかける間に殿下がお考えになればいいわ。私にできることじゃないし、していいことでもありません」

 アレクシアはにっこりと可愛らしく笑って、手を離した。

「応援はしてます、アトゥール殿下。エージュを幸せにして下さい」
「……あなたが男子でなくてよかったと、心から思いますよ……」
「そうなんですよね。私が男だったら恋していると言われました」
「私への挑発ですか」
「事実です」

 愛されている者は強い。愛されていることを自覚している者は、性質が悪い。
 溜息を吐いて、アトゥールは気持ちを入れ替えた。

「まずは、名前で呼びかけてみましょう。兄上やアンファ公主に許しているなら、許嫁の私にこそその権限があると」
「エージュはああ見えて押しに弱いので、頑張って下さい」
「それも、あなたにだけ、でしょうけれどね」

 本当に、この姫が男でなくてよかった。
 そう思い、アトゥールは、「エルウィージュ」と呼びかける練習を、心の中でこっそり始めた。
 それとほぼ同時に、エルウィージュの寝室の扉が開いて、神竜王とエルウィージュが姿を見せる。

「アレクシア」

 たたっと恋人の元に駆け寄って、きゅっと抱き締める神竜王は、何やら吹っ切れた表情だ。エルウィージュは、微笑ましげに二人を見つめている。

「エルウィージュ。紅茶を用意させましょうか。あなたの好きなブランデー割で」
「…………」

 やはり、無視された。
 何となく、それでもいいと、それでも名を呼び続けてみようと、アトゥールは思った。
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