もう一度、君だけに恋を

神城葵

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プロローグ

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「じゃあ、次は……」

 幹事らしき男性が声を上げる。洒落たイタリアンバルの片隅で、朝比奈桜はワイングラスを両手で包んでいた。向かいでは、友人の海老原美咲が軽くグラスを掲げ、コツンと音を立てた。

「無理言って、ほんとにごめん。でも来てくれてありがと!」

 屈託なく笑う美咲に、桜は「いいよ」と微笑みを返す。
 今日の昼休み、人数合わせの合コンにどうしても来てほしいと頼まれたのは事実だ。
 とはいえ、仕事帰りのスーツ姿のまま、気取ったバルに駆けつけるなんて、自分でもお人好しすぎると思う。
 テーブルの向こうでは男性陣が陽気に笑い合っていて、自己紹介の順番が回ってくる度に桜はワインを一口含んで、適当に頷いた。

 二十八歳、巽商事の企画部勤務。趣味は読書──この洒落た空間に、やはり自分は馴染めない。心の奥底で、早く帰りたいという思いが渦を巻いていた。
 その時、ざわめきがぴたりと止んだ。入口のベルが小さく鳴り、遅れて入ってきた男性が軽く頭を下げて空いた席に腰を下ろしたからだ。
 スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める仕草──その流れるような動作には、見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。この六年、少しも色褪せなかった思い出。

 月嶺つきみねれい。十年前、大学のサークルで出会い、三年間友達として、そして半年だけ恋人として付き合って、別れた相手。別れの理由は、今も痛いほど覚えている。
 見惚れるほど繊麗な顔立ちは、歳を重ねたことで更に精悍に磨かれていた。頬のラインは引き締まり、黒髪が額に落ちる。その陰影が、桜の記憶を鮮やかに呼び覚ました。
 整えられた前髪が、わずかに額に落ちている。その陰影が、彼の表情を静かに引き締める。目元は涼やかで、瞳は黒曜石を思わせる深い色をしており、光の角度で藍を含んだように見える。顔立ちは整っているが、作り物のような整美ではなく、長い年月を経て磨かれた「余白のある美しさ」だ。
 スーツ姿は何の飾りもないのに、仕立ての良さが一目でわかる。腕時計の金属の冷たさが、彼の静けさを一層際立たせていた。
 玲の美しさは完成された冷静さと崩れる寸前の情熱の境目にある──桜がかつて惹かれ、恐れたそのままの姿だった。
 彼を見た時、桜の胸にこみ上げたのは懐かしさではなく、蓋をしたはずの恋心だった。駄目だ。そんな資格、自分にはない。別れを告げたのは桜なのだから。

「悪い、電車が遅れて」

 玲の声は、昔と変わらない。低く、柔らかく、少し甘い響きを帯びていた。顎の線は引き締まり、声を発した時に喉の動きが印象的に映った。
 桜は慌てて視線を逸らそうとしたが──遅かった。一瞬、目が合う。深い藍を含んだ黒い瞳が桜を捉え、玲の表情が驚きに止まる。
 空気が張りつめ、隣のテーブルのワイングラスが触れ合う澄んだ音さえ、遠くに感じた。

「……桜?」

 名前を呼ばれた瞬間、六年前の夏の日が甦る。駅のホーム、蒸し暑い夕暮れの空気、泣き腫らした自分の顔、玲の呆然とした表情。あの時、桜は震える声で言った。
『もう会わないから』
 玲は何も答えなかった。ただ、黙って電車に乗り、去っていった。あの別れの痛みが、胸を鋭く刺す。桜は手の中のグラスを強く握った。
 そこに、何も知らない美咲が朗らかに声を上げた。

「あ、玲くん! やっと来た! 桜、覚えてるよね? 同じサークルだったでしょ」
「……うん、月嶺くん」

 喉が乾く。唇が少し震えたかもしれない。美咲は何も気づかず、楽しげにグラスを揺らし、悪戯っぽく笑った。

「実はね、今日の合コン、玲くんが『桜を呼んで』って指定してきたの。それで私、桜を巻き込んじゃった」

 玲は小さく笑い、桜に視線を向ける。その瞳の奥に、言葉にできない何かが揺れていた。懐かしさか、後悔か──この再会は、偶然ではなかった。気まずさで桜はグラスを握る手に力を込め、冷えたガラスの感触に自分を繋ぎ留めた。

「懐かしくない? 何年ぶりかな」

 美咲の無邪気な声に、桜は我に返る。玲は桜を見つめたまま、静かに答えた。

「……六年ぶりだ」

 その言葉に、桜の心の奥深くが軋んだ音を立てた。六年。忘れようとしても、忘れられなかった年月。それなのに玲の瞳は、まるで昨日別れたかのように鮮やかに桜を映していた。
 視線を外したくなった時、店内に再び乾杯の声が響いた。ワイングラスが触れ合い、澄んだ音が夜に溶ける。桜は機械的にグラスを口に運んだ。フルーティな赤ワインの酸味が、舌の奥で苦く広がる。
 玲の視線が桜の頰を静かに撫でて──唇で止まったのが、何故かわかった。

「桜、内定してたのは巽商事だっけ。そのまま就職したの?」

 不意の問いに、桜の肩が小さく震える。

「あ……うん」
「忙しそうだな。合コン、久しぶり?」

 玲の言葉に、美咲が楽しげに割り込む。

「桜、ずっと恋愛してなくてさ! だから玲くんからの指定をいいことに、私が無理矢理引っ張り出したの」

 玲の目がわずかに細まる。桜は慌てて首を振ったが、動揺が胸の中で波打った。

「美咲、変なこと言わないで」
「えー? 本当じゃん。合コンなんて卒業以来じゃない? やっとOKしてくれたんだから」

 桜は笑うふりをしたが、指先の震えは止まらなかった。美咲の言葉に、玲の唇が緩やかに上がった。その表情に、かつての面影が重なる。

「──恋愛、駄目じゃなくなったってこと?」

 低く静かな声に、問い詰められているような響きを感じた。桜の心臓が跳ね上がる。

「美咲に、人数合わせを頼まれただけ。……付き合いだから」
「付き合い?」

 玲は席を回り、桜の隣に座った。距離が近い。呼吸が乱れる。
 玲の香り──石鹸と、淡い香水が混ざった匂いがして、六年前の記憶を呼び覚ます。大学時代の記憶が、音もなく蘇ってくる。
 あの夜。涙と、痛みと、抱き締めた腕の温度。頬が熱くなり、桜は視線を落とした。

「桜」

 名前を呼ばれた瞬間、心の奥にしまい込んだ想いが軋む。

「合コンに来るってことは、恋愛、諦めてないってことだろ?」

 違う。桜は否定しようとしたが、玲の瞳から目を逸らせなかった。その深みから逃げられない。

「なら、俺は待たない」

 玲の声は、静かで、それでいて切実だった。桜は目を伏せ、喉の奥で小さく息を呑む。
 ──私は、玲を傷つけた。私は、玲にふさわしくない。
 駅のホームで玲の背中を見送った時、零れた涙がコンクリートに染みを作った。あの染みが、今も胸に残っている。

「私……あなたには申し訳なくて、合わせる顔もないの」
「謝らなくていい」

 桜は俯き、グラスの底に映る自分を見つめた。ワインの赤が、揺れて滲んでいる。泡が弾ける度、六年前の涙が零れ落ちる音がした。グラスに映る自分の顔が、玲の瞳に重なって──揺らめいた。
 その後、どうやって切り抜けたかは覚えていない。玲の視線から逃れたくて、けれど懐かしさに心が引きずられた。
 ──私、いつまで忘れられないのかな。
 冬の街並みを歩きながら、桜は六年前の夏の夜を思い出していた。桜が、玲を拒んだ夜を。
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