もう一度、君だけに恋を

神城葵

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 土曜の朝、九時五十分。半蔵門駅を出た桜は、一度だけ深呼吸した。
 初夏の陽射しはまだ優しく、コンクリートの匂いに混じる新緑の香りが胸の奥をくすぐる。スマホで確認した地図を頼りに、玲が住むマンションのエントランスへ向かう。都心一等地に建てられた、ハイグレードの中層マンションだ。
 玲の部屋のモニターフォンを鳴らすと、すぐに鍵が解錠された。

『迎えに降りるから、ロビーで待ってて』
「わかった」

 ガラス越しに見えるロビーは静かで、自分の靴音が響く。コンシェルジュに会釈してエレベーターの近くに立つと、静かに扉が開く。
 そこに、玲が立っていた。
 白いシャツに、淡いグレーのカーディガン。スーツ姿とは違う、柔らかな輪郭の装いだ。

「遅れてない?」
「ちょうどいい」

 短いやり取りの間も、玲の瞳は桜を捉えて離さない。二人でエレベーターに乗り込むと、玲がパネルを操作した。
 辿り着いたのは最上階だった。
 玲に先導されるまま玄関を通り、リビングに入る。窓から見える街並みが綺麗だった。
 六年前の、玲の部屋とは違う。広さも、家具も、生活感のなさも。けれど、仄かな香りだけは変わらない。
 ──玲の匂い。そう思うと、胸がぎゅっと縮んだ。

「何か淹れようか。桜は紅茶だったよな」

 玲がキッチンへ向かう背中を、桜は無意識に目で追う。カップの音を聞き、立ちのぼる湯気を何とはなしに見つめた。
 テーブルの上の二つのカップが、静寂を破る。

「座って」

 桜はリビングに置かれたソファの端に腰を下ろし、玲が向かいに座る。手が届かない程度の距離が、今は心地よかった。

「どこから話す?」

 玲の声は甘く低く、穏やかだ。けれど瞳の奥には熱が灯っている。その瞳を見つめながら、桜はカップを両手で包んで息を吸い込んだ。

「あの夜、私、怖かった。玲が好きなのに、体が追いつかなくて。だから逃げたくなったの。『もう会わない』って言ったのは、私が弱かったから」

 玲は黙って聞いている。視線が、桜を捉えて離さない。

「でも、玲に会った時、やっぱり懐かしくて。申し訳ないって思ってたのに、また会いたかった。それがどうしてなのか、自分でもわからなくて」

 桜はカップを置いた。指先が、小さく震えている。
 玲がゆっくりと手を伸ばして、桜の手をそっと包む。──温かい。六年前の熱とは違う、静かで確かな温度だ。

「俺も、怖かった」

 玲の声が、初めて震えた。

「桜がいなくなって──俺は、桜がいないと生きていけない。でも、桜を縛るのも、傷つけるのも嫌だった。だから、六年、他のことで自分を誤魔化そうとした」
「……うん」
「だけど、会いたくて。一目でいいからもう一度会いたかった。桜が俺を見て怖がったり、嫌がったら今度こそ消えようって決めて、海老原に頼んで合コン組んで……そしたら、桜は俺を見ても逃げなかった」

 桜の手を包む玲の指先に力が入る。ぎゅっと握り込まれた痛みが、玲の傷を物語っているようで、桜は何も言わなかった。

「桜が俺を怖くないなら──逃げずにいてくれるなら、俺はもう待てない」
「私……また玲を傷つけるかもしれない」
「いいよ」

 玲は頷いた。桜の手を引き寄せ、そっと口づける。

「傷つけられても、俺は桜と一緒にいたい。セックスしなくていいし、キスも桜が嫌ならしなくていい。ただ傍にいてくれれば、それでいい」

 桜は、玲の手を握り返した。震えが止まらない。でも、怖くはない。

「……私、ゆっくりで、いい?」
「うん。俺から離れないでくれるなら、何でもいい」

 窓の外で、雲が形を変えていく。二人の間に沈黙が落ちた。けれど、それはもう冷たいものではない。温かくて静かな、約束の沈黙だ。
 玲が立ち上がり、桜の隣に座った。肩が触れ、桜は目を伏せる。──もう逃げない。
 玲の腕が、そっと桜の肩を抱いた。桜は玲の胸に顔を寄せる。

「……玲」
「ん?」
「今日は、帰らない」

 玲の腕の力が、少しだけ強くなった。

「……まだ怖いから、その、そういうことは無理だけど……一緒にいたい。それから、……キスは嫌じゃないの」

 ずるい言い方になった桜に、玲はふわりとやわらかく笑った。

「うん。ずっと、俺の傍にいて」

 初夏の陽射しが、部屋を満たす。二人の唇が、どちらからともなくゆっくりと重なった。
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