もう一度、君だけに恋を

神城葵

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 七月下旬、梅雨が明けた。都内にはまだ湿った風が残り、街の空気を重くしていた。月嶺ホールディングス本社の最上階、株主総会会場──定刻の午前十時、重厚な扉がゆっくりと開く。株主達が息を呑んで見守る中、玲が姿を現した。黒のスリーピーススーツに、深い藍色のネクタイを締めている。歩みは静かで、一点の迷いもない。
 会場に集まった株主・機関投資家、およそ八十名の視線が一斉に玲に向けられた。その圧力を受けても、玲は淡々と壇上へ進み、マイクを取った。

「本日は臨時株主総会にお集まりいただき、誠にありがとうございます。招集者は、月嶺玲です」

 ざわめきが走った。株主からの招集請求に基づき、玲は事前に取締役会に対し臨時株主総会の招集を請求。取締役会がこれを拒否した為、玲は自ら株主として裁判所の許可を得て招集していた。父・隆司のヨーロッパ視察中に手続きを進め、招集通知は法定期限厳守で発送済みだ。
 最前列中央で、隆司は無表情のまま玲を見つめている。その指先が、微かにテーブルを叩いていた。

「本日、私は以下の議案を提出いたします。第一号議案。取締役・月嶺隆司の解任。第二号議案。新取締役として月嶺玲を選任すること」

 空気が一気に凍りついた。

「……玲」

 隆司が初めて口を開いた。その声は低く、冷え切っていた。

「おまえは、そんな手を使える立場にあったのか」
「はい。株主として、です」

 玲は静かに数枚の書類をテーブルへ置いた。
 ──月嶺玲個人の保有株式 九.五%
 ──月嶺富貴子が保有する株式(九%)の議決権行使委任状
 ──古参重役である榊原家の遺留分(五.五%)の全株式譲渡契約書
 ──海外在住の親族株主(隆司の従兄弟)三人、合計十%の株式譲渡契約書
 ──ヘッジファンド二社の所有株式 七%の譲渡契約書
 ──信託銀行三行の所有株式 十五%の議決権行使委任状
 合計──五十六%。

「一年前から準備を進めてきました。母の協力も得て、協力株主の皆様から本総会限定の議決権行使委任状を確保。信託銀行の皆様には、当社のガバナンス改革案を詳細に説明し、社会的責任投資の観点からご賛同いただきました」

 隆司の表情が、初めて揺らいだ。玲は一歩、前に出る。

「信託銀行三行には、長期的な企業価値向上を約束しました。あなたが三十年以上、銀行との関係を『手数料圧縮』で築いてきたのに対し、私は対等なパートナーシップを提示した。それで、銀行は私を選びました」

 隆司は、玲が差し出した書類を一枚一枚めくった。信託銀行三行の議決権行使委任状──有効期間は本総会限定。眉間に、深い皺が寄った。

「これは……いつだ?」
「あなたがヨーロッパを発った直後、招集手続きを開始しました。裁判所の許可も、迅速に得ています」

 隆司は瞬時に理解したのだろう、無表情に戻った。玲は最後に、静かに告げた。

「あなたが一番得意だった手です。──事前の根回しで、相手を潰す」

 その場で、マイクを持って補足する。

「加えてお伝えします。先月の定時株主総会において、協力株主の皆様のご賛同を得て、定款を一部変更いたしました。取締役の選任に関する累積投票制度の導入です。これにより、少数株主の声も反映しやすくなります」
 
 会場のざわめきが大きくなる。マスコミが「クーデターだ!」と走り出したのが見えたが、社会的イメージについては対策済だ。

「……随分と、念入りに準備したな」

 落ち着いた声だった。

「はい」

 玲は一切の感情を交えずに答える。

「形式も、手続きも、すべて合法です」

 ──すべて、読まれていた。自分が握っていると思っていた駒も、逃げ道も、玲は既に先回りして塞いでいる。そのことを悟って、隆司は薄く笑った。会場の視線が、一斉に隆司から玲へと移る。

「……第一号議案について、採決に移ります」

 議長の声が、わずかに震えている。それを見て、玲は隆司に視線を戻した。

「父さん。あなたの手はもう届かない」

 隆司は何か言いかけたが、言葉にならない。その沈黙を切り裂くように、玲の声が落ちる。

「あなたは俺に言いましたね。『おまえに潰される程度なら、必要ない』と」

 玲の目は静かに、そして確固として父を射抜いていた。

「俺に敗れたあなたは、これからの月嶺に必要ない」

 その間に、電子投票システムが起動し、会場の空気は張りつめる。数分後、スクリーンに結果が映し出された。
 第一号議案 取締役・月嶺隆司解任 賛成 五十七%
 第二号議案 新取締役・月嶺玲選任 賛成 五十八%
 ──どちらも可決だった。玲は即座に、議長に申し出た。

「ただいまの決議により、私は取締役に選任されました。ここに臨時取締役会を招集し、代表取締役の選定を行います」

 会場内の取締役が残り、簡易的な取締役会が開催される。玲の提案により、代表取締役社長を月嶺玲に選定する決議が可決された。隆司はゆっくりと立ち上がる。無表情のまま玲を見据え、わずかに笑った。

「……これでいい。こうやって、おまえが次の私になるんだ、玲」

 それだけを言い残し、背を向ける。秘書が慌てて後を追ったが、玲はそのまま見送った。どこか満足げだった隆司が、決議取消しの訴訟を起こすことはない気がした。改めて、玲はマイクを握り直す。

「これより、月嶺コンツェルンは新しい時代に入ります。私は新代表取締役社長として、皆様と共に、人の為に使われる企業へと変えていくことを誓います」

 拍手が、会場を満たした。



 臨時株主総会が終わり、静まり返った社長室。新たな主となった玲は、一人窓際に佇んでいた。
 そして、そっとスマホに触れる。
 画面には、ただ一言。

「終わったよ。ありがとう」

 それだけで十分だった。
 桜が母から取り付けてくれた九%の株式──あれが、投資銀行の態度を決定した。それまで消極的だった銀行が、玲の勝ち筋を認めた途端、委任状を用意したのだ。一行が先陣を切れば、他の二行は追随した。

『早く帰ってきてね』

 受信したメッセージに、玲は微かに笑った。
 玲は幸せだ。桜がいてくれるから。
 父と母は──幸せになれるだろうか。



 夕刻、マンションに戻った玲は、いつものようにリビングのソファに桜と並んで座っていた。桜は玲の肩に頭を預け、今日の出来事をまだ信じられないというように、ぼんやりと窓の外を見つめている。玲は桜の手を取り、静かに口を開いた。

「今日は、本当にありがとう。桜が母さんを説得してくれなかったら、ここまで来られなかった」

 桜は小さく首を振り、玲の胸に顔を寄せた。

「私、何も……ただ、玲のお母さまは、お父さまを愛してるんじゃないかと思ったの」
「うん。でも母さん自身、それを忘れてた」

 玲は桜の指にそっとキスを落とし、声を低くした。

「それに、もう一つ。万一に備えて、保険をかけておいた」

 桜が顔を上げ、玲の瞳を覗き込む。

「保険?」
「ああ。先月の定時株主総会で、協力株主の賛同を得て定款を変更した。創業時から未発行だった拒否権付種類株式──黄金株を、俺に発行した」

 桜の目が見開かれる。

「黄金株……そんなものが?」

 玲は静かに頷き、桜の手を強く握った。瞳に、冷たい炎のような光が宿る。黄金株は、創業時に月嶺家当主の為に設定された「奥の手」だ。玲はそれを引きずり出して、桜を守る手段を一つ増やした。

「父さんは、負けを認めても最後に対抗策を出してくるかもしれない。何せ四十%の大株主だからね。新株発行で希薄化を図るとか、定款を再変更して巻き返すとか方法はある。でも、黄金株があれば……俺が拒否権を発動できる。どんな決議も、俺の一存で潰せる」

 桜は息を呑んだ。玲の声は穏やかだったのに、その奥に潜む決意の鋭さが、背筋を震わせた。

「玲……そんなところまで準備してたの?」

 玲は桜を引き寄せ、額を寄せた。低く、熱を帯びた声で囁く。

「桜を失うわけにはいかない。六年待ったんだ。今度こそ、誰にも邪魔させないし、俺も諦めない。できることは全部やって──桜との未来を守りたい」

 桜の胸が熱くなった。怖いほどの執着だ。それでも、それが玲の愛の証だとわかるから、涙が滲む。

「……玲」

 桜は玲の首に腕を回し、震える唇を重ねた。今日の勝利と、これからの未来を確かめ合うように、深く長いキスを交わす。唇が離れた時、玲は桜の頬を優しく撫で、微笑んだ。

「──愛してる。桜の為なら、俺は何だってできる」

 窓の外で、夕陽が茜色に空を染めていた。二人の影が長く重なり、静かに溶け合った。

***

 台風一過の夜。月嶺邸では、門灯が輝いている。庭の薔薇は散り始めていたが、夏の風に濡れ、まだ鮮やかに残っていた。
 玄関の扉が静かに開く。そこに立っていたのは、背広を脱ぎ、ネクタイも外した月嶺隆司だった。
 富貴子は廊下の奥から、ゆっくりと歩み寄った。淡い藤色の寝衣姿。髪は下ろしたままで、まるで若い頃に戻ったようだった。
 二人は十歩の距離で立ち止まった。どちらも何も言わない。蝉の声も、もう鳴いていない。隆司が、擦れた声で呟いた。

「……最後、おまえにしてやられるとはな」

 富貴子は瞬きを一つだけして、小さく、確かに頷いた。

「……お帰りなさいませ」

 それだけで十分だった。隆司は室内を進む。富貴子はそっと横に避けて、通路を作った。通り抜ける瞬間、隆司の指が、富貴子の指先に触れた。玲が──後継者が生まれて以降、久しくなかった触れ合いだった。
 富貴子は目を伏せ、隆司は目を閉じた。二人は並んで歩き出す。
 廊下の奥の居間に入ると、夏だというのに肌寒いからか、暖炉には火が灯っていた。富貴子が先に入り、茶を淹れる。隆司がソファに腰を下ろした。

「玲さんは、期待通りかしら?」

 隆司は小さく笑った。初めて見せる、人の温もりのある笑みだった。

「まだまだだ。おまえの補助がなければ今回のことはなかった。……それでも、私よりはずっとましだ」

 富貴子は目を細めて、湯呑みを夫の前に置いた。

「そうですか」
「月嶺を手に入れただけだ。どう動かせるかはわからんな」
「それでも、あの子は約束を守ってくれましたから」
「約束?」

 隆司の眉が怪訝そうに顰められる。それを見て、富貴子は微笑んだ。

「私にとって、とても大切な約束です。その為にあの子に味方したくらいに」

 それは何だと問おうかどうしようかと、無表情に悩んでいる隆司を見つめて、富貴子は三十二年を経て「幸せ」を得た。 
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