国際線ターミナル

海山堂

文字の大きさ
1 / 1

国際線ターミナル

しおりを挟む
 国際空港に降り立つと、まずはじめに出迎えるのは、その国の体臭とでもいうような土地の匂い。ロサンゼルスならバターシュガーを溶かしたコーヒーの甘い匂い。パリならブルーチーズが香水に溺れたようなデカダンの匂い。ムンバイならミックススパイスのきいたカレーの匂い。北京なら紫蘇や薄荷を煎じた漢方薬の匂い。ソウルならニンニクが浸みたキムチの匂い。東京なら醤油の匂いがするらしい。
 夜の七時-。
 東京国際空港出発ロビーの時計塔の下で、娘がひとり、人の往き交いをぼんやり眺めていた。片手に提げるくらいの小さな手荷物とパスポートを握りしめていた。
 彼女には、この土地から醤油の匂いが湧き立っているとは思いもよらない。けれど、外国から訪れた人たちの鼻をはじめにくすぐるのは、どうやらこの醤油の匂いなのだと知った。土地に醤油の匂いが染みついているのだとすると、土地の人間からもまた醤油の匂いが漂っているのか。自分が発する匂いに当の本人は気づきにくいが、日本と日本人とは醤油の匂いがするらしい。
 娘は自分のからだの匂いを嗅いでみた。自分のからだからは醤油の匂いがこみあげているのか。もし、どこか遠い外国の町なかで迷子になってしまったなら、自分はこの醤油の匂いで見つけ出されるだろうか。もし、目の見えない人たちばかりの国で暮らすことがあったなら、この醤油の匂いのなつかしさで、恋人を見つけあったりするだろうか。
 娘はいつまでもこんなことを考えている自分がなさけなかったが、笑うに笑えなかった。娘には六年付き合った男との間に結婚話があったが、うまくいかなかった。娘は今、四ヶ月の身重である。
「親がまだ結婚は早いって言ってるんだ。俺たちの結婚は難しすぎるって。」
「まだ早いって、お腹に赤ちゃんがいるのよ。」
「わかってるよ、だから絶対にこの結婚を認めさせる。だから、もう少し待ってくれないか。」
「披露宴はもうしなくていいって、国籍だって隠すようにするって、私は嫁に入るんだから、実家は捨てるつもりだわ。」
「親だって真剣に考えてるんだ。もっと大きな目で俺たちのことを考えてるよ。だからもう少し辛抱して待っていてくれないか。」
 いよいよ娘は腹に小魚の泳ぐ感じを覚え、春まで待ったが、ついに結婚は許されなかった。
 滑走路の灯りに包まれて、いろんな国の飛行機が、飛んだり降りたりする。展望デッキに空港夜景を眺めて肩を寄せ合う恋人たちが、二、三組あった。夜風に膝を抱えて座っている娘に、男が声をかけた。
「コリアン?」
「日本人ですよ。」
「失礼しました。これから出発ですか?」
「はい。もうすぐ出発なんです。」
 娘はそそくさと立った。
 飛行機の飛び立つ轟音が耳に障った。
 行き先も定まらぬまま、こんなところへ来ている自分がますます哀れだった。
 出発ロビーまで戻ってカフェで過ごしていると、今度は年寄りが声をかけて来た。
「チャイニーズ?」
「日本人ですよ。」
「なんだい。娘のひとり旅かい。」
「はい。もうすぐ出発なんです。」
「どこまで行くの?」
「韓国です。」
「そうか。」
 娘はもとの時計塔まで戻ってきた。
 若い男が大きな帆布のリュックを背負って歩いて来て、娘の隣に腰をおろした。
 娘よりかは二つ三つと若い青年だった。
「どうした。なんで泣いてるの?」
「日本のひと?」
「またか。俺は在日だ。日本人でも韓国人でもないよ。」
「そうですか。」
「けど、俺のパスポートを見ろよ。俺はハングルをひとつも読めないのに緑なんだぜ。」
「そうだよね。」
「なんだよ、泣くなよ。」
 青年はリュックを肩からおろすと、娘との間にぱんぱんと叩いて置いて、二人の肘掛けにした。
「私も同じ、緑色。」
「ああ知ってるよ。同胞だな。」
「そうね。」
「まあ、パスポートを持てるだけマシだろ。朝鮮のやつらはパスポートすら持てないんだからな。」
「パスポートなんかなくたっていいのよ。」
「それで、これからどこへ行くんだ?」
「どこだろうね。別にどこだっていいの。」
「そうか、旅人か。それで泣いてるってのはどういうわけさ?」
「旅には別れがつきものでしょ。別れは悲しいからね。」
「好きな男にでもフラれたんだろう。旅に出る理由としてはもっともらしい。そういうことにしときな。」
「まあ、そんなとこだね。」と、娘は男の軽さがむしろありがたかった。
「俺はこれから韓国に帰るとこだ。なあ、どうせなら俺と一緒に韓国へ行かないか?」
「ハングルできないのに?」
「君だってそうだろ?俺たちはいろいろ同胞なんだ。楽しい旅になるよ。」
「あなたは韓国に帰るんでしょ。私は帰るとこなんてないもの。」
「違うよ。俺たちには日本にも韓国にも帰る場所があるんだ。俺たちは自由に選べるんだ。だから俺と一緒に韓国へ行こう。」
「私には決められないわ。」
「よし、なら決まりだ。持つべきものは同胞なんだよ。ソウル行きは二十四時-。」
 しかし娘は、ラウンジでひとり夜明かしだった。
 朝の七時-。
 出国審査場で、娘は外国人用ゲートの列を進んだ。
「どちらまで。」
「どちらでも。」
 日本よりも韓国よりも遠いどこかへ、飛んでゆきたかった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

残業で疲れたあなたのために

にのみや朱乃
大衆娯楽
(性的描写あり) 残業で会社に残っていた佐藤に、同じように残っていた田中が声をかける。 それは二人の秘密の合図だった。 誰にも話せない夜が始まる。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

処理中です...