Bar Dis-moi

うたこ

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コープス・リバイバー

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 兄の遺品を取りにきた、という客が店に入って来たのは十九時過ぎだった。
 いかにも会社帰りといったビジネススーツ姿の若い男で、二十代前半に見える。学生と言っても通じそうだ。大学生の僕と歳はいくらも違わない。僕のアルバイトをしているこの店は雑居ビルにあるバーだ。本格的なオーセンティック・バーではなく、気楽にカクテルが飲めるカジュアルな店。値段もお手頃だ。
「半年くらい前にこちらに預けたと兄から聞いているんですが」
 店のマスターのせいさんが少し首を捻った後、あぁと頷いた。
けい君、事務所の金庫の中にあると思うから持って来てくれるかな。小さな茶封筒なんだけど。宛名とか差出人とかは書いてないけど見れば分かると思う。一番下の段の箱に入っているから」
 世間には、バーテンダーというと影に徹するイメージがあるが清さんは真逆だ。髪色は明るいし、先っぽをピンク色に染めている。普通の男ならチグハグになりそうなその派手なヘアカラーが似合ってしまうほどの美形だ。影どころか居るだけで場がぱっと華やぐ。このバーのカウンターでは、お洒落なカクテルを奢って女性を口説こうとしても、女性の視線は大抵清さんの美貌にいってしまう。男性が見惚れている姿もしょっちゅう見かける。しかも物腰穏やかで、よく響く良い声だから常連客からはバーテンダー失格の烙印を押されている人だ。でも僕にとっては良い上司。
 清さんのお願いに「はい」と返事をするとお客さんの方は、ちょっとぎょっとしたような顔をして僕を見た。
 あぁ、今まで僕がいることに気付かなかったか。無理も無い。
 清さんと真逆で僕はとっても地味だ。存在感がありすぎるマスターと対照的に、僕は気配がしないのが長所であり短所なので。名は体を表すとはよく言ったもので、氏名もどこにでもいるような山崎継というものだ。子どもの頃から、存在を忘れられていることがよくあった。幼い時にはそういう対応をされる度に傷ついていたけど、もう慣れた。祖父はそれは持って生まれた貴重な才能だとも言っていたし。
 そんな影どころか煙みたいな存在の僕はするっと事務所にいって金庫を開ける。一番下にお煎餅か何かが入っていたであろう缶の箱があった。
 マスターには、見た目洋風の派手派手なのに、こういうおばあちゃんみたいとこある。
 開けるとはがきや封筒がいくつも入っていた。だけど、茶封筒は一つだけだ。封はしっかりしてあるが、薄い封筒だったから光に透かせば、うっすら中身が見えた。手紙らしき紙と、小さな固形物がある。封筒の外側から触れてみると硬い。
「遺品……?」
 まさか骨の欠片とか?
 預けたのがあの人のお兄さん本人ならそれはないか。
 遺品ってなんか大事な物のイメージがあるけど、どうしてこんな安っぽい封筒に入っているんだろう。
 封筒を持って店内に戻ると、お客さんはカウンターの椅子に腰掛けていた。手元にはドリンクが置いある。どうやら話をしていくらしい。きっと清さんに誘われたんだろう。  バーはお酒を飲む場所でもあるけれど、ちょっと浮世を忘れる所でもあるしね。遺品をバーに預けるなんてちょっと風変わりなことなのでどんな話が聞けるのかとちょっと楽しみになってきた。

 お客様のものなので、僕は丁寧に封筒を男性に差し出した。受け取りながらありがとう、と少し笑ってくれたけど無理矢理作った作り笑いで、声に元気は無く、覇気もない。
 受け取ってしげしげと封筒を見つめる。
「遺品なんて言うからなにか凄い物が出てくるのかと思ったけど」
 それでもペラペラの封筒を優しく両手で包むと目を閉じて息をついた。
 目を開けたときには少し目に光が灯ったような気がした。茶封筒でも彼にとっては大事なものなのだと伝わってきて、透かして見るようなマネをしたことをちょっと反省する。
 遺品と言うより家族に宛てた遺書みたいなものかな。
 テーブル席のお客さんに呼ばれたのでそちらで注文を聞いてカウンターに戻ると、男性はだいぶ緊張が解けたようで表情が柔らかくなっていた。清さんと世間話でもしていたんだろう。清さんの声にはそういう魅力がある。
 唇の端を上げて笑顔を作るとグラスを手に取って、彼は話し始めた。
「兄には付き合っている女性が居ました」
 少々の喧噪とBGMのジャズの音。それに混じって聞こえる男性の打ち明け話にそっと耳を傾ける。テーブル席の注文品であるサンドイッチを作るために薄い食パンにバターを塗りながら。
 小野田と名乗った男性はそう言って、出されたカクテルを一口飲んだ。大きめのグラスに入っている。長い時間をかけてゆっくり飲むタイプのロング・ドリンクだ。このタイプのカクテルは基本的にアルコール度数は低い。色味と飾りを見るにあれはカンパリオレンジかな。メジャーどころなので初心者も安心。苦くて甘くい、だけど後味のさっぱりしたカクテルだ。
 バーテンダーは話を聞くのも仕事、というのはよく言われることだけど、このバーでも変わらない。
 幸い今日は常連客もまだ来ていなくて、テーブル席はいくつか埋まっているもののカウンターも空いている。聞いているのはバーテンダーだけだから、小野田さんも話しやすいだろう。
 お兄さんが遺品を店に預けたということは、彼のお兄さんも清さんを信頼していたということになるし。清さんだから話せるってのもあるだろうから、僕は聞いていないフリをする。元々存在感が無いけれど。
「まだ二十代で兄は胃がんになりました。ちょっと胃腸の具合が悪いみたいなことをずっと言っていたんですが胃薬を飲んで様子を見ていたんです。いつの間にか手遅れになってたって感じで。これはおかしいと気付いた時には全身に転移していました」
「聞いた話では、若い人の癌は遺伝的要素が大きいそうですね」
 小野田さんは寂しげに頷いて、グラスを揺らす。氷がカラカラと鳴った。
「兄以外は歳をとってからですが、うちの家系には癌で死んだ人間が多いです」
 苦しそうに眉の間に皺を寄せる。闘病中のお兄さんを思い出しているんだろう。
「問題の彼女との付き合いが始まったのは、兄の病気が分かってからです。病院の待合室で一目惚れをしたとかで、あちらから熱心に交際を申し込まれました。兄は大分渋ってはいたんですが最後は押し切られました」
 付き合っていた人が病気になったというのは感動系にありがちな設定だけど、病気の人間に言い寄る人間もいるのか。病院で運命の人に出会ったけれどその人は不治の病に冒されていた、か。なるほど、そういう話しもあるかもしれない。
 小野田さんの押し切られた、という言い方にひっかかる。胸の内がざわざわする。
 いくら好きになったとはいえ、明日をも知れない身の人間が断っているのに交際を迫るというのは僕には理解できない。お兄さんが恋愛脳で、人生の最後に熱烈に愛されたら嬉しいと思っていたなら話は変わるかもしれないけど、小野田さんの話からそういう感じがしない。
 恋は盲目、という言葉が浮かんだ。僕だってわりと自己中心的な恋をしている自覚はあるので、薄くスライスされたキュウリを食パンに並べながら少し反省する。諦めるつもりは毛頭無いけど。
「もう兄の命は長くないと、誰の目にも明らかになった頃……だいたい半年前くらいでしょうか」
 清さんが目を伏せた。長いまつげの影が顔に落ちる。同性の僕から見ても蠱惑的だと思う。美男は憂いを帯びると魅力が増す。
 半年前というと、僕がこの店でアルバイトを始めた頃だ。ちょうど入れ違いになったみたいで、僕はそのお兄さんとやらに会った覚えがない。
 でも、清さんはよく覚えているみたいだ。死相が見え始めた頃の小野田さんのお兄さんを。遺品を受け取っているのだし、どこか痛いような顔をしている。お兄さんが元気な頃しか知らないなら、こんな顔はしないだろう。
「兄が私に自分の遺骨をダイヤモンドにしてくれと言ってきたんです」
「ダイヤモンド? 骨をですか?」
「あるんですよ、そういうサービスが。本当に遺骨をダイヤモンドにしているのかどうかはわかりませんが。遺体は高熱で焼かれるから無理だって話もありますし」
 ダイヤモンドは炭素の結晶というのは義務教育で習った。それなら、人間の遺骨から採れる炭素で人工ダイヤモンドも作れるってことかな?
「本当は遺骨を使っていないただの人工ダイヤかもしれません。でも私には真偽はわかりませんから。兄の最後の望みを断るのも忍びないですし」
 カンパリオレンジを小野田さんが一口飲む。
「それで、お付き合いをしているのだから当然といえば当然ですが、その彼女が兄のダイヤモンドを欲しがりました。決して彼女が兄のことを好きでは無かったとは思っていません。面会も頻繁に来てくれて、兄の話し相手になってくれていましたし。ただ……」
 小野田さんがそこまで言って、言葉を濁した。
 死んだ恋人の骨をダイヤモンドにして身につける。ロマンチックなことだ。女性にとってはラブ・ロマンスとして素敵なエンディングかもしれない。
 小野田さんの言い分しかわからないから実際どうだったのかわからないけど、なんだか僕もその女性の行動にうっすらとした苛立ちを感じた。話し方からして、お兄さんがダイヤモンドを渡したかったのはその女性ではなく弟の小野田さんではないのかと思えたからだ。
 誰かに内心を見せるわけにもいかないので、ゆで卵にそれをぶつけて包丁で粉々にする。
「私には、彼女は兄よりも可愛そうな自分が好きなように見えてしまっていました。恋人を失うという状況に酔っているんじゃないかと思ってしまったんです。もしかしたら兄も彼女を愛していたのかもしれないですが」
 小野田さんが首を横に振る。
 僕もわからない。彼女さんとやらがどんな人かも知らない。ただ、小野田さんはお兄さんとお付き合いをしていたという女性を快くは思っていないのは、わかる。仲の良い兄弟だったんだろう。
 小野田さんの話の中で、お付き合いしていた女性の行動が伝聞になっている部分がほとんどない。見ていたのだ。病院で告白をしてきたところから、小野田さんが自分自身の目で。病気のお兄さんに最初から寄り添っていたのは小野田さんだ。
 彼はお兄さんのことを大切に思っていた。
 どういう種類の愛情なのかまでわからない。家族愛、兄弟愛、もしくはそれ以上の何か。どれかは知らない。でもお兄さんに対する愛心がそこにある。
 僕なら残り少ない一緒に過ごせる時間を奪われたように思ってしまうかも知れないな。
 粉々になった卵をボールに入れて塩胡椒を振ってマヨネーズをざっと入れてぐるぐるかき混ぜる。
 清さんは、穏やかな笑みを浮かべつつ寂しそうな顔をしているだけで何も言わない。バーの照明で青くて静かな影がその綺麗な顔に落ちてはいえるけど。
「遺骨からダイヤモンドを作ってくれる会社は海外にあって、スイスとか色々あるんですが兄が選んだのはアメリカの会社です。そこが一番融通が効くとかなんとかで。石にしてから加工もするので作るのに時間がかかって、半年ほどかかって先日石が手元に届いたんですが」
 小野田さんの唇が歪んだ。
「彼女、恋人ができたのでダイヤモンドを受け取ることができないってメールをしてきました」
 ―― は?
 盗み聞きをしている身だから、なんとか声は抑えたけど卵をかき混ぜていた手は止まってしまった。その彼女さんは病院で出会って、献身的に病室に通って、美しき悲恋の物語を完成させるんじゃなかったのか?
 いけない、いけない。バイトとはいえ、バーのカウンターの中にいるんだからここは平常心を保たなくては。
 幸い小野田さんは僕の様子には全く気がついていない。
 できあがった卵サラダとハムを食パンの上に乗せて、耳を落として一口サイズの三角に切る。見栄え良く皿に盛って、プチトマトを添えて、僕は一時、カウンターから離れた。サンドイッチを注文した男女の客のテーブルに丁寧に置くと、女性が笑顔になった。デートだろうな。二人とも表情が明るい。
「何か、飲み物も欲しいな」
 言って、テーブルの上に置いたメニューを見ながら首を傾げる。
 最初に頼んだドリンクは空になっているから、グラスをトレイに乗せて回収する。僕はバイトなので素人考えだけど、サンドイッチと一緒に飲むならあんまりアルコールが強くなくてスイーツ感の強くないものが良い。デートなら、お酒はほどほどの方がスマートってものだ。
「紅茶リキュールをベースにしたダージリンクーラーなどいかがでしょう?」
 シェイクもするから、わりとバーっぽいし何より飲みやすい。
「それお願いします」
「俺も同じのをお願い」
 ほっとしたようにそう言った男性もこういった場所には不馴れらしい。もちろん、笑顔で注文を受ける。
「かしこまりました」
 お辞儀をして回れ右。
 ダージリンクーラーはビールより少しだけ強い程度のアルコール度数で、ほんのり甘いカクテルだ。炭酸入りでカジュアル。僕はわりと好きな味。最初のデートにはちょうど良いカクテルだと僕は思う。離れたばかりのお客さんの笑い声が耳に心地よく届く。社会人という感じはしない。自分と同じ大学生くらいかな。
 カウンターに戻って僕に作れるのはサンドイッチだけなので、清さんにそっと注文を告げて棚から材料をカウンターに並べていく。グラス、氷、それからリキュールとジンジャエールとレモン果汁。
 その間、ちらりと小野田さんを見ると、黙ってグラスの中の氷をカラカラと揺すりながら、じっと封筒を見つめていた。

 清さんが流れるようにリキュール類をメジャーカップからステアグラスに移した後にシェーカーへ注ぐ。どことなくマジシャンのテーブルマジックを連想させるような目を引きつける動きだ。バーらしい音に惹かれて、シェーカーを振る清さんをテーブル席の二人も身を捩って見ている。何かささやきあっていて、すっかり二人の世界だ。
 カップルの楽しそうな様子を見ていて、もしも大学の女友達から小野田さんの話を聞いたら違う印象を持ったのではないかと思った。話を聞くに、彼女は恋に恋する乙女だろう。
 ―― とても素敵な人と出会ったの。でも彼は病気だから、私が心を支えてあげないと。
 そんな話を連日聞きつづけて、とうとう彼が亡くなってしまって泣いてる彼女を慰めたりなんかして、半年後に「好きな人ができた」って聞いたら。僕はきっと「良かったね」と言う。若者にとって半年という年月はそれなりに長い。彼女は半年、喪に服したのだと考えるだろう。
 彼女の物語の中で小野田さんはおそらくサブキャラクターだ。もしかしたら視界にすら入っていないかもしれない。僕も好きな人の家族は存在こそ知っているが、そんなに意識はしない。
 シェイクされたリキュール類をグラスに入れて、ジンジャエールを注いで魔法を掛けるようにバースプーンでくるくると回す。最後にレモンの輪切りを飾って完成だ。
「兄もここに来ていたんですね」
 胃が病に冒されていたのなら、酒を飲むことはなさそうだけど。
「はい。実は私、お兄さんとは高校の同級生で」
「成る程。酒は苦手だったのにどうして遺品をバーに預けたんだろうって不思議だったんです。カクテルって作っているのを見ているだけで楽しいものなんですね」
「恐れ入ります」
 二杯目のダージリンクーラーのために清さんが再びシェイカーを振る。
「では、封筒、開けていただけますか?」
 鮮やかにカクテルを作り上げた清さんが小野田さんに微笑みかける。
 清さんはあの封筒の中身、知ってるんだ?
 出来上がったカクテルをテーブルまで運んで慌ててカウンターまで戻ってくると、小野田さんが封筒から一枚のチケットのような紙を出しているところだった。小さな小さな何かが落ちる音も聞こえた。
「継君、お酒の準備をお願いします」
 取り出されたチケットが小野田さんから清さんに渡されて僕の手元に来る。
 カクテルの名前が書かれていた。
「これは、小野田さんにとっては呪いになってしまうかもしれませんね。彼からの本当の遺品はこちらです」
 コープス・リバイバー。
 死者を目覚めさせると言われているカクテルだ。
「カクテル言葉というのがあります。バーにはデートで来る人も多いですから、告白とかプロポーズに使う人が多いですね。ほとんどはロマンチックなものです。でも、中には少し怖いものもあります」
 清さんが、テーブルに落ちた何かを指先で拾う。
「コープス・リバイバーのカクテル言葉は ―― 死んでもあなたと」
 拾った何かを小野田さんに渡す。
「これは……ダイヤモンド?」
「彼女さんが要らないというのなら、これは無駄になってしまったようですが」
 笑って清さんがショート・グラスを取り出したので直ぐにカウンターの後ろから材料の異なる二種類のブランデーとスイート・ベルモットを取り出す。コープス・リバイバーには何種類か作り方があるが、紙に書かれているのはNo.1の数字だ。
「兄が作らせたダイヤモンドとだいたい同じ大きさですね」
「カットもほぼ同じのはずです。そう依頼したと私は聞いています」
 小野田さんの指先で小さな石が光っている。
「この石を受け取ったのは病院で、もう彼には字を書く力も残っていなかった」
 だから茶封筒に入っていた。病院で手に入れることができる封筒はこれだけだったから。
「最後のわがままで、そして彼の賭けだったんです。貴方の側に居たいが、重荷にもなりたくないと言っていました。だから小野田さんに選んでもらうことにしたんですよ」
「選ぶ?」
「えぇ。彼女にそのダイヤモンドを渡して、遺骨から作ったダイヤモンドを貴方の手元に置くか、それとも約束通り彼女に遺骨のダイヤモンドを渡すのか。資産になるほどの石じゃないですけど、天然ダイヤですから売れば多少のお金にはなります。前者の場合は嘘をついた罪滅ぼしにする気だったんでしょう」
 清さんが、ショートグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
 アルコールの濃い香り。
「彼は貴方のことが好きでした。家族の愛情という意味ではありませんよ? 貴方を愛していました。だけど、その想いは色んな問題があるから口にすることはできません。ご存じの通り、倫理的にも、常識的にもちゃんとした男です。良いヤツでしたから、すごく悩んでました。学生の頃から。私はそれをずっと見ていた」
 実の兄弟に恋愛感情……?
「まさか病床で女性と付き合うことになるとは思わなかったけど、もしも彼の気持ちを貴方が知っていても、これで死ぬ前にそれを清算できると考えた。兄の態度は気のせいだったんだと思ってくれたら良いと言っていました」
 小野田さんが目を見開く。
「でも、自分の死を目の前にしてそれも揺らいでしまったんです。貴方には幸せになって欲しい、だけど自分のことを忘れないで欲しい。彼はまだ覚悟を決めて悟るには若かった」
 レモンピールを酒の底に沈めて、清さんが優しく小野田さんの前に置く。
「カクテルの指南書であるハリー・クラドック氏のカクテルブックには、コープス・リバイバーの説明に【午前十一時前に飲めば、必要な強さとエネルギーがすぐに】という記載があります。今は夜ですけど。死体すら起き上がる、目覚めの酒です」
「目覚め?」
 小野田さんがグラスを手に取る。
「そして【立て続けのコープス・リバイバー四杯は、死体を再び殺すだろう】と続きます」
 お兄さんの人生にとって、彼女は大事な脇役だったんだ。お付き合いをしたのは、弟に重荷を背負わせないためのカモフラージュ。想いを告げられない恋だから。
 大事な弟が兄の気持ちを知ってその死に囚われないように。
 うまくはいかなかったようだけど。
 小野田さんが、ショートグラスを少し傾ける。
 アルコールが得意じゃければかなりキツい。それでも小野田さんはゆっくりゆっくりそれを飲んでいく。ブランデーをベースに、さらに林檎を主原料とするブランデーのカルヴァドスを加えてスイートベルモットを入れステアする。甘みもあって飲みやすいとはいえアルコール度数は三十三度ほど。
「病院でダイヤモンドを用意することはできない。この石はバーテンダーさんのものでしょう?」
 小野田さんがほんのりと赤くなった。
「このアイディアを考えたのは彼ですよ。私のものじゃありません。ただ、ダイヤモンドを用意して遺品として保管していただけ。これはそのままの状態でお渡ししなくてはいけないものでしたから。チケットを入れたのも、封をしたのもお兄さんです」
 文字が書けないほど弱り切って、病床で死んだ後も弟と共にいることを望んでいた。だけど言い出せなかった人の気持ちを考える。窓からは何が見えただろう。白い天井を見ながら何を思っただろう。愛する人の幸せを望みながら、それが辛く、そして、自分には未来が無い。死神の姿も見え隠れしていただろう。
 それでも諦めるんじゃなくて、賭けに出たのか。
 小野田さんの側にいたくて。
「これはお返しします」
「ダイヤモンドのお代はいただいていますので」
 本当だったら価値があるはずの天然ダイヤを小野田さんには無用のものらしい。
「じゃあ、これをコープス・リバイバーの代金にします。私はあまり酒が得意じゃないから、また次の機会に……あと二杯ほど」
「二杯ですか?」
「えぇ、三杯目は要りません。今日のも入れたら四杯になってしまいます」
 酔ってはいるだろうが、小野田さんがきっぱりと言った。
「兄は目覚めたのでしょう?」
 小野田さんの目が潤んでいるのは、アルコールのせいなのかそれとも別の理由なのか。
「兄の話を聞きたい。次は連れてきます」
 うっすらと涙が浮かんでいても、来店した時とは変わって小野田さんの表情は明るい。
「お待ちしています。私も久しぶりに会えるのが楽しみです」
 そう言って、清さんはダイヤモンドを受け取った。
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